そして、千年の恋に導かれ少女は紅眼の鬼に愛される

目を背けた宙の視界に、河が映った。
豪雨で増水し、激流となっていた。
濁流が街を切り裂くように縦断する様は、今にも血を溢れさせようとしている傷口のようにも見えた。

氾濫するのは時間の問題だった。
いや、すでに河川敷の道路には、濁水が流れ込み始めている。

「あ……!」

不意に、雪がはっとした声を上げた。

浸水し始めた住宅のひとつに、生前、雪が老婆と一緒に住んでいた空き家があった。

雪は何も言わなかった。
けれども、見えなくなってもずっと、老婆との思い出の家を眺めていた。

宙は強く雪を抱き締めた。

(全部、私のせいだ)

そうして、使役霊は宙の家に着いた。
鬱蒼とした森に覆われているので暴風雨にさらされてはいなかったが、電力はやはり断線していた。
暗がりにひっそりと佇む古い日本家屋は、自分の家だというのに、ひどく不気味に見えた。

「着いて早々申し訳ありませんが、私はすぐに戻ります」

礼儀正しく頭を下げる鳥の使役霊を、宙は抱き締めた。

「ありがとう、送ってくれて。あんな鬼に勝てるわけない、行っちゃだめだよ、って言っても、あなたは戻っていっちゃうんでしょう?」
「もちろんです。私は武水様にお仕えしていますので。あなた様も、武水様の言われた通りになさって、どうかご無事に」

そう言い残し、鳥の使役霊は飛び去って行った。
「宙ちゃん、大丈夫だよ。武水様はものすごい霊力を持っているんでしょ? さっきの使役霊も強そうだったし、それに大勢の陰陽師だって……」
「悔しいよ」

宙は俯いたままポロポロと涙を零した。

「どうして私には霊力がないの? どうして霊力がないのに、封印が解けてしまったの?」
「宙ちゃん……」
「なんで、どうして……。私にも、力があればいいのに……!」

どきん。

不意に胸が震えた。
まるで、何かに呼ばれたかのように。

宙はおもむろに家の中に入って行った。
吸い寄せられるように向かったのは、鬼のことですっかり忘れて置きっぱなしにしてあった、あの指輪だった。

導かれるように手に取る。
瞬間、脳裏に映像が浮かんだ。

鬼がいた。
あの鬼だ。
恐ろしくて、美しくて、そしてどこか――懐かしい――。

鬼は跪き、そして言った。

俺はいつまでも、お前と共に在る。

宙は鬼に向かって手を伸ばしていた。

その指には、この指輪があった――。

鬼は恭しくその指を手に取り、唇を寄せ――。
「どうしたの宙ちゃん?」

雪の声で、我に返った。

「ぼーっとして、どうしたの?」
「この指輪、もしかしたら」
「え?」

指輪を握り締め、宙は家の外に出た。

「待って宙ちゃん! 武水様言ったよね? 家に」
「いちゃだめなの!」
「え!?」
「この指輪があれば、どうにかなるかもしれない」
「何を言って……? 気持ちはわかるけれど、宙ちゃんじゃ無理だよ! 死んじゃうよ!」
「それでもいい、行くよ!」

宙は、自分でも驚くくらいの大声を出した。
雪もびっくりしている。
その毛玉のような身体を抱いて、宙は涙を堪えながら言った。

「私だって怖いよ。いったい何が起きているのか、どうなっちゃうのか……。でもやらなきゃ。だって、今止めないと、おばあちゃんの家が流されちゃうでしょ?」
「……宙ちゃん」
「私知ってるよ、今だって、雪ちゃんがおばあちゃんとの思い出を求めてあの家に行っていること。雪ちゃんにとってあの家は、とっても大切だってことも」

宙は涙を拭った。

「私、弱虫だし、何の力もない。だからって、大切な友達を、私のせいで悲しませたくないの!」

そう一気に言うと、宙は再び暴風雨が吹き荒ぶ街へと走って行った。






境内では、力のある能力者達が使役霊を従えて鬼を囲んでいた。
伝説の鬼を前にしても逃げることのなかった勇気ある者達である。
その顔は、未知なる脅威を相手に、命を落とすことも辞さないという表情を浮かべていた。

ただ一人を除いて。

(お前! わたくしの声が聞こえているの!? 返事しなさい。これはいったどういうこと!?)

世璃瑠は先ほどからずっと鬼に念じ続けていた。
しかし、鬼からの返答は一切なかった。

使役霊となった妖は、主の命に従わないと、契約時にかけた呪術の作用によって肉体的なペナルティを科せられる。
世璃瑠の命を無視し続けている鬼にも、身体に苦痛が与えられているはずだが、その整った顔には涼しげな表情しか浮かんでいない。

世璃瑠は、怒りと動揺に震えた声で、もう一度鬼に念じた。

(今すぐこの天災を収めなさい。さもなければ)

突然、にぃと鬼が笑みを浮かべて言葉を発した。

「貴様、誰に向かって命じている?」
「な……! お前、わたくしに使役されていることを忘れたとでも言うの!?」

思わず口走った世璃瑠に、息を殺して鬼の様子を窺っていた能力者達が振り向く。
しまった、と世璃瑠は思ったが、もう遅い。
力づくで言うことをきかせるしかない、と焦って霊力を高めた――が。

