今朝も、わたしは鏡を磨く。
心を込めて、丁寧に。曇り一つない鏡を目指して。
朝の掃除が持つ意味は、清め――いつかイトが教えてくれた。
あの言葉を聞いてから、わたしは鏡磨きがますます好きになった。
ぞうきん片手に、祈りを込めてわたしは鏡を磨く。
――今日も誰かの糸を解き、結び直してください。
この不思議な鏡の力を借りなければ、わたしにはできることなんて何もない。
最強のビジネスパートナー・イトが天国に旅立った今、この鏡だけが頼りだ。
それはわたしを救ってほしいという願いでもある。
磨き終えると、朝日が光る。清々しい朝の空気を取り入れて、店は浄化される。
気持ちよさに、わたしはぐるりと店内を見渡した。
店を彩るあまたのトルソーや什器たち。
フェミニン、モード、カジュアル……多様なニーズに応え、あえて様々な服を着せている。
見つめていると、店内に陳列された幾多のトルソーやラックに掛けられた洋服たちが、すべて人間のように見え始めた。
若い人、年をとった人。
華やかな人、地味な人。
小柄な人、すらっとした人。
みんな違う衣服を着ているだけで、誰もが現代社会の荒波を、苦しみながらも真摯に懸命に生きていることに違いはない。
その生き方に貴賤はない。
すべての全力で人生に向き合う人々に、ブティックという仕事を通して福を授けるお手伝いができれば、これ以上幸せなことはないだろう。
亡くなる数日前に、イトがそっと教えてくれた。
「絹子は――お前のおばあちゃんがどうして服屋を選んだか、最後に教えておこう。
絹子はいつも言っていた。『女性は意味もなく服を買いに来ない』ってな。
女性は『妻』に『母』に、たくさんの社会的役割を与えられて、滅多にその鎧を下ろす暇もない。
だけど、ブティックで服を選ぶその時間だけは、完全にその人のものだ。
鏡に向かって自分の体に好みの服を当てて、どれを買うか選ぶその時間だけは、本当に自分と向き合える時間になる。
自分の体、性質――延いては心の内側の声と向き合える時間に。
ブティックの仕事は、彼女たちに寄り添うことだ。
例えば、試着室の鏡を磨くこともそう。数少ない自分に向き合う機会に、曇った鏡は似合わない。
例えば、お客様の話を聞くこと。聞きながら、深く相手の心の底へと降りていくこと。
例えば、服の細部までお客様にフィットするものへと直すこと。誰かにとって唯一無二の一着に仕上げること。
サイズや好みに合う服を用意して売ることだけが仕事じゃない。
それができなければ巨大資本の前に倒れるだけだ。
結衣、お前にならこの店の未来を任せられる。俺はそう信じている」
そう言い切ったイトの顔は、今までに見たことがないほど、安心しきった穏やかなものだった。
わたしは、その期待と信頼に報いなければならない。
それはものすごく思いプレッシャーでもある。
何十年も続いたこの店を、未来へと受け継いでいくという事業の大きさに、足がすくむことだってある。
誰かの糸を解くために寄り添い、福と結び直す――わたしにならきっとできる。
その自信をくれたのも、他ならないこのブティックなのだ。
開店時間を迎える。
ドアが開き、今日一番のお客様が訪れる。
またもやご新規様だ。
どんなお客様との出会いがあるのだろう。
期待を胸に、わたしはドアに体ごと向き直り、お客様をお迎えする。
「いらっしゃいませ」
その時、お客様の背後――ドアの向こうで、店の前を白猫が横切っていくのが見えた。
その白猫が鼻高々にこう言っているのが聞こえたけれど、きっと幻聴だろう。
――俺のヒト化した姿は眩しすぎるからな。
【完】
心を込めて、丁寧に。曇り一つない鏡を目指して。
朝の掃除が持つ意味は、清め――いつかイトが教えてくれた。
あの言葉を聞いてから、わたしは鏡磨きがますます好きになった。
ぞうきん片手に、祈りを込めてわたしは鏡を磨く。
――今日も誰かの糸を解き、結び直してください。
この不思議な鏡の力を借りなければ、わたしにはできることなんて何もない。
最強のビジネスパートナー・イトが天国に旅立った今、この鏡だけが頼りだ。
それはわたしを救ってほしいという願いでもある。
磨き終えると、朝日が光る。清々しい朝の空気を取り入れて、店は浄化される。
気持ちよさに、わたしはぐるりと店内を見渡した。
店を彩るあまたのトルソーや什器たち。
フェミニン、モード、カジュアル……多様なニーズに応え、あえて様々な服を着せている。
見つめていると、店内に陳列された幾多のトルソーやラックに掛けられた洋服たちが、すべて人間のように見え始めた。
若い人、年をとった人。
華やかな人、地味な人。
小柄な人、すらっとした人。
みんな違う衣服を着ているだけで、誰もが現代社会の荒波を、苦しみながらも真摯に懸命に生きていることに違いはない。
その生き方に貴賤はない。
すべての全力で人生に向き合う人々に、ブティックという仕事を通して福を授けるお手伝いができれば、これ以上幸せなことはないだろう。
亡くなる数日前に、イトがそっと教えてくれた。
「絹子は――お前のおばあちゃんがどうして服屋を選んだか、最後に教えておこう。
絹子はいつも言っていた。『女性は意味もなく服を買いに来ない』ってな。
女性は『妻』に『母』に、たくさんの社会的役割を与えられて、滅多にその鎧を下ろす暇もない。
だけど、ブティックで服を選ぶその時間だけは、完全にその人のものだ。
鏡に向かって自分の体に好みの服を当てて、どれを買うか選ぶその時間だけは、本当に自分と向き合える時間になる。
自分の体、性質――延いては心の内側の声と向き合える時間に。
ブティックの仕事は、彼女たちに寄り添うことだ。
例えば、試着室の鏡を磨くこともそう。数少ない自分に向き合う機会に、曇った鏡は似合わない。
例えば、お客様の話を聞くこと。聞きながら、深く相手の心の底へと降りていくこと。
例えば、服の細部までお客様にフィットするものへと直すこと。誰かにとって唯一無二の一着に仕上げること。
サイズや好みに合う服を用意して売ることだけが仕事じゃない。
それができなければ巨大資本の前に倒れるだけだ。
結衣、お前にならこの店の未来を任せられる。俺はそう信じている」
そう言い切ったイトの顔は、今までに見たことがないほど、安心しきった穏やかなものだった。
わたしは、その期待と信頼に報いなければならない。
それはものすごく思いプレッシャーでもある。
何十年も続いたこの店を、未来へと受け継いでいくという事業の大きさに、足がすくむことだってある。
誰かの糸を解くために寄り添い、福と結び直す――わたしにならきっとできる。
その自信をくれたのも、他ならないこのブティックなのだ。
開店時間を迎える。
ドアが開き、今日一番のお客様が訪れる。
またもやご新規様だ。
どんなお客様との出会いがあるのだろう。
期待を胸に、わたしはドアに体ごと向き直り、お客様をお迎えする。
「いらっしゃいませ」
その時、お客様の背後――ドアの向こうで、店の前を白猫が横切っていくのが見えた。
その白猫が鼻高々にこう言っているのが聞こえたけれど、きっと幻聴だろう。
――俺のヒト化した姿は眩しすぎるからな。
【完】