二人の間に沈黙が流れ、萌は言葉を探す。
 駿介が階段から落ちたとき、その後ろに見えた人影。その人が駿介を突き落としたのではないだろうか。しかし、それを本人に訊いてもいいのか。
 難しい顔で何かを考え込んでいる駿介に、萌が声をかけようとしたときだった。保健室のドアがガラリと開き、焦った表情を浮かべた美羽が姿を現した。

「駿くん……! 階段から突き落とされたって本当!? 大丈夫!?」

 息を切らし、頰が赤く染まっているところから察するに、きっと教室から走ってきたのだろう。本当に駿介のことが好きなことが伝わってきて、なぜだか萌も嬉しくなる。

「……美羽。俺は大丈夫。でも雨宮さんが俺を庇って怪我した」
「ええっ! 萌ちゃん、大丈夫? どこが痛いの?」

 わたわたと慌てながら萌に駆け寄ってきた美羽は、萌のこめかみのガーゼと左手首の内出血を見て息を飲んだ。

「痛そう……。私が同じクラスならいろいろお手伝い出来るのに……」
「美羽ちゃんは優しいね、ありがとう」

 萌が笑顔で言葉を返すと、美羽は嬉しそうに眉を下げて笑った。そんな二人のやり取りを黙って見ていた駿介が、ふいに口を挟む。

「なぁ美羽、お願いがあるんだけど」

 その言葉に、美羽の目が輝いた。頼ってもらえるのが嬉しいのだろう。好きな人のお願いならなおさらかもしれない。

「なあに? 何でもきくよ!」

 にこにこしながら首を傾げる美羽に、雑用で悪いんだけど、と前置きをし、駿介が言葉を続ける。

「階段の踊り場に、給食の食器をぶちまけてきちゃったんだよ。悪いけど片付けお願いしていい?」
「うん、もちろんだよ! すぐ行ってくるね!」

 飼い主におもちゃを投げてもらった子犬のように、美羽の背中にぱたぱたと横に振れる尻尾が見えた気がした。
 チワワみたいでかわいいな、と心の中で呟きながら、美羽が保健室を出て行くのを見送る。すると駿介が、ひどく真面目な顔で萌に向き合った。

「雨宮さん。変だと思わない?」
「えっ? なにが?」
「俺たちが階段から落ちたとき、周りに誰もいなかったよな?」

 ドキッと心臓が跳ねたのは、駿介がバランスを崩す直前に見えた、あの人のことを思い出したからだ。
 すぐに人影は消えてしまったけれど、あの場にはその人と駿介と萌以外、誰もいなかったはずだ。誰かいたならば、階段から転落した二人に駆けつけ、声をかけてくれただろう。

「……いなかった、と思う」

 萌の言葉に、駿介が静かに頷く。それから黙って何かを考え込んでしまったので、萌は彼が再び口を開くのを静かに待っていた。

「…………俺さ、誰かに突き落とされたんだよ」

 その事実は、予想していたことだが、言葉として聞くのはひどくショッキングな内容だった。

「……う、うん」

 戸惑いながら頷く萌に、駿介は慎重に言葉を選びながら話し続けた。

「……今この瞬間まで、雨宮さんにもその事実は言ってなかった。そうだよな?」
「うん」

 それは確かだ。階段で振り返ったとき、駿介の後ろに見えた人影について、萌は話していいものか迷っていたのだから。萌の目には、あの人が駿介を突き落としたように見えた。でももし勘違いだったらとんだ濡れ衣だ。だから口にするのを躊躇っていたのだ。

「じゃあなんで……美羽は、俺が階段から突き落とされたって知ってたんだ?」

 ぞく、と背中に冷たい何かが走る。あの場にいたのは、駿介と、萌と、駿介を突き落としたと思われる容疑者一人。
 騒ぎを聞きつけて集まって来た生徒もいなかった。それなら誰が、美羽にその事実を伝えたのだろう。
 顔から血の気が引いていく。でも、と萌は震える唇で言葉を紡ぐ。

「でも、私、見たよ……。矢吹くんを突き落とした人……。美羽ちゃんじゃ、なかったよ……?」
「ん、だろうな。美羽が誰かに指示を出して、俺に怪我をさせようとしたってところだろ」
「そんな……」

 どうしてそんなことをする必要があるのだろう。だって美羽は、駿介のことが本当に大好きで。それは周りから見ていても明らかな好意だったのに。
 頭の中でぐるぐると回る嫌な考えを振り落とすように、ぶんぶん頭を横に振る。「頭に怪我してるんだからじっとしてろよ」と言われたが、落ち着いてなんていられない。
 ソファーから立ち上がると、同時にずきっと手首が痛んだ。きっと無意識に体重をかけてしまったのだろう。さっきより腫れもひどくなっている気がする。保健の先生が帰ってきたら湿布を貼ってテーピングをしてくれると言っていたが、急用が出来てしまった。

「雨宮さん?」
「私、確かめてくる」
「…………は?」
「矢吹くんはここで待ってて」