くるっとその方向を振り返ると、

「にゃっ」

 イトがまたしても私を呼んでいる。

 その傍らには一台のトルソー。

 スポットライトが当てられているかのように、トルソーに目が釘付けになる。

――ヒロインが着ているワンピースじゃん……。

 レトロな趣のある、深い紅のフレアワンピース。
 大きな襟がいかにもお嬢様といった雰囲気だ。
 ウエストにはリボンが施され、ボタンはアンティーク調。

――ヨーロッパ風の世界観のゲームでヒロインが着ていてもおかしくないよ、これ。

 見ているだけでこんなにときめくことのできるワンピースがあるなんて。

 いつも通りかかるお店にもこの手のワンピースはディスプレイされているに違いない。
 だけど、今目の前にあるこの一着は、特別輝いて見える。

「ご試着なさいますか?」

 いつのまにか私のすぐ隣に立っていた店員さんが問いかける。押しつけがましい印象はなかった。
 反射的に頷きそうになったが、慌てて首を振る。

「確かに可愛いけど……私なんかには似合いません」

 またしても飛び出す自虐的な言葉。
 ワンピースから目を逸らすかのようにうつむく私に、店員さんはきっぱりと断言した。

「いいえ。この服はあなたが来るのを待っていました」

 自信に満ちた明言に、図らずも顔を上げ、店員さんと目を合わす。

 冗談を言っているような目ではない。本気で訴えかけているのだ。

「……じゃあ、ちょっとだけ」

 試着にちょっとも何もないと思うのだが。

 店員さんは先ほどの全身鏡へと私を案内する。
 この鏡は試着室にもなっていて、ぐるりとカーテンを閉めてくれた。

 安っぽい服を脱ぎ捨て、そろりとワンピースに腕を通す。

 着てみて、驚いた。
 さっきまで着ていたシャツやデニムと違い、肩から袖、ウエストや裾に至るまで、全てのサイズが私にぴったりだったから。

 鏡の中の私を見て、無意識のうちに笑顔がほろっとこぼれた。
 意外と似合っているかも……!

「いかがでしょう?」

 カーテン越しに問われて、感想を伝えようとしたときだった。

 鏡の中の景色が揺れた。

 ぐらぐらと水面に波が立ったかのように揺れて、鏡の中にはこのワンピースを着て街を歩く私が映し出された。

 これまで背中を丸めて歩いていたのとは打って変わって、背筋を伸ばし、心なしか口の端を上げて闊歩する自分。
 友達からも「可愛い服じゃん」と褒められて、「でしょ?」と鼻高々に言い返す。

 なんと自信に満ちあふれていることだろう。
 与謝野晶子の「おごりの春」ではないが、自分の「今」を輝かせて生き生きと振る舞う私がそこにはいた。

「可愛い……」

 ずっとずっとこういう服が着たかった。

 単に流行を追っているんじゃなくて、着ただけで自信が持てて、人生が輝き出すような服が。

「これがまさにその一着だったんだ」

 カーテンを開けると、店員さんは穏やかに微笑んで、「お似合いですね」とさりげなくコメントした。

「背伸びしすぎじゃないですかね?」

 一応、第三者の感想も聞きたい気持ち半分、照れ隠し半分で尋ねる。

「あなたにぴったりのお洋服が見つかったようですね。白いお肌がよく映えています」

 肌のことを褒めてもらうのは初めてだったので、面食らった。

「何もない日は家に引き籠もりがちなので白いだけです」

 漫画やゲームにふける日常を思い返しつつ、謙遜する。

「深窓の令嬢といった雰囲気ですね」

 唐突に出てきた”深窓の令嬢”というワードについつい吹き出す。
 いや――でもこのワンピースなんだから正々堂々と「令嬢」気取りでいればいいじゃないか、とも思ったりする。

「あ、お客様の笑顔、やっと見られました」
「実は、カーテンの内側でさっきまでにやにやしてたんです。素敵な服が見つかって良かったなって。……さっきはひどいこと言ってごめんなさい。失礼でしたよね」

 先ほどまでの無礼をわびると、意外なことを教えてくれた。

「気になさらないでください。私も実は、あなたくらいの年頃の時、同じことを考えていたんです」

 いたずらっぽく舌を出す店員さんが、初めて、身近に思えたのだった。

「じゃあ、お会計お願いします!」

 人生初の、服屋でのレジ会計。
 まさかこんなにが来るなんて。

 そう、これもすべてきっかけは、

「イトちゃん、おいでー……って、あれ?」

 最後にもう一度だけ触れあいたいと思って店内をきょろきょろ見回すが、どこにもいない。
 改めてみると、猫がいる割にはピカピカに磨き上げられた店内だな、と思った。

「なかなかに気まぐれな猫なんです」

 お金を受け取りながら、店員さんは困ったように眉を下げる。

「そうなんですね。じゃあ、あとでイトにここに来て良かったよって伝えてください。服を買うのも悪くないって思えました」

 もともと猫を追いかけて入っただけのこのお店で、なんだか少しだけ大人になった気がする。
 あの猫は、人に福を授ける種類の猫に違いない。

 丁寧にワンピースを畳んで袋に入れた店員さんは、最後にこう教えてくれた。

「お客様がここに来られる目的が服ではないのと同様に、私たちがお売りするのは、服ではなく、福なんですよ」





 店を出ると秋らしい空が広がっていた。
 ただお見舞いに来ただけのはずなのに、胸の内側が清々しい。
 山間にある、親切なお姉さんと不思議な猫のいるブティック。

 さて、このワンピースは次の休日に早速着なくては。

 そんなことを思いつつ、バス停で自宅方向のバスを待っていると、さっきまでいた店の方角に綺麗な男性が見えた。
 髪が白くてさらさらで、超イケメン。
 アイドルか俳優並なレベルじゃない!?

 スマホで写真を撮ろうとバッグの中を探しているうちに、目の前に市バスが現れ、視界が遮られる。

 もう! このタイミングじゃないでしょ!

 自分勝手なことを考えながら、慌ててバスに乗り込み、窓からさっきの男の人を探す。

 でももうどこにも彼の姿は見えない。

 ただのんびりとした山間の風景が広がっているだけだった。

「まるで気まぐれな猫みたいな人だな」

 呟いたとき、バスが出発した。



 さあ、向かおう。

 輝く私がいる場所へ。



(2着目:完)