甲子園の決勝戦当日。
 萌は全く部活に集中が出来なかった。お弁当箱を家に忘れてきてしまうし、譜面のファイルを床にぶちまけて後輩に拾うのを手伝ってもらった。基礎練習の最中も、いつもはしないようなミスを連発した。

「本当にごめんなさい! 午後はちゃんとするから……!」

 お昼休みに入ると同時に、同じパートのメンバーに深々と頭を下げる。謝る萌に、後輩達はすっかり戸惑ってしまったようで、動揺の声を上げる。

「えええ、大丈夫ですよ! 私達なんていつももっとミスしてますし!」
「そうそう、普段の萌先輩が完璧すぎるんですって!」
「俺も気にしてませんよ。たぶん駿介先輩だって」

 ね、と言いながら裕也が駿介の方を見やるので、おそるおそる萌もそちらに目を向ける。駿介は自分にも厳しいが、人にも厳しい。午前中の萌の集中力のなさは、怒られても仕方がないだろう。
 しかし駿介の口から出てきたのは予想外の言葉だった。

「もしかして雨宮、体調悪い?」
「えっ……わ、悪くない、です」
「じゃあ疲れてる?」

 あんなにミスするのは雨宮らしくないもんな、と駿介が言ってくれて、萌は自分が恥ずかしくなった。
 仲間は萌のことを信頼してくれているのに、萌は自分のことばかりだ。今日だって、陸の出ている試合の行方が気になって、集中力を欠いてしまった。
 どんなコンディションであっても、目の前の練習に集中しなければいけなかったのに。

「私……お弁当忘れちゃったから、お昼ご飯買ってくるね」

 誤魔化すように笑うと、駿介が楽器を置いて立ち上がる。

「俺も行っていい? 冷たい飲み物買いたくて」

 飲み物なら自動販売機でも売ってるのにね、と風花が茶化すように言って、裕也がうんうんと頷く。頭をぺしんと叩かれたのは裕也だけだったが。

「あ、ひどいっすよ、今の言ったのは風花なのに!」
「お前の方がからかってる感じがした」
「なんすかそれ!」

 駿介と裕也は、学年こそ違えど仲がいい。二人を見ていて、少しだけ気持ちが明るくなった気がした。
 集中力がなくてミスを連発してしまった萌を責めるでもなく、こうして励ましてくれる仲間がいる。恵まれているな、と実感して、萌は駿介に笑いかけた。

「矢吹くん、じゃあコンビニまで付き合ってくれる?」
「うん、もちろん」

 いってらっしゃい、と手を振る後輩達に感謝しながら、コンビニでお菓子を買ってきてあげようと思うのだった。

「雨宮がコンビニのご飯って珍しいな」
「うん、ちょっと朝バタバタしてて、忘れてきちゃった」

 本当は甲子園の決勝戦が気になって、うっかり忘れてしまっただけなのだが。
 何となくそれを説明するのは憚られて、誤魔化してしまった。それがなぜなのか、萌自身にも分からなかったが、駿介は萌の言葉に納得したようだった。

「そういえば雨宮って自分でお弁当作ってるの?」
「ううん。お母さんの手作り。私、びっくりするほど料理音痴なの」
「へぇ! 意外だな。雨宮って何でも出来るタイプかと思ってた」

 勉強も運動もトランペットも、と挙げられたものに、ちょっと待って! と萌は慌てて声を上げる。

「私、そんなに器用な人間じゃないよ!? それを言ったら矢吹くんの方が何でも出来るでしょ?」

 学業の成績はいつも十位以内、体育の時間は何の競技でも女子から歓喜の声が上がる、吹奏楽部では部長を勤めるだけの人望もあり、何よりトランペットが上手い。
 中学生の頃から彼を知っているが、負けず嫌いな駿介は、出来ないことがあるとコツコツ努力を積み重ねて克服していくタイプだ。そしてそれを隠すことなく表に出しているので、また周りからの信頼が厚くなっていく。
 クラスの人気者、と言ってしまうとありきたりな言葉だが、それ以外に彼を表現する言葉が思いつかないのも確かだった。

「俺は不器用だよ。基本的に何をやっても最初は人並み以下だし」

 はは、と笑う彼は、謙遜しているようには見えなかった。もしかしたら本当に不器用な人なのかもしれない。初めて挑戦するものは、人並み以下にしか出来なくて、それを持ち前の向上心と努力で補っているのかも。そう考えると、なんだかかっこいいな、と萌は思う。

「矢吹くんってかっこいいよね」
「…………は?」
「苦手なことでも、へこたれずに挑戦して、得意なことに変えちゃうんだもん。すごいよ」

 コンビニは冷房がよく効いていて、涼しい風が二人を包んでくれる。外は汗をかくほど暑かったので、ここで少し涼んでいきたいくらいだ。
 萌が昼食を選び、駿介のもとに戻ると、彼はまだペットボトルのコーナーに立ち尽くしていた。

「矢吹くん、決まった?」
「……雨宮はどれが好き?」
「えっ? お茶ならほうじ茶が好きだし……あ、このオレンジ味のやつ、炭酸が苦手じゃなかったらおすすめだよ」

 この間買ってみて美味しかったジュースを勧めると、駿介は迷わずそれを二本手に取った。
 二本も飲むの? と訊ねると、片方は雨宮の分、と言われ戸惑ってしまう。

「え? 自分で買うよ?」
「いいんだよ。嬉しいこと言ってくれたから、そのお礼」

 な? と爽やかな笑顔を浮かべる駿介に、萌はなんだか胸の奥がむずむずするのを感じながら、ありがとうと小さく呟いた。
 後輩のお菓子を選んでコンビニを出る頃には、すっかり時間が経っていた。

「ごめんね! 思ったより遅くなっちゃった! せっかくのお昼休みなのに」
「大丈夫、俺はむしろラッキーって思ってるけど?」

 いたずらな笑みと共に首を傾げる駿介。その意味が分かるような、それでいてまだ知りたくないような、そんな気持ちに駆られながら、早く帰ろう! と駿介の背中を押すのだった。