引退した三年生の先輩達が部活を見にやって来た。コンクールが終わって気が抜けていないか、基礎練習をサボっていないか、最上級生になった二年生が調子に乗っていないか、確認しに来たのである。
 すでに引退したとはいえ、先輩が来ると空気が引き締まるのが分かった。萌も知らないうちに気が緩んでいたのかもしれない。先輩のありがたみを感じながら、萌は練習に集中した。
 部活終了後は、いつも通り残って練習に励んでいた。夏のコンクールが終わっても、アンサンブルコンテストやソロコンテスト、定期演奏会など発表の場はたくさん残っている。まだ大会に参加するメンバーは決まっていないが、練習をしておくに越したことはない。

 萌が居残り練習を終え、音楽室に楽器を片付けに行こうとしたときだった。防音のはずの部屋から誰かの話し声が漏れ聞こえてくる。
 ドアがちょっと開いてるんだ、音楽室で練習している子がいなくてよかった、と萌は胸を撫で下ろす。
 というのも、以前音楽室のドアを開けたまま練習していたときに、校長先生にしこたま怒られた経験があるからだ。「来客があったのに全然話が聞こえなかったじゃないか! 何のための防音設備だと思っているんだ!」と怒鳴り散らす校長に、パート練習は各教室でやっているんだから何を今更と思ったものだが、それ以来音楽室の扉だけはちゃんと閉めるように徹底していたのだった。
 ドアに手をかけ開けようとした萌は、その手を慌てて止める。

「由奈ね、駿介のことが好きなの」

 漏れ聞こえてきた声が、告白のそれだったからだ。
 ドアに取り付けられた小窓から見えないよう、反射的に壁に背中をくっつける。心臓がバクバクとうるさいのは、人が告白するシーンに初めて出くわしてしまったからだろうか。

 由奈? 駿介? ということは、中にいるのは由奈先輩と矢吹くん?
 混乱する頭をなんとかフル回転させる。由奈というのはアルトサックスを担当していた三年生だ。美人だけど気が強く、練習で一緒になると緊張する相手でもあった。理由は分からないが、萌のことをあまり好きではなかったようで、少し間違えたりすると特に厳しく注意されたものだ。
 これ以上は聞いてはいけない気がする。楽器と譜面台を持って、もう一度さっきまで使っていた教室に戻ろう。そう決めた萌が、音を立てないようそっと譜面台を持ち上げたときだった。

「俺は先輩のこと、嫌いです」

 ひどく冷たい声が、鼓膜を揺らす。中学の頃からの付き合いだが、駿介のそんな声は一度も聞いたことがなくて、萌は驚いて固まってしまう。

 え、今由奈先輩のこと振った、よね? それに嫌いですって……もうちょっと他に言い方あったんじゃ……。

 駿介らしくない、突き放すような言葉。いつも優しくて、笑顔も爽やかで、気遣いも出来る彼が、そんな言い方をしたことが信じられなくて、萌は立ち尽くしたまま動けない。

「嫌いって何!? 由奈の何がダメなわけ!?」

 案の定、気の強い由奈は怒ってしまったようだった。ガタン、と大きな音がして、びくりと肩が揺れる。トランペットを抱きしめるように持ちながら、萌は早くこの場を離れなきゃ、とそればかり考えていた。

「何がって、全部です。そうやって自分に都合の悪いことがあると物に当たるところも、俺の好きな人に嫌がらせをするところも、そのくせ告白のときだけ何事もなかったかのように振る舞うところも、全部無理です」

 足が震えた。これ以上聞いてはいけない。盗み聞きは良くないし、何より駿介の知らなかった一面を知ってしまうことが、どうしてかひどくこわく感じた。
 教室の方へ戻ろうと足を一歩踏み出した瞬間、譜面台に爪先が当たり、ガシャン、と大きな音を立てて倒れる。血の気が一瞬で引いた気がした。

「誰!?」

 怒鳴るような由奈の声。同時に思い切り開けられたドアに、萌は喉がひゅっと鳴るのが分かった。

「…………盗み聞き? ブスのくせに調子に乗らないでよ」
「わ、私……そんなつもりじゃ……」

 言いかけた言葉は続かなかった。音楽室から飛び出してきた駿介が、萌を庇うように二人の間に割って入ったからだ。
 駿介は由奈に背を向け、萌に笑いかける。その笑顔はいつもの爽やかな彼のものだった。

「雨宮、練習終わった? じゃあ帰ろっか」
「え、で、でも……由奈先輩と話してる途中なんじゃ……」
「ん? もう終わったし、大丈夫」

 どう考えても話の途中だったんですけど!
 萌が冷や汗をかいているというのに、駿介は涼しい顔をしている。彼の後ろの由奈が、すごい顔で萌を睨んでいた。

「ちょっと駿介! まだ話は終わってないでしょ」

 由奈が駿介の腕を掴んだ瞬間、強い力でそれを振り払う。驚いて息を飲んだのは、萌だけではなかった。さすがにそこまで拒否されるとは思っていなかったのだろう。由奈も固まったまま、動かない。

