そこからは、萌もずっと緊張していた。
 少し緊張していたみたいだけど大丈夫だろうか。練習通り、いつも通りに実力を発揮出来るだろうか。また手が冷えてしまっていないだろうか。それから緊張で楽譜が飛んでしまったりしていないだろうか。
 これではまるで、我が子の授業参観を待つ保護者のようだ。
 駿介の方が萌なんかよりもよほどしっかりしているのだから、きっと大丈夫。神に祈るようにぎゅっと両手を握りしめて、目をつむる。
 曲名と駿介の名前がアナウンスされた。ゆっくり目を開ける。駿介はリラックスした様子でステージに立ち、一礼する。

 それから観客席を見上げ、萌と目が合った。もしかしたら、気のせいかもしれない。後ろの方の席だし、遠くてよく見えないはずだ。大体この辺りに音を飛ばすイメージをすると言っていたくらいだし。たまたまかも。

 でもなぜか、心臓が早鐘を打つ。
 駿介がすっとトランペットを構えると、ピアノの伴奏が始まる。そして、トランペットの力強く、どこかやわらかい音色が奏でられた。
 オーディションのときに聴いたものよりもずっと優しく。そして、一音一音に愛情を込めて吹いているようだった。
 音の波が優しく響いて、どうしてか涙がこぼれ落ちた。息をすることさえももったいないと感じるくらい、休符にも意味があるように感じる音楽。
 聴いたことのない優しさの詰まったメロディが、萌の涙をぽろぽろと誘った。この演奏を表現するならば、『愛情深い』という言葉がしっくりくるだろう。
 そして、萌は曲を聴きながら気づいてしまった。

 駿介にこんな風に想われる女の子が羨ましい。めちゃくちゃ好きなやつがいるんだ、と笑ったあの笑顔を、ひとりじめ出来る子がいることを、痛々しいほどに妬ましく思った。

 こんなに優しい演奏を聴きながら、そんなことを思ってしまう自分が醜くて。それでも気づいてしまった気持ちに蓋も出来ず、涙だけが溢れていく。
 彼がステージに立っている時間は途方もなく長く、そして息を飲むほどに短かった。演奏が終わると萌は一番に拍手し、駿介が舞台を去るのと同時に客席を飛び出す。
 演奏を終えた演者は、片付けをするために一度玄関ホールを通るはずだ。そう思って玄関ホールまで早足で歩く。泣いているせいで周りの人からの目が痛かったけれど、萌の涙は止まらなかった。

「矢吹くん!」

 人が行き交う中でも真っ先に駿介の姿を見つけられたのはどうしてだろう。たまらず駆け寄ると、駿介は目を丸くして「何で泣いてんの」と困ったように眉を下げた。

「だって矢吹くんの演奏、すごかったから」

 矢吹くんの大好きな人への愛が詰まってた。一音一音が、愛してるって囁いているみたいだった。そんなことは恥ずかしくて言えないけれど。本当にそう思ったのだ。

「…………よく分かんないけど、俺の演奏を聴いて泣いたってこと?」
「うん」
「はははっ、なにそれ、めちゃくちゃかわいいじゃん」

 トランペットを持つ手とは反対の手で、髪をぐしゃりと撫でられる。その瞬間に胸の奥がきゅんと鳴いて、萌は今度こそはっきりと自覚した。

 どうしよう、私、矢吹くんが好きだ。

 ぐしゃぐしゃとかき混ぜられた髪はきっとぼさぼさになっているだろう。それでもその手の大きさが、温かさが、優しさが、どうしようもなく愛おしくて、振り払えない。

「嫌がらないの珍しいな」

 駿介の手が最後に頭をぽんと撫でて、離れていく。それから片付けしてくるからまた後でな、と去っていく後ろ姿に、無性に抱きつきたくなった。