そして、すぐに妖狐のその予感は当たる。
ふたりは蔵の奥に佇んでいる人影の正体に気付いて、身を強張らせた。
「ほぉ、今度はまともな霊気のやつが来たな」
妖狐は世璃瑠の前に立ち塞がった。
「今すぐここを出て行け、鬼。でなければ」
「狐か。まだ人間なんぞに従っているのか。情けないやつだ」
ふんと鼻笑うと、鬼は霊気を放った。
すかさず妖狐が霊気を放ち、その衝撃を相殺させる。
「危惧した通り、こやつは鬼です。しかも、かなり厄介な……。世璃瑠様、私が引き留めておくので、お逃げください」
「逃げる? 何を言っているの?」
現代において、鬼はほぼ伝説の存在と言えた。
その尋常ではない霊気を振るい古くより人間を恐怖と苦悶に陥れてきた鬼は、長い歴史を懸けて権威ある陰陽師や神によって封印または滅されてきたからである。
伝説ゆえに、現代の人間にはその脅威に鈍感でいるらしい。
世璃瑠は、鬼を前にしてもまったく動じた様子を見せなかった。
妖狐は少し苛立ちを滲ませながら、世璃瑠を説得し続けた。
「鬼は我ら物の怪より上位の存在であることはご存じでしょう? あなたと私が全力を出したとしても、恐らく敵いません」
「そうかしら? なら何故これほどに霊力が弱いのかしら? 恐らく封印から解かれたばかりで、霊力が完全ではないのでしょう?」
挑むような口調で言うと、鬼はほう、と意味深に片眉を上げた。
「鬼は昔から嘘が上手くあざとい妖なのです。表面に騙されてはいけません」
必死の説得を無視して、世璃瑠は妖狐を押しやって鬼の前に出た。
「その昔、陰陽師の中には鬼を屈服させて使役した者がいたと聞いたわ。土位家は陰陽師を祖とする家系。鬼を使役してこそ、我が一族が一流である証になる。そしてわたくしは、一族きっての霊力を誇る身よ」
そう高らかに言うと、世璃瑠は鬼に向かって印を切り、霊力を高めた。
すると、鬼が苦悶の表情を見せ始めた。
まさか、と唖然としている妖狐を尻目に、世璃瑠は勝ち誇ったように言った。
「やはりお前は諏訪家の力によって長く封印されていたようね。白龍の力を宿した諏訪家の霊力は絶対。何かのきっかけで封印から解かれたとはいえ、その弱りきった力でこのわたくしに敵うはずがないわ」
「やめろ……人間……!」
悶え、膝を崩す鬼を見下ろして、世璃瑠はにんまりと笑った。
「では鬼よ、今よりわたくしに使役され従うと誓うのなら、お前はわたくしの霊力の付与のもと、再びこの世に生きることを許そう」
「いけません世璃瑠様。鬼を使役するなど無謀としか」
「お前は黙っていなさい、妖狐! さぁ鬼よ、わたくしと契約を交わすか」
「わかった、誓おう」
こうして、世璃瑠と鬼は契約を結んだ。
鬼は跪き、意気揚々の世璃瑠に誓い立てた。
下を向いて見えないその顔に、邪悪な笑みを浮かべながら――。
「いよいよ明日ね、鬼鎮祭」
「お待ちかねの『巫女』はいったい誰になるのかしら?」
「もちろん、世璃瑠様に決まっているでしょ?」
開催を明日に控え、学校では鬼鎮祭のことでもちきりだった。
「ねぇ世璃瑠様、もしかしてもう内密に巫女のお話がいっているんでしょう?」
「そうに決まっているわ。だって世璃瑠様の家は諏訪家に並ぶ名家ですもの」
「お待ちになって、皆さん。そんな勝手な憶測をされても困るわ」
と、かぶりを振るものの、世璃瑠の顔は綻んでいた。
「確かにわたくしは家柄、霊力、容姿ともに資格は十分備えておりますけれども、選ぶのは武水様ですもの」
鬼鎮祭では祭祀を進行する司祭者とその補助を担う巫女が必要とされていた。
補助と言っても巫女は重要な存在であり、特に祭祀の最中に行われる舞楽では、司祭者と共に舞う華やかな役割をも任されている。
この名誉ある巫女に選ばれた娘が、諏訪家の妻となった歴史もあったことから、巫女の選定は一番の目玉となっていた。
そんな浮かれている周囲をよそに、宙は気がそぞろだった。
鬼の封印を解いてしまったあの夜から、数日が経っていた。
今のところ、鬼が出没したという事件は噂にもなっておらず、鬼が引き起こすと言われている災厄も起きていない。
いたって平穏な毎日が続いていた。
まさか世璃瑠が鬼と契約を結んだなどと露とも思わない宙には、この沈黙が不気味だった。
(諏訪家に鬼を放ってしまった、と報告すべきなのだろうけど……)
