夏休み中の吹奏楽部の活動は、午前九時から午後七時まで。それより早く来て練習をすることは当たり前だし、練習時間が終わっても居残りすることもあった。
 萌はどちらかというと練習熱心な方だろう。楽器を家に持ち帰らない分、学校で練習する時間を確保したい。だから少し早めに部室に行って練習を始めるし、帰りも遅くまで残っている。集中力が切れてしまう瞬間はどうしてもあるけれど、短い休憩などを挟みながら、なるべく練習時間を取るようにしていた。
 しかし昼休みである一時間だけは、練習禁止になっている。手や唇を休める時間を作りなさい、というのが講師の教えなのだ。昼休みに練習しているのが見つかると、それはもううんざりするほど怒られるので、萌も昼休みだけは必ず休息をとるようにしていた。
 そんな昼休みのこと。同じトランペットパートの仲間と昼食をとっていると、後輩の美波が小さなため息を吐いた。いつも明るい彼女の意外な一面に、驚いた萌は心配の声をかける。

「どうしたの、美波ちゃん。疲れちゃった?」

 一番に心配したのは体調のことだ。コンクールが終わったばかりで、ずっと張っていた緊張の糸がほぐれ、身体を壊す者も少なくない。今日も風邪で一人休みの子がいたはずだ、と思い出しながら後輩の顔を覗き込むと、違うんです、と美波が呟いた。

「今朝のこと思い出しちゃって……」
「今朝? 何かあったの?」
「痴漢ですよ! バスの中でお尻触られて最悪だったんです!」

 落ち込んでいる、というよりは、怒っている。
 美波の勢いに押されて、トランペットパートのみんなは押し黙っている。特に男子からしたら、気まずい話題だろう。
 三年生が卒業した今、トランペットパートは二年生二人、一年生三人で構成されている。男子二人は励ましにくいだろうし、ここは二年生で同性である萌が何か声をかけなければ。

「あのバス、痴漢が多いよね。学校専用バスとかだったらよかったけど、一般の人も使うから……」

 意見に同調しつつ、強い言葉にならないよう控えめに。
 気を遣って紡いだ言葉だったが、反応したのは当の美波ではなく、さっきまで黙って聞いていた駿介だった。

「ちょっと待った。もしかして雨宮もあるの?」
「痴漢? あるある。一年のときから三回くらいかな? 時間変えても無駄だったから、もう諦めちゃってるけど」

 高校の前にバス停があるため、女子高生が必ず乗っているバスとして目をつけられているのだろう。同じ相手かどうかは分からないが、いつも利用しているバスに痴漢が多発していることは事実だった。
 知らない相手に身体を触られる、というのは本当にこわいことだ。声を上げて助けを求めればいいと言われるかもしれないが、本当に痴漢なのかな、冤罪だったらどうしよう、という考えが頭の中をぐるぐると回ってしまうのだ。それに何より、本当に恐怖を感じたときは声を出すこともままならない。
 萌が出した結論は、諦めよう、ということだ。やめてくださいと言えない自分が悪い。我慢してやり過ごせばいい、バス停に着くまでの辛抱だから、と。
 萌が箸で卵焼きを掴んで持ち上げると、ふいに駿介が立ち上がった。驚いて顔を上げる。ぽと、とお弁当箱の中に卵焼きが帰っていく。駿介は怒りを帯びた表情をしていて、萌は目を丸くした。

「早く言えよ、そういうことは!」
「えっ」
「今日から俺が帰りは送っていくから。朝も迎えに行くから、何時のバスか連絡して」
「えっ、えっ? ちょっと待ってよ、矢吹くん」

 なんで急にそんな話になったの!? と戸惑っていると、美波の隣でにこにこしながら話を聞いていた風花が、いたずらっ子のような表情を浮かべ、身を乗り出してくる。

「矢吹先輩、知ってます? 萌先輩って、バス停から家まで歩いて帰ってるんですよ」
「は? 自転車とか迎えとかじゃないの?」
「えええ……歩くの、普通じゃない?」

 バス停から家までは十分くらいだし、街灯もある。幼い頃から住んでいる街なので、知り合いの家も多い。両親も特に心配している様子はないし、萌も気にしたことがなかった。
 しかし目の前の駿介は、信じられないというような表情で萌を見つめていた。

「分かった。家まで送るし、迎えに行くから」
「えっ、矢吹くんの家、うちより手前だし、遠回りになっちゃうからいいよ」
「俺が嫌なんだよ」

 何かあってからじゃ遅いだろ、と言う駿介の言葉に、今まで黙っていた一年の裕也がひゅー、と囃し立てる。おいこら何か文句あんのか、と裕也の髪をぐしゃぐしゃにする駿介に、萌は何と声をかけたらいいか分からず、戸惑ってしまう。
 このままでは、部活の時間外まで駿介に気を遣わせてしまう。朝の迎えと夜に送って帰る時間。その時間があれば、楽器の練習も出来るし、身体を休めることも出来る。萌のために時間を使わせてしまうのは申し訳ない。
 どうしよう、と悩んでいると、隣から美波と風花が声をかけてきた。

「萌先輩! ここは甘えておくところですよ!」
「そうそう! 駿介先輩は頼って欲しいんだし!」

 二人の言葉が耳に入ったのだろう。駿介が萌の目を見つめ、「もしかして迷惑?」と問いかける。

「えっ、違うよ! 迷惑とかじゃなくて、逆に送り迎えしてもらったら私が矢吹くんの迷惑になっちゃうと思って……」
「迷惑なわけないじゃん。俺が雨宮を一人で帰らせたくないだけ」

 その言葉に心臓がドキッと跳ねる。
 そんなのまるで、と考えかけて、慌てて頭を振る。自惚れてしまいそうになったのだ。もしかして、駿介が萌のことを好きなのではないか、と。
 なんとなく頰が熱い気がするのは、夏の暑さのせいだろうか。
 慌てて顔を隠すように俯くと、萌は小さな声で「お願いします」と呟いた。喜んで、と嬉しそうな声で返す駿介の顔を見ることが出来なくて、早く顔の熱が引いてくれればいいのに、とそんなことばかり考えていた。