そこで彼女は――いや、【私】は消えた。
試着室には私しかいない。
そうだ――私しかいないじゃないか。私を愛することができるのは。
気づけば、嗚咽していた。
熱い涙が止まらなかった。鼻からも遠慮なく塩辛いものが流れ続けた。
こんなに泣いたのは、生まれたとき以来かもしれない。
どんなにつらいときでも、私は泣かなかったんだ。
ずっと私は私の感情を殺して、”影”として生きてきたのだから。
泣き終えたとき、ふと憑き物が落ちたように体が軽くなっているのを感じた。
爽快感とまでは言わないけれど、肩に乗せていた重いリュックを下ろしたような、むしろ羽が生えてきたかのような軽やかな身体感覚だった。
これを着よう、と思った。
手の中に握りしめていた、ただただシンプルなデザインの――だけど誰をも傷つけていないこの白シャツを。
無意識のうちに強く握りしめていたものだから、しわしわになってしまっている。
着ていた服を脱ぎ、シャツを頭から被る。
――優しいシャツだ。
エシカルな白シャツを着たとき、その優しさを肌で感じた。
体がこのシャツに関わった全ての人の優しさに包まれているような気がしたのだ。
労働者を守ろうという気持ち。
環境を守ろうという気持ち。
労働者が誰かのために懸命に汗を流す気持ち。
そのシャツの存在を世に広く知らせようとする気持ち。
最後に、見も知らぬ赤の他人の私を温かく包み込もうとするお店の気持ち。
その全ての優しさが、私の背中を押していた。
「もう自分を愛していいんだよ」と。
気づけば私は自分で自分の体を抱きしめていた。
鏡の中にも、手足を縛られず、自分の腕で抱きしめられて目を潤ませている私がいた。足下にはさっきまでわだかまっていた白い糸が束になって落ちている。
「大丈夫、私がついているから」
鏡の中の自分に向かって語りかけ、私は微笑んだ。
もう誰かの影になって生きなくていい。
解放され、私は私の人生の主人公となって生きるのだ。
試着室を出ると、猫と店員さんが私のことを待ち構えていた。
「白がよくお似合いですね」
店員さんの言葉に合わせて、猫が「にゃっ」と鳴く。まるで同意を示すかのように。
「……そうかもしれません。なんだか気に入ってしまいましたので、このまま買って着て帰りたいと思います」
「もちろん、構いませんよ」
会計を済ませ、古い服を袋に入れてもらっているとき、スマホが震えた。
見れば知り合いから誕生日を祝うメッセージがSNSに入っていた。
「そっか……今日、誕生日だったんだ」
全く意識していなかった自分の三十数回目の誕生日。
この世に悲鳴を上げながら、姉のあとからおまけとして生まれてきたこの日に、私は私にかけた呪いを解いたのだ。
ほんの小さな呟きだったが、聞き逃さなかった店員さんは、抽斗からカードを取り出した。
レシートに添えて、カードを差し出す。
猫と服のイラストが入った、可愛らしいバースデーカードだった。
「お誕生日、おめでとうございます。私が言うのも妙ですが――生まれてきてくれてありがとうございます」
生まれてきてくれてありがとう――こんなにも嬉しい言葉を聞くことなど、今までの人生にありはしなかった。
「ありがとうございます。おかげさまで、糸がほどけたようです」
きっと私は笑っている。
店員さんの笑顔が移って、まるで愛されて育った人のように私は笑えている。そんな自分を自覚した。
店を出ると快晴だった。
私たちが生まれた日も、こんな秋晴れだったのだろうか。
福を売る店――そんなSNSの噂を思い出しながら、店を振り返る。
気のせいだろうか、さっきまではいなかった男性がいるように見えた。
多分、目の錯覚だろう。
噂は本当だった。
あの店は間違いなく、ふつうのブティックなんかじゃない。
福をもらえるブティック。
山を下る信号待ちの間に、スマホのカレンダーに初めて自分の誕生日を登録した。
人生の新しいスタートを切ったこの日を、ほんものの誕生日として記憶に刻もう。
自分を愛し、他の誰かを愛することのできる人間になることを決意した日なのだから。
