陸がやって来たのは、約四十分後。家のインターホンが鳴り、萌が対応したが、陸はおばさんを呼んでくれる? と言った。

「お母さん、陸ちゃんが呼んでる」
「なあに、どうしたの」
「おばさん、これからちょっとだけ萌を連れて出ていいですか。絶対にちゃんと送って帰ります。十分くらいで帰ってくるので、お願いします」

 深々と頭を下げる陸に、母は目を丸くした。それから萌と陸を見比べて、笑いながら言葉を紡いだ。

「じゃあ陸くん、萌のことをよろしくね」
「はい」

 萌、行こう。と差し出された大きな手は、ゴツゴツとしていて男らしい。いつの間にか知らない人になってしまったみたいだ。
 陸に手を引かれるまま、以前二人で話をした公園に向かった。

「ブランコ、久しぶりかも」
「そうだね。昔はよく二人で競争したよね」

 ブランコに座り、二人でぽつりぽつりと話を始める。幼い頃は、陸と萌の二人で、どちらの方が高くブランコを漕げるか、競争したものだ。
 萌が野球を辞めてから、二人で遊ぶことも少なくなって、ブランコで競争することもなくなってしまったけれど。

「陸ちゃん、どうやって外出してきたの?」

 陸の所属する野球部は、全寮制な上にスマートフォンの扱いまで制限されるほど、厳しい決まりがある。無断外出なんて厳罰の対象に違いない。
 心配になって質問すると、ちゃんと許可は取ってきたよ、と陸が笑う。母さんには悪いけど、母さんの体調が悪いってことになってる、と困ったように眉を下げる姿は、昔のままだ。
 さっき大人になった手を見て知らない人みたいだと思ったばかりなのに、なんだか不思議な気分である。

「ごめんね、私が話をしたいって言ったから」
「ううん。でも大事な話なんでしょ?」

 だったら顔を見て聞きたかったから、と陸が笑う。その優しさに、また泣きたくなってしまう。

「あのね、私…………」
「うん」
「私、今日、初めて気がついて…………好きな人がいるの。たぶん、ずっと好きだったの」

 自覚をしていなかっただけ。本当は、もっと前から好きだったのだ。少し目をつむれば、駿介の優しいところ、いたずらに笑った顔や、ちょっと意地悪なところ、それから好きな人に向けたというあの愛情深い音を思い出す。好きなところなんていっぱいある。ずっと、気づいていなかっただけだ。

「…………そっか」

 陸が掠れた声で呟き、キィ、という音と共に小さくブランコを揺らす。
 それから足元を見つめたままの萌の名を呼び、優しく笑う。

「萌の好きな人って、俺じゃないよね。…………矢吹?」
「っ、…………うん」

 ごめん、と言いかけた萌に、陸が静止をかける。謝らなくていいよ、と。
 どこまでも優しい幼馴染が、ブランコを思い切り漕ぎ始める。突然のことに驚いて目を丸くしていると、どっちが高く漕げるか競争しようよと陸が言う。

「ええ? 急に? 私、久しぶりだからたぶんそんなに高く漕げないよ」
「それでもいいよ。俺が勝ったら萌は泣かないこと。ね?」
「…………!」

 萌が泣く必要はないのだと、彼は笑う。思い切りブランコを漕ぐ陸に倣って、萌もブランコを揺らしてみるが昔のようには上手くいかない。幼い頃に競争していたときは、萌が勝つことの方が多かったはずなのに。
 そのうちに息が切れて、もう無理ー! と嘆きながらブランコを止めると、陸も楽しそうに笑って地面に足をつけた。

「俺の勝ちだね?」
「うん、全然敵わないや」
「じゃあ萌は泣いちゃだめ」

 そう言って萌の頭を優しく撫でると、陸が空を見上げる。

「俺さ、萌と出会って世界が変わったんだよ」

 陸は静かな声で言葉を紡ぐ。

「人見知りで周りに上手く馴染めない俺の手を引っ張って、みんなの輪に入れてくれて。新しいことを一緒に始める相手に選んでくれて。楽しいことを教えてくれて」
「……陸ちゃん」
「そんな萌が、本当に好きだったよ」

 月明かりが、彼の笑顔を照らす。その瞳には少しだけ涙がにじんでいて、萌も泣きそうになってしまう。でも、約束したから。泣かない、と。ぐっと唇を噛んで涙を堪えると、陸がブランコから立ち上がる。

「帰ろうか」
「うん…………」

 陸との関係が、終わってしまう。大切な幼馴染を、傷つけてしまった。せっかく好きになってくれた優しい人の、気持ちに応えられなくて。
 萌は涙を堪えながら震える声で言葉を紡ぐ。この言葉が、どうか彼を傷つけませんように、と祈りながら。

「陸ちゃん。……これからも、陸ちゃんの野球、応援してるからね」

 友達でいてね、とか。今まで通り仲良くしてね、とは言えない。でも、陰ながら応援させてほしい。そんな気持ちを紡いだのだが、陸は目を丸くして、それからまた優しく笑う。

「うん、応援してて。萌は俺の一番の友達なんだから」

 その言葉を聞いたらもうダメだった。ぽろ、と涙がこぼれ落ちて、慌てて拭う。陸は見ないふりをしてくれていた。
 帰り道は手を繋がずに、半歩分離れて歩いた。これがきっと、これからの陸と萌の距離感だ。寂しいと思ってはいけない。萌が選んだことなのだから。

「じゃあ、またね」
「うん、またね。話、聞きに来てくれてありがとう」
「うん。こっちこそ。勇気を出して話してくれてありがとう」

 お礼を言われることなんて何もしていない。陸と別れて家の玄関に入った瞬間、萌は崩れ落ちるように泣いた。
 どうか優しくて大切な幼馴染が、誰よりも幸せになれますように。
 そう願いながら、ぼろぼろと涙をこぼし続けた。