なんとなく久しぶりに山に登りたくて、仕事を休んだ。
 ほんの気まぐれだと思う。
 彼氏にも何も言わず、山へ行く。
 胸の片隅がチクリと痛んだが、ここで申告するとなおのことややこしいことになるはずだ。

 大学一、二年生のころは彼氏も含めたサークルメンバーでよく近隣の山を登ったものだ。
 かなり久しぶりの登山になる。
 一人でも問題なく登れそうな山を県内で選んだ。

 選んだ山の周辺は閑静な住宅地で、小さな商店もちらほら点在していた。
 九月の朝、通勤時間帯も過ぎたころだからか、人通りはほとんどない。
 シャッターが閉ざされた商店街を抜けて、登山道へのルートへ入る。
 ひょっとしたら何時になっても開かない店もあるのかもしれないが。

 その途中、可愛らしい白い野良猫を見かけてカメラのシャッターを切ろうとしたが、足早に逃げられた。あまり人慣れしていないのだろうか。
 その野良猫とは思えないほどの白さが妙に網膜に残ったまま、登山道を行く。

 登山のたびに頭の中で繰り返してしまうのは、やはり『草枕』だろうか。


『山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。
 情に棹させば流される。
 意地を通とおせば窮屈だ。
 とかくに人の世は住みにくい。』


「住みにくいなぁ、世の中って」

 情に棹さしてばかりいるからだろうか。子供の頃から損してばかりだった半生を思いながら歩いていると、あっという間に頂上に辿り着いてしまった。
 学生時代に登った山とは違い、初心者によく勧められる山なだけはある。
 運動不足の会社員の身には少し堪えたが。

 休憩しつつ双眼鏡で景色をぐるりと眺める。
 ふもとには湖、そのずっと先には田畑、学校、さらにその先には駅。
 別に取り立てて面白いものがあるわけじゃない。
 ごくごく普通の小都市の風景。
 でも、そんな退屈な小都市の風景を眺めるのが好きなのだ。
 特に、一人で眺めるのが。
――そう思うと、またもや胸の片隅がチクリと痛んだ。
 裏切っているような気がするのだ。

 そんな自分の心から目を逸らすかのように双眼鏡を覗き続けていると。

「さっきの商店街だ」

 さっき思ったとおり、やはりいわゆるシャッター商店街になっているのか、人通りは少ない。

「何か見て帰ろうかな」

 少しでも帰宅時間を遅くしたくてか、立ち寄ることにしてみた。

 何かに出会える予感がしていた――と言えばかっこいいのだろうが、その時は全くそんな予感はしていなかった。