甲子園の決勝戦は毎年盛り上がるものだが、今年は例年の比ではないくらいメディアの注目を浴びていた。
速水陸。甲子園の準決勝にて、強豪青葉高校を完封してみせた、二年生投手。投手としての腕も確かだが、見目が良く、インタビューの受け答えもハキハキしていて爽やか。甲子園のプリンスという呼び名がお茶の間に広まったことも、決勝戦への注目度を上げていた。
明日は待ちに待った甲子園の決勝戦、生中継でお送りします。そんな言葉をアナウンサーが紡いでいるのを聞きながら、萌はぼんやりとテレビを眺めていた。
決勝戦はもちろん、録画予約している。決勝だけではなく、今までの試合も全て。陸が登板したのは準決勝が初めてだったが、どのタイミングで彼がマウンドに上がるのか萌には分からなかったので、陸のいる東星学園の試合は全て録画してあった。
決勝戦の時間、萌は吹奏楽部の練習だ。休むわけにはいかない。コンクールが終わり、先輩が引退して事実上の最上級生になった今、気を抜くわけにはいかないのだ。
それに、萌が休んでしまったら、同じトランペットパートの二年生、駿介に迷惑をかけてしまう。駿介は部長という責任ある仕事を任せられているので、下級生の面倒は萌が見なくては。
それでも決勝戦は、リアルタイムで見たかったな、というのが本音である。明日はきっとそわそわして練習に身が入らないだろう。そんなことを考えていると、ふいに玄関のインターホンが音を立てる。
時計を見ると、夜の十時。誰かが訪ねてくるには遅すぎる時間だ。看護師の母は夜勤でいないし、父も残業で遅くなると言っていた。この家には萌一人しかいない。
警戒しながらインターホンの画面を見ると、見覚えのある女性が立っていた。慌てて玄関に向かい、ドアを開ける。そこにいたのはお隣に住む陸の母だった。
「おばさん! どうしたの、こんな時間に」
「夜遅くにごめんね、萌ちゃん。陸がどうしても萌ちゃんと話したいって言って聞かなくて」
差し出されたのはスマートフォンだった。速水陸、と表示された画面に、心臓が大きく音を立てる。
陸の通う学校は、全寮制だ。スポーツに力を入れており、野球部は特に厳しいと聞いている。実家に帰省出来るのは年末年始だけで、それ以外は基本的に寮生活を強いられている。スマートフォンも原則禁止らしく、家に電話が出来るのは月に一度、決められた日に十分だけ、という徹底ぶりだ。野球に生活を捧げていると言っても過言ではないだろう。
どうやら今日がスマートフォンを返してもらえる月に一度の日だったらしい。陸の母は残り五分しかないんだけど、と言いながら萌に自分のスマートフォンを握らせた。
「…………もしもし」
耳にスマートフォンを押し当てて、電話口に話しかける。少しだけ緊張しているのは、きっと彼と会話をするのがお正月以来だからだろう。
『もしもし、萌?』
陸だ、陸の声だ。
テレビのインタビューで聞いた声よりも、少し低いそれに、胸の奥がきゅうっと鳴く。萌に気を遣ってくれたのか、陸の母が外に出て玄関のドアを閉める。
「久しぶりだね」
そんなありきたりな言葉しか出てこない自分が情けない。許された時間はたったの五分。もっと気の利いた言葉が出て来ればよかったのに、と思っていると、陸の方から話を振ってくれた。
『準決勝、見た?』
「うん、見たよ。陸ちゃんすごかったね、完封しちゃうなんて」
『明日、決勝なんだ』
「うん。明日も見るよ」
決勝戦の前日で、緊張しているのだろうか。どこかぎこちない喋り方の陸に、萌は優しく相槌を打つ。
『……明日の決勝が終わったらさ、特別休暇がもらえるんだ』
「えっ! そうなんだ、よかったね。ゆっくり休んでね」
『うん。そっちに帰るから』
陸の言葉に萌は目を丸くする。お休みと言っても、てっきり寮でゆっくり過ごすのかと思っていた。でもどうやら違うらしい。
陸が久しぶりに帰ってくる。その事実に、胸の奥が熱くなる気がした。
『それで、俺、萌に聞いてほしい話があるんだけど』
「なあに?」
『帰ったら言う』
なにそれ、と萌は笑うが、陸は笑わなかった。夜とはいえ、玄関がじんわりと暑いからか、スマートフォンを持つ手が汗ばんでくる。慌てて持ち直して汗を拭うと、萌は陸に問いかけた。
「電話じゃ言えない話?」
『うん。あー、というか、電話ではしたくない話って感じかな』
「同じじゃない?」
『全然違うよ』
電話の向こうで、陸を呼ぶ声が聞こえる。どうやらタイムリミットが来たらしい。
寂しいな、と思うのは萌だけだろうか。
電話が切れる前に、陸の名前を呼ぶ。
「陸ちゃん!」
『ん? どうした?』
優しい声は、昔と変わらない。今は住む世界が違ってしまっているけれど、根っこのところはきっと変わらないままなのだ。そのことが嬉しくて、萌は少しだけ泣きそうになった。
「……明日、応援してるから」
「ん、ありがとう」
またな、という声と共に、電話が切れる。ツー、ツー、という虚しい音が鳴り響く中、萌はせめて自分の応援が少しでも陸の力になればいいと願っていた。
