「……というわけでできたのが、これか」

 翌朝、日が昇るとまたふらりと現れた化け猫……じゃなくてイトが露骨に白い目を向けているのは、わたしの”ひらめき”。

 適当なサイズに切り取った画用紙にペンと色鉛筆で手書きした「ポップ」だった。

「都会のアパレルショップにはないでしょ?」
「もちろんないな。都会どころか郊外のアウトレットモールにだってないだろ」

 ポップは数枚用意し、例えばこんなことを書いてみた。

――あのときの私を思い出して。

 その商品が流行していた頃の自分自身。
 今より輝いていたかもしれないし、今となっては笑い飛ばせるような些事で深刻に悩んでいたかもしれない。
 そんな過去の自分を思い出して、今、そして未来を生きる力にしてほしいというメッセージを込めたのだった。

「ヒントは、本屋さんだったんだよ。思わず戦後すぐの小説を買ったんだけど、というのもポップが秀逸だったからなんだ。こんなに豊かな時代を生きるわたしたちにも刺さる本だって思わせてくれた」
「戦後……時代を超えて……か」

 なんだかちょっといつもより湿っぽさ強めの表情を見せる。
 こういうときでもイトは美男子なのが腹が立つのだが。

 あれ、そんなにこの発想は駄作かしら?
 イトとしては気にくわないのだろうか。

 と思ったのだが、イトの答えは正反対だった。

「いいんじゃないか。しばらくそのまま展示してみれば」

 突き放すでもない、割と賛成色の濃い返事にひとまず安堵する。

「うん! 何枚もあるから貼ってみるね!」
「貼り終えたら必ず鏡を清めておけよ。昨日の毒っ気を吸い込んでいるかもしれないから」
「……わかった」

 毒っ気といわれるとちょっと尻込みしてしまう。
 確かに昨日のお客様はそろって深い悩みを抱えていたようだからだ。
 そして悩み苦しむ自己を鏡に映し出し、内面の対話を行っていた様子だ。
 それは自分の心の奥底深くにある無意識の自己と対峙すること。
 もうひとりの自己に絡みついた厄介な糸を認識することなのだ。

 わたしにも経験があるからわかる。
 一番目を合わせたくない存在。
 それは大嫌いな知り合いでもいじわるな先輩でもなく、自分自身の中に巣くう影の姿だ。

 だけどその影とも言える自分の姿を見つけたときに、その存在を否定してはいけない。
 認めたくない自分の姿をまるごと含めた存在が自分なのだ。
 そんな弱さや苦さを持つ自己を認められたとき、初めて人は自分に絡みついた糸を解くことができるのだろう。

 祖母は生前こう言っていた。
――誰かがその心に持つ結ぼれ心を解く手助けをしたいのだ、と。
 いや、手助けとは違う。

 所詮はブティック。
 手を差し出すなどという、それこそ差し出がましいことは慎みたい。
 ましてや糸切りばさみを持ち出して絡まった糸を断ち切るような真似など。
 我々には服を売ることしかできない。

 絡まった糸を強引に断ち切る北風も、手を積極的に差し出す太陽も、ブティックにはふさわしくない。
 できることは、ただ淡い月の光のような姿勢で聞くことだけ。

 そのことで、結果的にお客様の人生に生じていた綻びを繕ったり、誰かと誰かの人生を縦糸と横糸とを折り合わせるようにして結びつけることができるかもしれないが、最初から意図してそれを行うのではない。

 その祖母の遺志を受け継いでわたしは今朝も全身鏡を磨き上げる。
 誰かが自分自身の心と向き合う時間に寄り添えるように。