「はぁ……凄かったなぁ」

 琴葉が大きな溜め息を吐いてから、コーヒーを啜った。
 映画を見終えてから、ブックカフェにて映画の余韻に浸っていたのだ。

「まさか、主演女優と助演女優の立場が入れ替わるとは思ってなかったよ……」
「原作好きにもオススメって宣伝されてた理由がよくわかったな」

 先程二人で見た映画『記憶の片隅に』は原作では負けヒロインだった女の子が最後に逆転勝利を勝ち取る、というものだった。原作が好きな人からすれば批判が殺到しそうな内容であるが、脚本や演出が良い事もあって、その結末に不自然さがなかった。映画を見た者であれば、誰もがその結末に納得してしまう内容だったのである。
 特に印象的だったのが、原作になかったヒロイン二人の舌戦だ。まるで本心から言い合っているのではないかと想うほど魂が篭もっていて、演技だとわかっているのにハラハラしてしまった程である。役者は凄いなと思わされた瞬間でもあった。

「あの二人の女優は人気出そうだね」
「あ、わかる」
「海殊くんはどっちが好き?」
「そうだな-……」

 映画を見た後で、その感想を言い合う──デートらしいといえばデートらしい。
 本にせよ映画にせよ、ひとりで見て自分の中だけで感想を抱き、物語を自己の中に咀嚼していくものだと思っていた。こうして誰かとその内容について語り合うなど、海殊のこれまでの人生にはなかった事だ。

(悪くないよな、こういうの)

 コーヒーとケーキを楽しみながら、映画の感想を言い合って、また盛り上がる。そして二人だけの時間が積み重なっていって、それは記憶となっていく。
 作品など自分の中だけで完結していればいいと思っていた海殊の人生観を変えた瞬間でもあった。

「それにしても、凄いお店だね」

 映画の話がひと段落したあたりで、琴葉は店内を見渡した。
 店内を覆うように本棚が並んでいて、旅からエコロジー、哲学、ヒッピー文化など、マニアックな香り漂うラインナップの書籍で埋め尽くされている。
 彼らがいるブックカフェは『漂流舎』と言い、木目調の壁と丸窓が印象的で以前から海殊の目を惹いていた。ブックカフェなど彼も初めてであったが、一度は訪れたい場所だったのである。
 ドリンクやフードを頼めば、これらの本は読み放題だ。自席で読むもよし、店内のベンチやロフトで読むもよし、本について他の来店客と語り合うもよしで、かなり自由な空間な様だ。ちなみに、値札がついている本は買う事もできるらしい。

「いいだろ? まあ、俺も初めて来たんだけど。前から来てみたくてさ」
「うん、とっても素敵。ずっとここにいたくなっちゃう」

 琴葉はくすくす笑って、一番近くにあった本棚から哲学書を手に取り、ページをめくった。
 このブックカフェも予め海殊が下見していた。下見では場所の確認だけしかしていなかったが、内装などは既にSNSで確認済である。
 何となく本好きはこういった内装が好きなのではないかと勝手に思っていたのだが、予想通り琴葉も気に入っている様だ。
 それから二人で店内を見て回り、面白そうな本があると紹介し合うなどして、楽しい時間を過ごした。結局帰り際に気に入った本を買ってしまっていたが、これは読書好きの(さが)だ。
 外に出ると、時刻は七時前。夏と言えども薄暗くなっていて、昼間にあった蒸し暑さが消えていた。

「そろそろ帰ろうか」

 海殊がそう言って歩き出した時、「あ、待って」と琴葉が呼び止めた。振り返ると、彼女は少し悪戯げな顔をしていた。

「最後にあそこ行きたい」
「あそこ?」
「私達が出会った場所」

 その言葉で想い当たる場所は、一つしかなかった。

「……あの公園か?」
「うん」

 海殊の言葉に、琴葉が嬉しそうに頷く。

「何でまた」
「なんとなく」
「何だよそれ」
「だって、デートだし」

 なんとなく、と、デートだし、の間に全く繋がりを感じなかったが、きっと突っ込んではいけないのだろう。
 海殊は反論を諦めて肩を竦めてみせると、歩く先を変えた。
 家に帰るにはほんの少し遠回りになるが、それほど遠い場所でもない。家に着くのがほんの少し遅くなる程度だ。
 それから大通りを抜けて閑静な住宅街を歩く事一〇分、その場所は見えてきた。
 何もない寂れた公園。木々が生い茂っていて、錆びてはいないが、少し古そうな遊具しかない。子供達が遊ぶ場所とも思えなかった。
 そして──彼女はそんな公園のベンチで、ひとり寂しそうに座っていたのだ。
 琴葉は黙ったまま自らが座っていたベンチまで歩み寄ると、手のひらで撫でた。

