オーディションのあの日から、駿介の演奏はほとんど聴いていない。駿介は一人別室で練習しているのだが、トランペットパートの練習部屋から離れた教室を使っているせいで、あまり聴こえないのだ。
 せっかくならどんな仕上がりになっていくのか、聴いていたかったな。
 そう思うのは、彼の演奏する『愛の挨拶』がそれだけ魅力的だったからだろう。オーディションの準備期間に動画サイトでたくさんの動画を見たが、やはり駿介の演奏が一番耳に残っている。演奏技術はプロのものの方がもちろん高いけれど、技術とは違う、曲の表現力という点で駿介は秀でていたのだ。

 萌も頑張らなければ、と思う。定期演奏会に向けての練習。来年のコンクール曲。そして何より、基礎の底上げ。
 どんな曲も、基礎が出来ていないと表現にすら至らない。でも基礎だけでもダメだ。もっと曲に対する理解を深めて、どんな気持ちで吹くのか、その一音には作曲者のどんな想いが込められているのかを考えなければ。

 こんな風に考えることが出来るようになったのは、駿介のおかげだろう。ソロコンテストのオーディションでの敗北は、萌にとっては無駄ではなかったのだ。悔しいけれど、糧になっている。間違いなく必要なステップだった。
 オーディション当日には送れなかったメールを、数日経った今、萌は作成していた。

『ソロコンテストのオーディション、矢吹くんに負けちゃった。でも今はそのおかげで成長出来てるよ』

 陸に宛てた、短いメッセージだ。彼がこのメッセージを見るのはひと月に一度のスマートフォン解禁日になるので、もう少し先だろう。それでもよかった。
 曲想に悩んでいるときに話を聞いてもらったので、報告しておきたかったのだ。次に電話をするときは、オーディションに負けて悔しかった、という話ではなくて、もっと明るい話がしたい。陸の話を聞きたいと思うから。
 次の電話のときは、陸ちゃんの話を聞かせてね。そんな文言を最後に付け加え、メッセージアプリを閉じる。
 不思議と気持ちは晴れやかだった。