スカートを翻し、すたすたと歩き出す。駿介が後を追ってくるが、目的地まで足を止めるつもりはない。
 今度は落ちないように階段を一歩ずつ踏みしめながら上がっていく。いつの間にか昼休みになっていたようで、校舎の中は騒がしい。三階まで辿り着くと、足が震えた。ぐい、と怪我をしていない方の手を引かれ、萌は振り返った。

「雨宮さん、どこに行くつもり?」
「三年生の教室」
「犯人がそこにいるってこと?」

 萌はそれには答えず、ついてこないでと突き放す言葉を紡いだ。駿介の手を振り解くと、再び歩き出した。足音で彼がまだついてきていることには気がついていたけれど、萌は一度忠告したのだ。ここから先は、彼自身が決めることだ。
 緊張や手の痛み、不安に葛藤。頭の中はぐちゃぐちゃで、とてもではないが冷静ではいられない。駿介を突き落とした人を前にして、果たして謝らせることが出来るのだろうか。そんなことも、今は分からなかった。

 相手が何組に在籍しているのかまでは知らなかったので、一組から順に覗いていく。一年生の赤いリボンは、三年生の教室ではよく目立つようで、からかうような言葉を投げかけられたが、萌は気にせず次のクラスに向かった。
 二組にも目的の人はいなかった。もしかしたら昼休みだからどこか別の場所に移動しているのかもしれない。それでも念のため、と三年三組の扉を開けてみる。

「あ」

 教室の中心。人だかりの真ん中にいるのは、見覚えのある背格好の人だった。
 黒髪につり目が特徴的なその男の人の元へ行き、萌は制服の裾をくいと引っ張る。

「あの!」
「ん? 一年生じゃん、どうしたの」

 萌に声をかけてきたのは、その人と一緒にいたクラスメイトだった。萌に裾を引っ張られた張本人は、萌と駿介を見比べ、嫌な笑みを浮かべる。

「矢吹と……彼女?」

 駿介の表情を見ることが出来なかったのは、この人が彼の憧れの人だからだ。駿介は、フェアなプレイをするところを尊敬していると言っていた。その人が卑劣な手口で自分を陥れようとしていたと知ったら、それはどんな気分なのだろう。

「彼女じゃありません。切島先輩にお話があって来ました」

 自分よりも体格のいい相手を前に、怯まずに話し続けることがどれほど難しいことか。萌は足が震えるのをぐっと堪えて、切島を見上げる。

「あれ、よく見たらかわいいじゃん。何、告白なら大歓迎だけど」

 くい、と顎を持ち上げられて、全身が強張る。同時にぱちんと乾いた音がして、すぐに解放された。駿介が切島の手を叩き落としたのだと理解するのに、数秒かかった。

「…………生意気だな、矢吹」
「すみませんね、可愛げがない後輩で」

 おそるおそる駿介の顔を盗み見ると、ショックを受けた様子はなく、真っ直ぐに切島を睨んでいた。
 そのことに少しだけ安心し、萌はもう一度深く息を吸い込む。

「切島先輩、矢吹くんにしたこと、謝ってください」
「…………は?」

 驚いたような声を上げたのは、駿介だった。でも萌の目的は最初からこれだ。切島に自分のやったことを認めさせる、そして駿介に謝ってもらう。
 握った切島の制服の裾をぎゅっと引っ張り、もう一度言葉を繰り返す。

「矢吹くんに、謝ってください!」
「…………何? 切島、お前後輩に何かしたの?」
「いや? 何も?」

 しれっと否定する言葉に、お腹の底から怒りが湧き上がってくる。しらばっくれるつもりなのだ、目撃者が誰もいないのをいいことに。
 謝らせる方法、いや、その前に自分のしたことを認めさせる方法は……。
 萌の頭に浮かんだのは、保健室を出る前に駿介が口にした言葉だった。

『じゃあなんで……美羽は、俺が階段から突き落とされたって知ってたんだ?』

 そうだ。本来なら現場にいた当事者しか知り得ない事実を、切島本人に言わせる。これしかない。
 萌は唇を噛み、頭をフル回転させる。

「矢吹くんが階段から突き落とされたんです。犯人、切島先輩ですよね」

 教室内がざわつく。きっと切島は、クラスでも好青年を演じているのだろう。まさか切島くんがそんなことするわけないよねぇ、と三年の女子が笑う声も聞こえてくる。
 刺すような視線に、居た堪れなくなる。それでも逃げるわけにはいかない。卑怯な手を使って、駿介に怪我をさせようとした人を、野放しにしておくことなんて出来ない。放っておけばまた同じことをするかもしれない。今度は大怪我をしてしまうかも。
 三年生に楯突くことよりも、友人が怪我をしてしまうかもしれないという恐怖の方が大きい。萌は引かなかった。

「矢吹くんが犯人を見てたんです。言い逃れは出来ないですよ」

 隣で駿介が息を飲むのが分かる。これは賭けだ。
 本当は犯人を目撃したのは萌である。そのことは、切島本人も分かっているはずだ。あえてミスリードすることで、彼に本当のことを話させる。それが萌の作戦だった。
 切島の目から温度が消え、舌打ちが聞こえる。周りの三年生が、切島? と問いかけるが、男は萌のことをまっすぐ睨んでいる。