「……何でここだったんだろうね」

 琴葉が唐突に謎の言葉を発したので、海殊は思わず「え?」と顔を上げる。

「ううん、何でもない」

 彼女は首を横に振って力なく笑うと、ベンチに腰かけた。
 海殊も何となくそのベンチに近寄って、彼女の隣には座らずに公園を見渡した。
 まだそれほど遅くないはずなのに、周囲に人はなく帰宅する人達も見受けられない。
 もしここで一人ぼっちで座っていたとしたら、どんな気分だろうか。世界に取り残された気分になるのではないか。そして、あの時の琴葉は──そんな気分だった様に思うのだ。
 出会った当初の儚げな彼女の横顔を思い出して、思わずそんな事を考えてしまっていた。

「ねえ、海殊くん」
「ん?」
「ちょっとしたファンタジーな質問していい?」
「ファンタジー? まあ、いいけど」

 海殊も琴葉の隣に腰掛けて質問を待っていると、彼女は小さく深呼吸をしていた。

「もし、ね?」

 彼女はそう前置いてから続けた。

「もし、ある時目覚めたら、自分が全く別の場所にいて、自分がいた時代とも少し違っていて……頼れるものとか何もなかったとしたら、どうする?」
「めちゃくちゃファンタジーだな」
「だから、ファンタジーな質問って言ったでしょ?」

 琴葉は困った様に笑ってから、少し首を傾けた。

「うーん……自分の知り合いもいないってこと?」
「うん、誰も知ってる人がいない場所なの。お金とかスマホももちろんないよ?」
「それはきついなぁ……とりあえず近くに優しそうな人がいれば頼って現状を把握するかなぁ」

 周囲に知り合いもいなくて、時代も違って、持ち物がない上に頼れるものないとなると、かなりの一大事だ。困惑するしかないが、困惑していて辞退が好転するわけでもない。
 とりあえず情報を収集するしかないだろう。

「で? お前は、自分を知ってる人の場所のところに帰らなくていいのか?」

 海殊は訊いた。それは『家に帰らなくていいのか』という問いでもあった。
 琴葉がうちに泊まる様になって、数日が経っている。その間は学校にも行っているが、彼女の親から学校にコンタクトがあったわけでもなければ、捜索願いを出されているわけでもない。
 彼女の日常は海殊と共にあって、そこから彼女の以前の日常を何一つ感じられなかった。

「……帰れないんだと思う」

 少しの沈黙の後、じっと公園の街灯を見つめたまま、琴葉はそう漏らした。

「帰れないから、私はきっと……ここにいるんだよ」

 誰に言っているでもない言葉。それは独り言の様にも思えたし、海殊に言っている様にも思えた。
 琴葉はたまに、よくわからない事を言う。文学少女だからそういった哲学的な言い回しが好きなのかなと思っていたのだが、彼女の言葉の節々にはどこか哀愁が漂っていて、どうしてか引っかかりを覚えるのだ。
 少しの間だけ二人とも黙っていると、琴葉が立ち上がって「帰ろっか?」と微笑みかけてきた。
 そこにはいつもの琴葉がいて、先程の哀愁さは感じなかった。

「ねえ、海殊くん」
「ん?」

 海殊がベンチから立ち上がると、彼女は彼の方に振り返った。少し照れた表情をしている。

「手、繋いでみたい」
「は!?」

 唐突なお願いに、吃驚とした声を上げた。

「男の子と手繋いだ事ないし、せっかくの人生初めてのデートだし……手繋ぎくらいはクリアしたいなって。ダメ?」

 初めてのデートで手を繋ぐ必要があるのか、と疑問は持った。ちょっと論法が強引な気がしなくもない。

「そんな大事な役割を俺に任せていいのか? 将来の彼氏とか、好きな人とか……そういう、大事な人との時の為に取っておいた方がいいんじゃないか」

 海殊としては、至極当然な返答をしたつもりだった。
 そういう『初めて』は本当に大切な時の為に取っておいた方が良いと思うし、何なら海殊にとっても初めてだ。高校三年まで生きてきて、女の子と手すら繋いだ事がない。

「ううん」

 琴葉は首を横にふるふると振って続けた。

「海殊くんがいいの」

 そう言った時の彼女は嫣然(えんぜん)と微笑んではいるものの、どこか悄然(しょうぜん)としていて寂寥感をはらんでいた。そんな顔をされて、断れるわけがなかった。
 海殊としても、何か不満があるわけではない。彼女と今日一日を過ごして楽しかったし、もっと近づけるものなら近付きたいと思っていた。
 だが、彼女が時折見せるこの寂しそうな表情に、どことなく不安を感じるのだ。まるでいつかいなくなってしまうのではないか、と思わされる様な儚さを常に纏っているのである。

「……ほら」

 海殊は溜め息を吐いて、そっと手を差し出した。

「わ、やったっ」

 琴葉は少しだけ大袈裟に喜んで見せてから、遠慮がちに彼の手を握った。海殊も同じく遠慮がちに、そっと彼女の手を握り返す。
 琴葉の手はあたたかくて、その体温が彼女の持つ儚さを否定してくれている様な気がした。
 家までの道のりを、二人で手を繋いで帰った。
 道中、ずっと心臓が高鳴りっぱなしで手汗の心配ばかりしていたけれど、それは海殊が経験した事がない時間だった。