同じ母親の腹から、それも双子として生まれたというのにこんな仕打ちを受け続けながら生きなければならないなんて、胎児の頃の私が知る由もなかった。


 昭和某年、私たちは産声を上げた。

 出産に立ち会った父親がのちに、私の方が姉よりも元気よく泣いたと証言した。

 これから先の人生が惨めなものになるのではないかという漠然とした不安から、私は姉以上に大声で泣いたのだ。おそらく。



 午前十時、先に生まれた女児は、愛らしい名を与えられた。私の双子の姉だ。

 次に午後七時、九時間遅れで誕生した女児の名は――用意されていなかった。出産するそのときが来るまで、双子が誕生することを誰も予期していなかったのだ。

 産婦人科医もエコー検査も、私の母が双胎妊娠していることを見抜くことができなかった。

 後者では胎児の一人の後ろにもう一人が隠れて二人の影が重なってしまい、双子であることが確認できなかったようだ。

 小学生の頃、祖母に聞かされた。双子の胎児とはいえ、体の大小があるのだということも。


 母親の里帰り先の過疎化した村にある、戦後すぐから続く小さな産婦人科では、最新鋭のエコーなど到底用意されているはずもなく、双胎妊娠の見落としは致し方ないことなのかもしれない。

 ともかくその精密度の低いエコーは、新生児の名前の用意をする時間を、私の両親から奪った。

 したがって、私は誕生後しばらくは「ふたりめ」と呼ばれることになった。


 いや、私の両親が用意できなかったのは、「ふたりめ」の名前だけではない。

 彼らが準備し損ねたものを挙げようと思えばいくらだってある。

 「ふたりめ」の衣類や食器、ベビーカー、ベビーベッド、おもちゃ――いや、それらはごくごく些細なものにすぎない。


 彼らが真に用意し損ねたのは、物質でも、あるいは経済的余裕でもなく――


「ふたりめ」に与えるための、愛情だった。


 もとから一人っ子を希望していた両親にとって、双子の妊娠は寝耳に水だった。両親は子ども一人分の愛情をきっちりスプーンで計量し、用意していたのだから。

 そして残念なことに、彼らは計量済みの愛情を増やすことはしなかった。
 キッチンに砂糖は大さじ一杯しか準備されていないのだ。

 「ふたりめ」のために砂糖を追加することもなければ、大さじ二分の一ずつに砂糖を丁寧に分けることもしない。

 なぜなら彼らの作る料理には大さじちょうど一杯分の砂糖が不可欠で、少しでも砂糖が足りなければ味が狂ってしまうからだ。

 私の分の名前や愛情が用意されなかった全ての責任を、その田舎の古びた産婦人科に押しつけようとは思わない。

 望まなかった事態とはいえ、生まれた複数の子どもを平等に愛する義務が、大人にはあるはずだから。

 まともな大人なら、きっと平等に愛情を示すはずだから。
 しかし人間には血の繋がる人間を正当化したいという本能がどういうわけか備わっており、つい私は、自分が愛されなかった責任の幾ばくかを、今は廃業してしまった例の産婦人科に求めてしまうのだ。


 こういう親のことを「毒親」と呼ぶなんてことを知るのは、ずっと大人になってからだった。

 そしてもう立派に「大人」になった私は、とうとう決意した。

 毒親からも、「毒姉」からも離れて一人で生きることを。