「適当なことを言ってくるんじゃねぇよ」
「適当じゃないっすよ。俺はちゃんとあんたの顔を見ました」

 萌の嘘に、駿介が乗ってくれる。思惑に気がついているのかまでは分からない。それでも今はその援護がありがたかった。
 周囲で「切島くんが後輩を突き落としたってこと?」という声が上がり、切島の怒りのボルテージが上がるのが分かった。

「証拠は?」
「だから、矢吹くんが突き落とされる瞬間、切島先輩の顔を見たって……」
「二人で口裏合わせて俺を嵌めようとしているようにしか見えないんだけど?」

 俺に試合で勝てないからって随分と卑怯な手を使うんだな、という言葉に、怒ったのは駿介ではなく萌の方だった。

「卑怯な手を使ったのはそっちでしょ!? 矢吹くんにレギュラーを取られるのがこわいからって、怪我までさせようとして!」
「だから証拠はあるのかって訊いてんだよ!」

 ヒートアップする二人を宥めるように、駿介が身体を割り込ませる。いつ殴られてもおかしくないような状況に、身体が震えそうになるのを必死で抑えながら萌は言葉を紡ぐ。

「アリバイはあるんですか? 矢吹くんが突き落とされた時間! 切島先輩が一人になってないって証明できます?」

 萌の言葉に、切島が眉をひそめる。しかし躊躇いなく「あるよ」と言い切ってみせた。

「給食の時間は教室で普通に飯食ってたし、片付けの時間も一回トイレで席を立っただけだ。その短時間にピンポイントでお前たちが放送室から出てくるタイミングに合わせられるわけないだろ」

 しん、と教室が静まり返った。切島は急変したクラスの雰囲気に気が付き、眉を寄せる。なんだよ、と呟いた切島の言葉に、反応したのは萌や駿介ではなく、切島のクラスメイトだった。

「……給食の時間なの? 昼休みじゃなくて?」

 昼休みが始まってから、三十分が経とうとしていた。何より、生徒が給食の時間に教室の外を出歩くことは基本的に禁止されている。誰もが皆、駿介が階段から突き落とされた事故は、昼休みに入ってからの出来事だと思っていたはずだ。そう、犯人以外は。
 切島が青ざめていくのを眺めながら、萌は追い討ちをかける。

「矢吹くんが放送委員だってことは別に知っていてもおかしくないです。同じ部活の先輩なんですから。でもどうして初対面のはずの私が、放送委員だって分かったんですか? 最初に私のこと、矢吹くんの彼女かって訊きましたよね。普通なら、クラスメイトか彼女か、そういう関係を想像すると思うんです」

 でも切島は、駿介達が放送室から出てくる、という言い方をした。それは、駿介と萌が同じ放送委員だと知っていたからだ。ではなぜ知っていたのか。見ていたからだ、放送室から二人が出てくるその瞬間を。

「タイミングは、美羽から聞いたんじゃないですか? 放送が終わるのは昼休みの始まる五分前。片付け間に合うの? って今日美羽から質問されたんすよ」

 駿介の言葉に、萌は目を見開く。あらかじめお昼の放送が終わるタイミングを知っていたなら、それに合わせてお手洗いに行くと嘯き、教室を出ることも可能だろう。
 一つ分からなかった謎が解けてすっきりすると共に、本当に美羽がこの事件に関わっていたのだと確信し、胸の奥がずきんと痛む。駿介のことを好きだと言っていたのに、どうして。

「俺には謝らなくていいです。俺は結果的に怪我してないし、今日の試合で切島先輩に一泡吹かせますから」
「矢吹てめぇ生意気な口をきいてんじゃねぇよ」
「でも雨宮さんには謝ってください。関係ないのに巻き込まれて、怪我をしたんですよ」

 驚いて駿介の顔を見るが、彼はまっすぐ切島を見つめている。その瞳に怒りの色が見えて、萌は静かに息を飲んだ。

「……知らねえよ! そいつが勝手に飛び出してきたんだろ」
「推理ドラマで追い詰められた犯人が、犯人しか知り得ない情報を喋っちゃうことあるじゃないですか。あれを見るたびに間抜けだなぁって思ってたんですけど」

 今の切島先輩、まさにその状況ですね。と駿介が嫌味たっぷりの言葉を吐く。顔を真っ赤に染めた切島が、怒りに震えながら拳を握ったときだった。

「そこまで!」

 凛とした声が響き、精悍な顔つきの男が、切島と駿介の間に割って入る。
 部長、と矢吹が呟いたことで、その人がバスケットボール部の部長なのだと萌は理解する。話は全て聞いていた、と低い声で紡いだ後、切島を睨みつける。

「切島と矢吹には後で詳しく話を聞かせてもらう。それからそこの一年女子」
「は、はい!」

 唐突に名指しされ、萌は背筋をぴんと伸ばす。それくらい威圧感のある声だったのだ。

「手が痛そうだからすぐに保健室に行ってこい。それと勇気のある行動だった、ありがとう」

 どうしてバスケ部の部長にお礼を言われたのか分からず、萌は首を傾げる。そんな萌の右手を引いて、駿介が戻るぞ、と短く呟いた。