「きゃっ!」

打ち払われるように、霊力を弾かされてしまった。
鬼は冷ややかに言い捨てた。

「貴様との契約など、とうの前に反故にした」
「な……!?」
「妖狐を使えるあたり、霊力はそこそこにあるようだが、その程度の霊力で、この俺を本当に使役できたと思っていたのか?」

怒りに満ちた鬼の言葉を聞いた能力者達は慄いた。

鬼と契約だって? なんて恐ろしい。
鬼は別格。神族に近い存在だ。人間が簡単に使役できるはずなどない。

「違う……違いますわ……! わたくしは確かにこの者を従属させたのよ……!」

必死に言い繕う世璃瑠は、武水の姿を見つけて走り寄った。
「武水様、どうか誤解なさらないで。そもそもの元凶はあの宙。鬼を封印から解いたのはあの女だったんです。それを無責任にも逃げ出して野放しになっていた鬼をわたくしが致し方なく一時的に使役しただけなのです」
「……なるほど、そういうわけだったのか。通りで鬼の解放に気付けなかったわけだ」

武水は変わらずいつもの微笑を浮かべ世璃瑠を見つめた。

「使役された妖の霊気は、主の霊気とひとつになってしまう。野放しになっていればすぐに鬼の霊気に気付けて、再び封印できたかもしれなかったが、君という蓑を使って巧く隠れてしまったわけだ。やってくれたね。まんまと鬼に利用されたというわけか」
「え……?」
「君は自分が本当に鬼を使役できるに足る能力者だと思っていたのかい? 君のような三流の家の凡人が」

微笑を浮かべながら辛辣な言葉を向けられ、世璃瑠は茫然となった。
愉快そうに鬼が割り込む。
「まぁそうきついこと言うなよ。一時的にしろ、その勘違い女に使役されたことは足しになったんだからな。何せ隠れ蓑になるだけじゃなくて、俺に霊力を付与してくれて、こうして力を振るうことができるようになったのだから」

その残酷で邪悪な笑みを見て、世璃瑠はようやく自分が最初から騙されていたことに気がついた。
何もかも、鬼の狡猾な演技だったのだ。

「化け物……! このわたくしを謀ったわね!」
「どっちが化け物だよ。驕り高ぶった醜い人間が。せいぜい後悔しろ。使役霊だけじゃなく、同じ人間―― 『あいつ』に強いた貴様の横暴の数々をな」

激しい怒りで、紅い瞳がより鮮烈な色彩を放つ。
鮮血のようなそれに射竦められ、世璃瑠は背筋を凍らせた。

けれども、世璃瑠を囲む視線はそれだけではなかった。

能力者達から、刺すような憤怒に満ちた眼差しが集まる。

あざとい鬼にまんまと騙されるとは……馬鹿な娘だ。
この惨状、いったいどうしてくれる?

何よりも、嘲りを滲ませた武水の微笑が辛かった。

世璃瑠は武水に跪き、すがりついた。
「武水様、わたくしは、貴方のために……貴方に振り向いてもらいたくて」
「私が? 君のような下賤な者を私が相手にすると?」

武水の髪がゆっくりと逆立った。
膨大な霊力が武水から発せられる。

熱くそして圧を感じるそれは、怒りのオーラだった。

世璃瑠は慄き、武水から後退った。

「いい加減、身の程をわきまえたらどうだい。君の愚かさは滑稽で可笑しいものだが、今回ばかりは目に余る」
「ひぃい……お許しを……どうか」

世璃瑠は息を飲んだ。
霊力を最高潮に高めた武水の目が白く輝き、人間のそれとは思えない様相となった。

まるで、龍の目のような。

「も……もしや、あ、貴方様自身が、白りゅ」
「人間風情に気安く呼ばれる名などない」
「きゃあああ!」

武水は霊力を解き放つと、世璃瑠を守ろうとした妖狐もろとも気絶させてしまった。
そして、打ち捨てるように境内の隅に吹き飛ばしてしまった。
「あーあ、大事な戦力を削っていいのかよ?」

揶揄して笑う鬼を、武水は睨み据えた。

「黙れ物の怪。二度と姑息な真似ができぬよう、今度こそ滅してやる」

高らかに言い放った武水の言葉に呼応し、能力者達が一斉に鬼に襲い掛かった。

戦いはあっという間に終わった。

鬼が全方位に放った霊力に、感電したかのように能力者や使役霊達は意識を失い、倒れてしまったのだ。

唯一立っていたのは、武水だけだった。

「嘆かわしいな。千年の間に、人間も妖もこれほどまでに軟弱になったとは。まさか、お前まで弱くなったとは言わないよな?」

冷ややかに鬼を見据えるだけの武水を鼻笑うと、鬼は感慨深げに吐息した。

「それにしても長かった。開闢の時以来、たかが一千年がこれほど長く感じたことはなかった。お前だって解かるだろう?」
「あまり喜ぶな。どうせすぐに封じられるのだから」
「そうはいかない。俺は今度こそあいつを結ばれるために舞い戻ってきたのだからな」