陸と萌がバッテリーになって一ヶ月。まだ二年生で身体が小さく、上級生の練習メニューは出来ないので、監督が二人専用のメニューを考えてくれた。
 まずはキャッチボール。ボールとグローブに慣れることが大事なんだよ、と言われたので、暇さえあれば二人でキャッチボールをした。最初はボールをこわがっていた陸も、次第に慣れてきて、グローブで器用にキャッチ出来るようになった。左手に嵌めたそれはまだ二人には大きかったけれど、すぐに陸と萌のお気に入りになった。

 ピッチングの練習もした。まずは近い距離から、ゆっくりボールを投げてもらって、萌は座ってキャッチする。キャッチャーの姿勢というのは意外ときつくて、最初はボールを捕るどころではなかった。
 でも上手くキャッチ出来ると、陸が萌以上に喜んでくれたので、萌は球をこぼさないように練習を頑張った。
 少しずつ距離を遠くしていくにつれ、陸が不安そうな表情になっていく。大丈夫だよ、陸ちゃん! と萌が励ますと、陸は笑顔をこぼしてボールを投げてくれた。陸の球はお世辞にも速いとは言えなかったけれど、二人でバッテリーを組めたことが嬉しかった。

 バッティングの練習は特に楽しかった。素振りは辛かったけれど、ボールがバットに当たる感覚は忘れられない。遠くに飛ばすことはまだ出来なかったが、まずはバットに当てる、ということを目標に、練習に励んだ。

 心配していた上級生からのいじめもなく、陸と萌はとても可愛がってもらえた。身体が小さいなりに全力で頑張っていたから、というのもあるだろうが、レギュラー争いをする相手ではない、というのも大きかっただろう。
 陸は人見知りであまり先輩に懐かなかったが、萌は先輩達が大好きだった。野球のルールも先輩に教えてもらったし、キャッチングのコツなども自分から聞きに行った。
 その日も萌は先輩に教えてもらっていた。陸にピッチングの指導をしていた監督が、ふいに大きな声を上げた。

「えっ、陸くん、サウスポーなの!?」

 チームメイトの視線が陸に集まる。陸はみんなに見られて居心地の悪そうな表情を浮かべていた。萌は陸のことが心配になって、監督と陸の元へ駆け寄った。

「サウスポーってなに?」
「左利きってことだよ」
「うん。左利きだよ」

 陸の言葉に、辺りがざわつく。状況を理解していないのは陸と萌だけだ。
 どうしてもっと早く言わないの、と珍しく監督が強い口調で陸を責めるものだから、萌は慌てて陸を庇うように監督の前に飛び出した。

「だって左利きでも関係ないでしょ? お箸を持つのも、鉛筆を持つのも、陸ちゃんは右手でやってるよ!」
「萌ちゃん……」

 振り返ると陸がうるんだ瞳でこちらを見つめていた。女の子顔負けの可愛さに、自分が守ってあげなければ、と萌は唇を噛む。

「野球には関係あるんだよ」

 ごめんね、大きな声を出して。
 そう言って監督は二人の頭を撫でた。

「野球は、鉛筆とかお箸みたいに無理に右手でやる必要はないんだよ。左手でボールを投げていいし、左打ちでいい」
「そうなの?」

 陸が小首を傾げて、少しだけ萌の後ろから顔を出す。鉛筆やお箸で練習しているとはいえ、右手でボールを扱うのは難しかったのかもしれない。そういえば、前に左手でお箸を持ってみたらすごく難しかったな、と萌は思い出す。
 監督が右手用のグローブを持ってきて、陸に手渡す。陸はおそるおそるそれを受け取り、右手に嵌めた。

「陸くん、左手でボールを投げてみようか」

 その言葉に、萌は慌ててキャッチングの準備をする。陸のボールを捕れるのは萌だけだ。だって二人はバッテリーなのだから。
 ポジションについて、ミットを構える。ドキドキしているのは、萌だけだろうか。
 気がつけば、チームメイトの視線が二人に集中していた。

「萌ちゃん、投げていい?」
「うん! いつでもいいよ!」

 陸の言葉に大きく頷く。陸はまだピッチャーらしい投げ方は出来ない。それでも振りかぶったその姿は、今までのどの投げ方よりもピッチャーのそれに見えた。
 ミットを構えて陸の球を待つ。その瞬間だった。
 ビュン、と風を切る音と、ボールがネットに当たる音。ころころ、と後ろから転がってきた野球ボールに、萌は血の気が引く気がした。
 ストライクゾーンから大きく外れた球。まだ初心者の萌には、捕れなくても当然だ。でも、そうじゃない。
 ボールが、見えなかった。利き手で投げるだけでこんなにもスピードが違うのか。
 もしも今の球が身体に当たっていたら? そう考えて、ぞっとする。手が震えて、背中に冷や汗が流れた。

「……萌ちゃん、交代する?」

 六年生のキャッチャーの先輩が声をかけてくれる。萌は甘えてしまいたくなるのをぐっと堪えて、しない! と大きな声で答えた。

「陸くん、萌ちゃん、もう一球」

 監督から指示が出される。陸がボールを持って、萌をまっすぐに見据える。その目がきらきらと輝いているのに気がついて、萌はハッとした。
 もしかして陸は、今初めて野球を楽しいと思っているのかもしれない。萌がキャッチ出来なかったら、その楽しさを台無しにしてしまうかもしれないのだ。
 ぐっと唇を噛んで、ミットで球をキャッチする感覚を思い出す。大丈夫、絶対捕れる。そう言い聞かせて、陸に向けて頷いた。
 ボールはミットを掠めて後ろに逸れた。でも今度はちゃんと、萌にもボールの軌道が見えていた。
 もう一球、と再び監督の声がして、陸が振りかぶる。陸の手をしっかり見て、ボールに集中する。今度はキャッチャーミットにしっかり収まった。じんじんと手に痛みが走り、萌は顔を上げる。

「…………すごい」
「萌ちゃん?」
「すごい、陸ちゃんすごいよ!」

 右手で投げるのとは全然違う。球の速度も、勢いも。
 萌が駆け寄ると、陸は照れ臭そうに笑った。

「陸ちゃん、ピッチャーで一番になろうよ! 陸ちゃんならなれるよ!」

 実際は、先輩の投げたボールの方がずっと速いだろう。コントロールだってまだまだ。改善するところはたくさんある。それでも、萌は陸がバッターを打ち取る未来が見える気がした。

「萌、言ってくれるじゃん。俺より陸の方が上手くなるってことだぞ?」

 一番の背番号をもらっている、六年生のピッチャーが萌の肩を抱く。先輩の投げる球は確かに速い。だけど、陸だってすごいのだ。
 黙って聞いていた陸が、唐突に口を開いた。

「……なるよ、おれ」
「陸ちゃん?」
「萌ちゃんが信じてくれるなら、おれ、一番のピッチャーになるよ」

 陸は自分のことを僕と呼んでいたはずだ。おれ、と突然呼び方を変えた陸に驚いて、萌は陸を見つめる。
 ずっと自信なさげに俯いていた陸が、先輩の目をまっすぐに見つめていた。宣戦布告ともとれるその言葉に、先輩が陸を睨むが、陸は怯まない。
 たった三球。利き手である左手で、三球投げただけだ。
 でもその三球が、間違いなく陸の中の何かを変えたのだ。幼馴染の変化に戸惑わない訳ではない。しかしそれ以上に、これから陸が成長していく未来を想像して、胸が高鳴った。