(4着目:完)
試着室には私しかいない。
そうだ――私しかいないじゃないか。私を愛することができるのは。
気づけば、嗚咽していた。
熱い涙が止まらなかった。鼻からも遠慮なく塩辛いものが流れ続けた。
こんなに泣いたのは、生まれたとき以来かもしれない。
どんなにつらいときでも、私は泣かなかったんだ。
ずっと私は私の感情を殺して、”影”として生きてきたのだから。
泣き終えたとき、ふと憑き物が落ちたように体が軽くなっているのを感じた。
爽快感とまでは言わないけれど、肩に乗せていた重いリュックを下ろしたような、むしろ羽が生えてきたかのような軽やかな身体感覚だった。
これを着よう、と思った。
手の中に握りしめていた、ただただシンプルなデザインの――だけど誰をも傷つけていないこの白シャツを。
無意識のうちに強く握りしめていたものだから、しわしわになってしまっている。
着ていた服を脱ぎ、シャツを頭から被る。
――優しいシャツだ。
エシカルな白シャツを着たとき、その優しさを肌で感じた。
体がこのシャツに関わった全ての人の優しさに包まれているような気がしたのだ。
労働者を守ろうという気持ち。
環境を守ろうという気持ち。
労働者が誰かのために懸命に汗を流す気持ち。
そのシャツの存在を世に広く知らせようとする気持ち。
最後に、見も知らぬ赤の他人の私を温かく包み込もうとするお店の気持ち。
その全ての優しさが、私の背中を押していた。
「もう自分を愛していいんだよ」と。
気づけば私は自分で自分の体を抱きしめていた。
鏡の中にも、手足を縛られず、自分の腕で抱きしめられて目を潤ませている私がいた。足下にはさっきまでわだかまっていた白い糸が束になって落ちている。
「大丈夫、私がついているから」
鏡の中の自分に向かって語りかけ、私は微笑んだ。
もう誰かの影になって生きなくていい。
解放され、私は私の人生の主人公となって生きるのだ。
試着室を出ると、猫と店員さんが私のことを待ち構えていた。
「白がよくお似合いですね」
店員さんの言葉に合わせて、猫が「にゃっ」と鳴く。まるで同意を示すかのように。
「……そうかもしれません。なんだか気に入ってしまいましたので、このまま買って着て帰りたいと思います」
「もちろん、構いませんよ」
会計を済ませ、古い服を袋に入れてもらっているとき、スマホが震えた。
見れば知り合いから誕生日を祝うメッセージがSNSに入っていた。
「そっか……今日、誕生日だったんだ」
全く意識していなかった自分の三十数回目の誕生日。
この世に悲鳴を上げながら、姉のあとからおまけとして生まれてきたこの日に、私は私にかけた呪いを解いたのだ。
ほんの小さな呟きだったが、聞き逃さなかった店員さんは、抽斗からカードを取り出した。
レシートに添えて、カードを差し出す。
猫と服のイラストが入った、可愛らしいバースデーカードだった。
「お誕生日、おめでとうございます。私が言うのも妙ですが――生まれてきてくれてありがとうございます」
生まれてきてくれてありがとう――こんなにも嬉しい言葉を聞くことなど、今までの人生にありはしなかった。
「ありがとうございます。おかげさまで、糸がほどけたようです」
きっと私は笑っている。
店員さんの笑顔が移って、まるで愛されて育った人のように私は笑えている。そんな自分を自覚した。
店を出ると快晴だった。
私たちが生まれた日も、こんな秋晴れだったのだろうか。
福を売る店――そんなSNSの噂を思い出しながら、店を振り返る。
気のせいだろうか、さっきまではいなかった男性がいるように見えた。
多分、目の錯覚だろう。
噂は本当だった。
あの店は間違いなく、ふつうのブティックなんかじゃない。
福をもらえるブティック。
山を下る信号待ちの間に、スマホのカレンダーに初めて自分の誕生日を登録した。
人生の新しいスタートを切ったこの日を、ほんものの誕生日として記憶に刻もう。
自分を愛し、他の誰かを愛することのできる人間になることを決意した日なのだから。
(4着目:完)