月日は瞬く間に流れて、ソロコンテストの当日がやってきた。駿介にはトランペットパートみんなで手作りした、小さな寄せ書きノート風のお守りをプレゼントする。

「ポケットに忍ばせておいてね。そしたらきっと緊張せずにいつも通り吹けるから」

 萌がそう言って笑うと、駿介も目を細めて嬉しそうに笑ってみせた。
 駿介の演奏順は真ん中あたりで、本番直前まで他の人の演奏を聴くというので、二人並んで後ろの方の席を取った。
 部員達はもう少し前の方に並んで座っているけれど、駿介が後ろの方に座りたいと言ったのだ。

 コンテストの参加者が演奏を終え、舞台を去ってから、次の演奏者が始めるまでの短い時間。駿介が小さい声で話しかけてくる。

「雨宮さぁ」
「ん?」
「俺の演奏のときも、この席にいてくれない?」
「えっ?」

 駿介がいなくなったら、美波たち後輩と一緒に座ろうと思っていたので、驚いて首を傾げる。

「別にいいけど、どうして?」

 特に理由が思いつかなかった。もう少し前の方の席の方が、むしろ舞台から視認出来て安心出来るのではないかとすら思う。
 でも駿介は「このホールの後ろの方まで音を飛ばしたいから」と答えてくれた。
 萌を目印にして、音を飛ばすイメージをする、ということらしい。そういうことなら、と頷くと、ちょうど次の演奏が始まって二人で顔を見合わせて口をつぐむ。真剣に演奏を聴いている中で、なんとなく隣を盗み見ると、駿介の表情が緊張にこわばっていることに気がつく。

 駿介がリハーサル室に行くまであと三曲。三人分の発表を聴いたら、もう駿介を励ますことは出来ない。
 どうにか緊張をほぐしてあげられないだろうか、萌の力で。しかし、いろいろと考えてみたが何も思いつかない。
 仕方なく、隣に無造作に投げ出されていた駿介の左手に、自分の右手をそっと絡める。案の定その手は冷え切っていた。
 驚いたようにこちらを見た駿介に、出来る限りいつも通りの笑みを浮かべて、小声で囁いた。

「矢吹くんがいっぱい練習してたの知ってるよ。だから、緊張しなくても大丈夫」

 ね? と笑いかけた萌に、駿介はぷい、とそっぽ向いてしまったけれど。冷たかった手に少しずつ温かさが戻ってきたので、きっと萌の気持ちは伝わったのだろう。
 手を離すきっかけも、理由も見当たらなくて。そのままの状態で三曲ほど聴き終えると、駿介がそっと手をほどいて立ち上がった。

「じゃあ行ってくる。ありがとな、雨宮」
「うん。ここで聴いているからね」

 頑張って、とはあえて言わなかった。そんなことを言わなくても、誰よりも頑張ってきたことを知っているからだ。
 駿介の表情には、先の緊張の色は見当たらない。心の中でだけ頑張れ、と呟いて、いってらっしゃいと笑って手を振った。