ぐらぐらと水面に波が立ったかのように揺れて、鏡の中にはレザージャケットを着て彼に会っている私が映し出された。
 夕日を背にした私。赤い陽が後光となって私を照らしている。彼はそんな私を呆けたように見つめるばかり。

『お前、なんでそんな似合わない服着てんだよ。いつものおとなしくて可愛らしくて素直なお前でいいのに』

 たじろぎながらも、相変わらずの調子で私を傷つける。
 でも、私はもう可愛い人形のような人間なんかじゃない。

『もう私はあなたの支配は受けないわ』

 真っ正面から彼に高らかに宣言してみせる。

『私は誰かに従属したりしない。私は私の足で人生という名の山を登るの』

 そして最後に、こうきっぱりと告げる。

『さようなら』

 別れを告げる声で、鏡の映像は消えた。ただのよく磨かれた全身鏡へと戻ったのだ。

――不思議な鏡ね。

 でも怖くはなかった。
 むしろ、ありがとうと伝えたかった。

 試着室のカーテンを開けると、店員さんはさりげなく二者択一を提示した。

「どちらがお気に召されましたか?」

 あくまで確認だとでもいうような、自然な問い方だった。

「もちろん、このレザージャケットで」

 自信が自然と微笑みになっていた。すると、なんてことないような風で、

「骨格ストレートのブルベ夏ですもんね」

と微笑み返す店員さん。

 そうだよね、最初からわかっていたんですよね。
 だけど、何も口出ししないで、私が気づくのを待っててくれたんだ。

「ですよね……お会計をお願いします」
「承りました」

 会計を済ましている間に、きょろきょろと店内を見回し、イトを探す。
 しかしイケメンの白猫は、どういうわけだか見つからなかった。

 鏡と同様に、不思議な猫だ。
 あの猫は最初からわかっていたんだ。
 私の左脛にある痣のことを。
 私が心に抱えていた傷のことを。
 深い碧の目で見抜いていたんだ。

「ご来店ありがとうございました。お疲れが出ませんように」

 最後に店のドア先までお見送りされ、私は尋ねる。

「思いがけずいいお買い物ができました。ところで、イトちゃんは何歳くらいの猫なんですか?」

 特にこれといった意味はない質問だったのだが。
 さっきまでそつなく対応してくれていた店員さんが、ちょっと動揺したのがわかった。
 眉を下げ、明らかに困った、という風にして、

「さあ……野良猫なのでよくわからないんですよね。相当おじいちゃんだと思います」
「おじいちゃんなんですか!? あの見た目で」

 老猫には全く見えなかったので面食らう。

 ふと、道の先を見ると、若い男性がこちらを見つめていることに気がついた。
 肩まである髪は真っ白だった。
 遠目から見て、彼がなんだか怒っているように見えるのだが……。

「あの人、こっちを見ていますよ?」
「え? 誰かしら」

 道の向こうの――と指さそうとしたときには、もう誰もいない。

「……あれ、いなくなっちゃった」

 つくづく、不思議なことが起こる日だ。

「色々と、ご親切にありがとうございました」

 最後にお礼を告げて、バス停へと向かう。秋を予感させる風が心地よい。見上げると、雲は秋らしい刷毛で描いたような雲になっている。

 家に帰ったらすることはもう決まっていた。

 今、クローゼットに入っている服は全て、彼からの支配の象徴。
 その私に似合っていない服を全部捨てよう。

 卑屈で依存的な私に別れを告げるために、私はバスに乗り込んだ。

(3着目:完)