速水陸。甲子園の準決勝にて、強豪青葉高校を完封してみせた、二年生投手。投手としての腕も確かだが、見目が良く、インタビューの受け答えもハキハキしていて爽やか。甲子園のプリンスという呼び名がお茶の間に広まったことも、決勝戦への注目度を上げていた。
明日は待ちに待った甲子園の決勝戦、生中継でお送りします。そんな言葉をアナウンサーが紡いでいるのを聞きながら、萌はぼんやりとテレビを眺めていた。
決勝戦はもちろん、録画予約している。決勝だけではなく、今までの試合も全て。陸が登板したのは準決勝が初めてだったが、どのタイミングで彼がマウンドに上がるのか萌には分からなかったので、陸のいる東星学園の試合は全て録画してあった。
決勝戦の時間、萌は吹奏楽部の練習だ。休むわけにはいかない。コンクールが終わり、先輩が引退して事実上の最上級生になった今、気を抜くわけにはいかないのだ。
それに、萌が休んでしまったら、同じトランペットパートの二年生、駿介に迷惑をかけてしまう。駿介は部長という責任ある仕事を任せられているので、下級生の面倒は萌が見なくては。
それでも決勝戦は、リアルタイムで見たかったな、というのが本音である。明日はきっとそわそわして練習に身が入らないだろう。そんなことを考えていると、ふいに玄関のインターホンが音を立てる。
時計を見ると、夜の十時。誰かが訪ねてくるには遅すぎる時間だ。看護師の母は夜勤でいないし、父も残業で遅くなると言っていた。この家には萌一人しかいない。
警戒しながらインターホンの画面を見ると、見覚えのある女性が立っていた。慌てて玄関に向かい、ドアを開ける。そこにいたのはお隣に住む陸の母だった。
「おばさん! どうしたの、こんな時間に」
「夜遅くにごめんね、萌ちゃん。陸がどうしても萌ちゃんと話したいって言って聞かなくて」
差し出されたのはスマートフォンだった。速水陸、と表示された画面に、心臓が大きく音を立てる。
陸の通う学校は、全寮制だ。スポーツに力を入れており、野球部は特に厳しいと聞いている。実家に帰省出来るのは年末年始だけで、それ以外は基本的に寮生活を強いられている。スマートフォンも原則禁止らしく、家に電話が出来るのは月に一度、決められた日に十分だけ、という徹底ぶりだ。野球に生活を捧げていると言っても過言ではないだろう。
どうやら今日がスマートフォンを返してもらえる月に一度の日だったらしい。陸の母は残り五分しかないんだけど、と言いながら萌に自分のスマートフォンを握らせた。
「…………もしもし」
耳にスマートフォンを押し当てて、電話口に話しかける。少しだけ緊張しているのは、きっと彼と会話をするのがお正月以来だからだろう。
『もしもし、萌?』
陸だ、陸の声だ。
テレビのインタビューで聞いた声よりも、少し低いそれに、胸の奥がきゅうっと鳴く。萌に気を遣ってくれたのか、陸の母が外に出て玄関のドアを閉める。
「久しぶりだね」
そんなありきたりな言葉しか出てこない自分が情けない。許された時間はたったの五分。もっと気の利いた言葉が出て来ればよかったのに、と思っていると、陸の方から話を振ってくれた。
『準決勝、見た?』
「うん、見たよ。陸ちゃんすごかったね、完封しちゃうなんて」
『明日、決勝なんだ』
「うん。明日も見るよ」
決勝戦の前日で、緊張しているのだろうか。どこかぎこちない喋り方の陸に、萌は優しく相槌を打つ。
『……明日の決勝が終わったらさ、特別休暇がもらえるんだ』
「えっ! そうなんだ、よかったね。ゆっくり休んでね」
『うん。そっちに帰るから』
陸の言葉に萌は目を丸くする。お休みと言っても、てっきり寮でゆっくり過ごすのかと思っていた。でもどうやら違うらしい。
陸が久しぶりに帰ってくる。その事実に、胸の奥が熱くなる気がした。
『それで、俺、萌に聞いてほしい話があるんだけど』
「なあに?」
『帰ったら言う』
なにそれ、と萌は笑うが、陸は笑わなかった。夜とはいえ、玄関がじんわりと暑いからか、スマートフォンを持つ手が汗ばんでくる。慌てて持ち直して汗を拭うと、萌は陸に問いかけた。
「電話じゃ言えない話?」
『うん。あー、というか、電話ではしたくない話って感じかな』
「同じじゃない?」
『全然違うよ』
電話の向こうで、陸を呼ぶ声が聞こえる。どうやらタイムリミットが来たらしい。
寂しいな、と思うのは萌だけだろうか。
電話が切れる前に、陸の名前を呼ぶ。
「陸ちゃん!」
『ん? どうした?』
優しい声は、昔と変わらない。今は住む世界が違ってしまっているけれど、根っこのところはきっと変わらないままなのだ。そのことが嬉しくて、萌は少しだけ泣きそうになった。
「……明日、応援してるから」
「ん、ありがとう」
またな、という声と共に、電話が切れる。ツー、ツー、という虚しい音が鳴り響く中、萌はせめて自分の応援が少しでも陸の力になればいいと願っていた。