「雨宮、早く楽器しまっちゃいな」
「あ……う、うん」
「廊下で待ってるから」

 にこやかな笑顔で見送られ、音楽室の扉をきっちり閉められる。二人は廊下で話を続けているようだったが、教室の中にいる萌には聞こえなかった。
 楽器を片付けて、譜面と鞄を持つと、萌はおそるおそるドアの小窓から廊下を覗いた。そこに見えたのは、泣いている由奈と無表情でそれを見つめる駿介。
 まだ出て行かない方がいいかな、と悩んでいると、駿介が萌に気づき、ドアを開けてくれる。

「準備出来た?」

 声を出すのが躊躇われて、静かに頷く。駿介は音楽室の電気を消し、扉を施錠する。そして由奈にお疲れ様でした、と冷めた声をかけて、歩き出す。慌てて萌も「お疲れ様でした」と言い、駿介の後を追った。

「由奈先輩のこと置いてきちゃってよかったの?」

 玄関でローファーに履き替えながら、萌は躊躇いがちに問いかけた。駿介はスニーカーの靴紐を結び直した後、顔を上げて萌に笑いかける。

「いいんだよ、自分を振った相手に優しくされたくないだろ」

 ドキッとしたのは、萌にも思い当たる節があったからだ。今までに告白されたことがないわけじゃない。でもその人たちをちゃんと突き放せていたかと言えば、たぶん答えはノーだろう。嫌われることがこわくて、曖昧な態度で誤魔化してしまう。萌の悪い癖だった。
 その点、駿介は違っていた。はっきりと言葉で、態度で示していた。冷たく突き放されて、今は傷つくかもしれないけれど、立ち直るまでの時間もきっと早いのではないだろうか。

「それで言うと私はダメだなぁ。矢吹くんみたいにはっきり言えないから」

 バスに乗り込み、二人で並んで座りながら、萌はぽつりと呟く。自己嫌悪で声が小さくなるが、駿介の耳にははっきりと届いたらしい。何で? と首を傾げられて、萌は戸惑う。

「はっきり言えないのは相手を傷つけたくないからだろ? それって雨宮の優しさじゃん。無理に変えることないと思うけど」
「…………そうなのかなぁ」
「そうだよ。ただ俺がああいう言い方をするのは、好きな人以外に優しくしないって決めてるから、ってだけだし」

 駿介の言葉に、萌は目を丸くする。
 好きな人にだけ優しくする? 駿介が?
 誰にでも優しく接しているように見えていただけに、驚いてしまう。現に萌にも、トランペットパートのみんなにも駿介は優しくしてくれている。
 そこまで考えて、好きな人、というのは別に恋人になりたい相手というわけではなく、好きか嫌いかに大分したときに、好きに振り分けられた人のことを指しているのではないかと気がついた。

「ああ、なるほど……」

 頭で理解するまでに数秒かかり、それから相槌を打つと、駿介がじっとこちらを見つめていることに気がつく。

「えっ、なに?」
「いや、絶対分かってねぇよな、と思って」
「何を?」
「何でもない」

 駿介がそっぽ向き、沈黙が流れる。二人で登下校を一緒にするようになってから気づいたことだが、駿介といるときに会話が途切れても、萌はあまり気にならなかった。どちらかというと誰かといるときの沈黙は苦手な方なのだが、駿介にはそれを感じない。
 バスが萌の家の最寄りに辿り着き、停車する。二人で下車して、会話のないまま家までの道のりを歩いた。
 しばらくして口を開いたのは、駿介の方だった。

「さっきの話」
「ん?」
「好きな人にしか優しくしないっていうの、本当だから」
「…………矢吹くんの言う好きな人って」

 言いかけた言葉を遮るように、駿介が言葉を紡ぐ。

「特別な人のこと。その他大勢じゃなくて、彼女になってもらいたいって思う相手のことな」

 ふぅん、と相槌を打ちながら、どうしてその話を萌にするのだろうとぼんやり考える。どうでもいい相手には、きっとこんな話はしないはずだ。心を開いてくれている、と解釈していいのだろうか。たぶん、送り迎えをしてくれるくらいだから、嫌われてはいないのだろうけど。
 駿介と一緒にいると、時折勘違いしてしまいそうになる。彼は萌のことが好きなのではないか、と。
 そんなこと、あるはずがない。萌みたいに何の取り柄もない人間が、駿介のようないい人に好かれる要素など、どこにもないのだから。
 話をしているうちに、家の前に着いた。

「また明日、雨宮」
「うん。気をつけて帰ってね、送ってくれてありがとう」

 バイバイと手を振ると、早く家に入れと怒られたので、萌は素直に従って家の中に入った。
 なんだか今日は、すごく疲れた。先輩達が部活を見に来たことで緊張していたのかもしれない。はたまた、由奈の告白現場に居合わせてしまったからか。それともその後由奈に暴言を吐かれたせいか。思わせぶりな駿介の態度に、振り回されてしまったからかもしれない。
 ともあれ、ドッと押し寄せてきた疲れに抗うことなく、萌はソファーに倒れ込んだ。