黙って蔵に入ってしまったことをどう申し開きすればよいのか……援助を受けていることを考えると、勇気が出せずにいた。
そもそも蔵の鍵を開けっ放しにしているのが悪い。
というのが雪の意見で、鬼の封印を解いてしまったことについても、霊力がない宙に何故そんなことができたのか納得がいかないので、そもそも弱っていた封印がタイミングよく破れてしまっただけではないか――つまり封印の管理を怠った諏訪家側の責任だ、と宙を擁護していた。
とは言っても、鬼の解放は事実だ。
それを黙っていてよいのか……。
罪悪感を抱えて、宙はここ数日安眠できなかった。
ただでさえ悪い顔色を曇らせて教室の隅で悩みあぐねていると、
「やだあいつ、よりいっそう陰気な顔してる」
「ああいやだ。せっかく百年に一度の鬼鎮祭で盛り上がっているというのに、水を差されてしまうわ」
小言が聞こえてくる。
居た堪れない思いになり席を外そうとすると、教室が急にざわつきだした。
「わぁ、武水様よ……!」
「何日ぶりの登校かしら?」
と、女子達の熱い視線を一気に集めたその人物は、鬼鎮祭の司祭者――白龍神社の現神主、諏訪武水(すわ たけみ)だった。
白皙の肌に柔らかい黒髪。
秀麗な顔立ちは常に柔和な微笑を浮かべていて、由緒ある神社の当主らしく、気品と高潔さに溢れていた。
「いよいよ、巫女を指名しにいらしたんだわ」
「やっぱり、指名するのは世璃瑠様?」
クラスメートの期待が高まる。
世璃瑠も自然な様子を演じつつ、自慢の黒髪を整えて居住まいを正している。
しかし、多くの予想に反して、武水が真っ直ぐに向かったのは宙だった。
「久しぶりだね、宙」
「う……うん、久しぶり、武水くん……」
武水は整った顔を綻ばせて宙に話しかけた。
周りから痛いくらいの視線を感じ、蚊の鳴くような声で宙は返した。
「先日はごめんね。うちに来てくれたんだろう? 僕から指定しておいたのに、急用が入ってしまって会えなくなってしまった」
「ううん、いいの。忙しいもんね」
若くして当主を務めているのだ。
色々と忙しいに違いない。
今の宙には到底信じられないことだが、宙の家と武水の家はその昔――つまり、宙の祖先が罪を犯すまでは、力のある陰陽師家としてこの地域一帯に多大なる影響力を持っていた。
かの大陰陽師安倍晴明とも縁があったほどだったという。
だから両家のつながりも深く、婚姻を結んだこともあったらしい。
今では天と地ほどの差になってしまったけれど、どういったわけか、幼い頃から武水は宙を気に入っていた。
宙の両親が武水の家に日雇いで働きに出ていたせいもあったかもしれない。
武水の両親は二人して忙しく、一人っ子だった武水は、いつも一人ぼっちだった。
両親について諏訪家を訪れていた宙もまた、両親の仕事が終わるのを一人で待っていたので、同い年同士仲良くなるのは必然と言えた。
けれども、家に帰ると両親はいつも宙に武水とは深くかかわってはいけない、と怒った。
自分と武水くんは『身分違い』だからなんだろう、と幼い宙は思った。
だから宙はなるべく武水と関わらないようにしていた。
けれども、武水の方が宙に関わることをやめなかった。
女の子のような愛らしい笑顔で遊ぼうよとせがまれれば、拒むことができなかった。
幼い宙にとっても、武水は身分が上という感覚があったので、邪険にはできなかったのだ。
そのうち、武水は両親には内緒だと、宙にだけ美味しいものを分けてくれたり買ってくれたりした。
その中のひとつが、今宙の左手にある腕飾りだった。
翡翠の勾玉が中心に添えられた、美しい装飾。
宙の両親が、こんなものは貰えないと固辞しても、似合うからずっと付けていて欲しいと譲らなかった。
周囲からの刺さるような視線に耐えかねて、宙はおずおずと武水に言った。
「ねぇ武水くん。……あの、できたら、私に話しかける時は、どこか人目のつかない所でしてもらえると……」
「どうして?」
「どうしてって……」
綺麗な顔を不思議そうに傾げられて、言葉に詰まってしまう。
武水は宙が周りからどう思われているか知っているはずだった。
なのに、むしろそんなものは気にするなと跳ね除けるばかりに、こうして人目に付く場所で話しかけてくる。
「それより、お願いがあって来たんだ」
「え、なあに?」
「明日は鬼鎮祭だろう? 巫女の役を宙にやって欲しいんだ」
「え……!」
宙の驚きの声以上に、周りで湧き起こったざわめきの方が大きかった。