ずっと、離さないで。
そう思ってゆだねた腕は、強く温かった。
紅い瞳。
血のように、炎のように恐ろしい色なのに、とても優しく見えた。
声は聞こえない。
でも、囁いている。
うったえている。
つん、と鼻の奥が痛んだ。
聞きたい。その声を。
恐ろしく低くて、恐ろしく圧がある。
私の胸を甘く震わせてやまない、愛おしい声を。
「待っているわ。ずっと、ずっと」
私はそう誓って、微笑んだ。
紅い瞳からこぼれた涙は、透明で綺麗だった。
牙を剥き出しにして歪めた唇から出た言葉は、声にならずとも、私の記憶の中に残っているのだった。
『愛している。必ず、またお前と出会う。幾百年の時を超えても、必ず――』
また、あの変な夢を見た。
ゆっくりと起き上がると、頬からつーっと雫が流れ落ちた。
(やだ、私、泣いていた……?)
ごしごしとパジャマの袖で拭う。
あの夢を見て泣くなんて、初めてだ。
紅い瞳の――男の人。
血のような、炎のようなあの瞳は、人間じゃない。
妖だ。
日河宙(ひかわ そら)は、パジャマの胸元を握った。
まだ余韻が残る、きゅう、とした胸の痛みを抑えるように。
(……どうして妖に、こんな気持ちになるんだろう……)
あの夢を見るようになって数日経っていたが、こんなにリアルな感情を覚えることはなかった。
夢が強くなっている。
おかしな言い方だけれど、つい、そう考えてしまう。
でも、いつまでも布団の中でもやもやしている時間はなかった。
学校に行く準備をしなくては。
顔を洗って、髪を整えて、制服に着替えて、宙は鏡の前に立った。
平凡な顔立ちをした、肌色も唇の色も悪い、痩せこけた十代の女の子がそこにいた。
長々と眺めていたくなくて目をそらすと、ぎゅうぅとお腹が情けない声を上げた。
朝食はロールパン一個とお水。
お腹が膨らむように、小さくちぎったのを食べて、その都度水を飲む。
「おはよう! 宙ちゃん」
一人の朝食を送る宙のそばに、綿飴みたいな白くてふわふわの毛をした猫が現れた。
「おはよう雪ちゃん。今日も相変わらず美味しそうだねぇ」
思わず毛玉みたいに浮いている雪をぎゅむぅと抱きしめる。
雪は使役霊ではないので、感触は感じられない。けれども、
「わわわ宙ちゃんくすぐったいよぉ」
と、喉がゴロゴロと鳴る可愛い音を聞いていると、空腹も紛れる気がした。
「宙ちゃん、ご飯、それだけ? 足りないよね? だいじょうぶ?」
「うん、今月は出費が多かったから。大丈夫だよ、今日は諏訪家に行く日だし」
ずきり。
胸がきしんだ。
安堵感と憂鬱な気持ちがごちゃ混ぜになった痛み。
収入が入るのは安心できるけれども、諏訪家を訪問すると毎回嫌な思いをさせられる。
でもこうするしかなかった。
両親が残してくれた貯金はとうに使い果たしたし、この大きいだけのがらんどうとした家にあるお金になりそうな物も、全部売ってしまった。
「またあの家に行くの? 私あそこの人間、キライ。だってエラそうなんだもん」
毛玉のような身体をぶわぁっと逆立てて言う雪に、宙は笑いかけるしかなかった。
「こぉんな大きくて古いお家なんだからさ、なにかお金になる高価なもの残ってないのかな? ほら、本当に重要な物はどこかに埋めてあるって言うじゃない?」
「うん……まぁ……」
「うちのおばあちゃんも、畳の下にお金を隠したりしていたよ! よし! 私、ここ掘れにゃんにゃんするよ!」
「ええ?」
すっかり張り切った雪は、壁を通り抜けて庭に飛び出していった。
慌てて後を追いかけて、宙も庭に出た――その時だった。
そ…ら
声が聞こえた気がして立ち止まった。
「雪ちゃん、今呼んだ?」
「呼んでないよー」
と、鼻をひくひくさせて、雪はお宝探知に夢中だ。
(でも確かに聞こえた気が……)
宙。
「あ、また、聞こえた……」
「えー私は何も聞こえないよ?」
雪は怪訝そうに大きな目を瞬かせている。
確かに宙には聞こえた。
低くて、どこか優しさに満ちた、男の声が――。
導かれるように庭を進み、そして、苔がびっしり生えた石の前で止まった。
以前から邪魔だなと思っていた石だったけれど、両親が除けることなく残してあって、不思議に思ったのを覚えている。
「ええ? ここを掘るの?」
「……うん、なんとなく、ね」
「私のにゃんにゃんセンサーは、もっと違うところだって言っているんだけどなぁ」と、尻尾を落ち着かなく左右に振る雪に笑うと、宙はシャベルで石の下を掘り始めた。
硬い土を力を入れて少しずつ掘り起こしていく。
こつ。
すると、木に当たったような乾いた音がした。
さらに掘り進めて見ると、ボロボロになった小箱が出てきた。
宙と雪は顔を見合わせた。
そして、朽ち落ちないように、蓋をそっと開けてみる。
中には、ふたまわりくらい小さい木箱があった。
これも朽ちてはいたが、蓋の表に文字が書かれているのがわかる。
そして、その上に結ばれている注連縄も……。
「なんか。物々しい感じだね」
「うん……」
「ねぇ宙ちゃん、これ、もしかして開けない方がいいやつかも」
雪がそう言うそばから、宙は注連縄に手をかけていた。
開けない方がいいのは頭で分かっている。でも、
(取り戻さなくては)
不可解な思いに突き動かされていた。
そこには、小さな指輪があった。
金でできていて、勾玉のような飾りが埋め込まれている。
長い間、土の中に埋まっていた指輪。
手にすると、温かい感情が胸を満たすような気がした。
愛おしいような、切ないような、誰かを想う感情が――。
「すごく高価そう! でもなんでこんなところに埋まっていたんだろうね?」
「うちは一千年前から続いている旧家でこの土地にもずっと住み続けていたからなぁ」
ふいに、催眠から解けたようにはっとなった。
「いけない! 学校に遅れちゃう」
制服のポケットに指輪をしまうと、慌てて家に戻り、準備を済ませた。
そして、父と母の遺影に手を合わせて学校へ向かった。