「え、雨宮、練習していかないの?」
いつもなら最後まで練習していくが、萌は一秒でも早く音楽室から離れたくて、楽器を片付け始める。
「うん、ごめん。さすがにそんな気分になれないから先に帰るね」
「…………いや、ダメ。待ってて」
それはさすがに鬼畜じゃないだろうか。とは思うが口には出さない。
トランペットを磨いていたクロスをぎゅっと握りきめ、唇を噛む。
ついさっき負けたばかりなのだ。しかもなかなかの大差で。
悔しいし、みじめな気持ちになるから、と小さく呟き、再び楽器を磨き始める。駿介はしばらく黙った後、静かな声で呟いた。
「今回俺が雨宮に勝てた理由、なんでか分かる?」
「……練習量の差?」
違うよ、と駿介がやわらかく笑う。
「雨宮がまだ、恋を知らないからだよ」
「………………矢吹くん、今結構恥ずかしいこと言ってるけど、自覚ある?」
「あるけど。でも雨宮、落ち込んでるじゃん。俺がちょっと恥ずかしい思いをして雨宮に元気を出してもらえるなら、絶対そっちの方がいいし」
続いた言葉もなかなか恥ずかしいものだったが、駿介は照れる様子もない。
「私が恋を知らないって、どうしてそう思うの」
駿介と恋の話をしたことなんてほとんどない。後輩達がそういう話題を振ってくるときも、なんとなく気まずくて曖昧に濁してきたからだ。
だからこそ不思議だった。付き合いが長いので、初めての恋人すらまだなことは知られていてもおかしくはない。でも、恋を知らない、という表現は、「好きな人すらいたことがない」というように聞こえる。
「最初はあの幼馴染のことが好きなのかと思ったんだよ。仲良さそうだし、陸ちゃんなんて名前で呼んでるし?」
「っ、それは、幼馴染だし……」
甲子園のプリンスだっけ? あいつモテそうだしな、と駿介は笑ったのに、どこか悲しげな表情に見えて、萌は思わず息を飲む。
それから、ハッとしてあたりを見回すが、もう部員はみんな帰宅していて、周りには誰もいない。萌の幼馴染が甲子園のプリンスだと知られたら大騒ぎになりそうなので、ほっと息を吐く。
「さっきの、俺が雨宮に勝てた理由だけど」
「えっ、あ、うん」
駿介がトランペットを置き、萌に笑いかける。
「じゃあ俺は恋を知ってるのかって話になるじゃん?」
確か好きな人がいる、とそう言っていた。だから演奏に深みが出たのだろうか。『愛の挨拶』は、愛をテーマにした曲だから。
「いるんだよ、めちゃくちゃ好きなやつが。曲にちなんで、俺もそいつに贈るつもりで吹いたから」
そこが雨宮との差かな? と意地悪く笑う駿介に、萌はもうみじめな気持ちや逃げ出したい気持ちはなくなっていた。代わりに生まれた少しの憤りに、頰を膨らませてみせるが、駿介は楽しそうに笑うばかりだ。
「……やっぱり練習していく!」
「あれ? 帰るんじゃなかったの?」
「矢吹くんがソロコンの練習している間に、私は基礎も表現も全部練習して、絶対に上手くなるから!」
「…………雨宮はそうでなくちゃ」
きっと、全て駿介の策略通りなのだろう。それがちょっと悔しいけれど、元気が出たのは間違いなく駿介のおかげだ。
お礼は言わない。代わりに磨きかけのトランペットを再び構えて、音に気持ちを込めてみた。
隣の席の駿介が小さく笑った。萌のありがとうの気持ちは伝わったのだろうか。伝わっていたらいいな、と、そう思った。
いつもなら最後まで練習していくが、萌は一秒でも早く音楽室から離れたくて、楽器を片付け始める。
「うん、ごめん。さすがにそんな気分になれないから先に帰るね」
「…………いや、ダメ。待ってて」
それはさすがに鬼畜じゃないだろうか。とは思うが口には出さない。
トランペットを磨いていたクロスをぎゅっと握りきめ、唇を噛む。
ついさっき負けたばかりなのだ。しかもなかなかの大差で。
悔しいし、みじめな気持ちになるから、と小さく呟き、再び楽器を磨き始める。駿介はしばらく黙った後、静かな声で呟いた。
「今回俺が雨宮に勝てた理由、なんでか分かる?」
「……練習量の差?」
違うよ、と駿介がやわらかく笑う。
「雨宮がまだ、恋を知らないからだよ」
「………………矢吹くん、今結構恥ずかしいこと言ってるけど、自覚ある?」
「あるけど。でも雨宮、落ち込んでるじゃん。俺がちょっと恥ずかしい思いをして雨宮に元気を出してもらえるなら、絶対そっちの方がいいし」
続いた言葉もなかなか恥ずかしいものだったが、駿介は照れる様子もない。
「私が恋を知らないって、どうしてそう思うの」
駿介と恋の話をしたことなんてほとんどない。後輩達がそういう話題を振ってくるときも、なんとなく気まずくて曖昧に濁してきたからだ。
だからこそ不思議だった。付き合いが長いので、初めての恋人すらまだなことは知られていてもおかしくはない。でも、恋を知らない、という表現は、「好きな人すらいたことがない」というように聞こえる。
「最初はあの幼馴染のことが好きなのかと思ったんだよ。仲良さそうだし、陸ちゃんなんて名前で呼んでるし?」
「っ、それは、幼馴染だし……」
甲子園のプリンスだっけ? あいつモテそうだしな、と駿介は笑ったのに、どこか悲しげな表情に見えて、萌は思わず息を飲む。
それから、ハッとしてあたりを見回すが、もう部員はみんな帰宅していて、周りには誰もいない。萌の幼馴染が甲子園のプリンスだと知られたら大騒ぎになりそうなので、ほっと息を吐く。
「さっきの、俺が雨宮に勝てた理由だけど」
「えっ、あ、うん」
駿介がトランペットを置き、萌に笑いかける。
「じゃあ俺は恋を知ってるのかって話になるじゃん?」
確か好きな人がいる、とそう言っていた。だから演奏に深みが出たのだろうか。『愛の挨拶』は、愛をテーマにした曲だから。
「いるんだよ、めちゃくちゃ好きなやつが。曲にちなんで、俺もそいつに贈るつもりで吹いたから」
そこが雨宮との差かな? と意地悪く笑う駿介に、萌はもうみじめな気持ちや逃げ出したい気持ちはなくなっていた。代わりに生まれた少しの憤りに、頰を膨らませてみせるが、駿介は楽しそうに笑うばかりだ。
「……やっぱり練習していく!」
「あれ? 帰るんじゃなかったの?」
「矢吹くんがソロコンの練習している間に、私は基礎も表現も全部練習して、絶対に上手くなるから!」
「…………雨宮はそうでなくちゃ」
きっと、全て駿介の策略通りなのだろう。それがちょっと悔しいけれど、元気が出たのは間違いなく駿介のおかげだ。
お礼は言わない。代わりに磨きかけのトランペットを再び構えて、音に気持ちを込めてみた。
隣の席の駿介が小さく笑った。萌のありがとうの気持ちは伝わったのだろうか。伝わっていたらいいな、と、そう思った。