翌週の月曜日から、萌は美羽に話しかけられることが増えた。廊下ですれ違うときはもちろん、わざわざクラスに遊びに来てくれることもある。美羽と同じ小学校出身の百合絵曰く、かなり人懐っこい子らしい。
「美羽はかわいくて性格もよくて人懐っこいから、もうモテるとかの次元を超えてるのよ。ファンクラブができる勢いだから」
それはすごい話だ。ファンクラブなんて、テレビで見るアイドルのようだ。
萌が感心していると、美羽は恥ずかしそうに頬を染めて、眉を下げた。
「そんなことないよ……。それにほら、肝心の好きな人にはなかなか振り向いてもらえないし……」
「好きな人って矢吹くん?」
「えーっ! なんで萌ちゃんまで知ってるの……!」
赤くなった頰を両手で押さえる美羽に、百合絵が笑いながら言葉を返す。
「美羽の態度分かりやすいもんね?」
「うん、恋する女の子って感じですごくかわいかった」
「えええ、恥ずかしい……!」
ぱたぱたと熱くなったであろう頰を手で仰ぐ美羽に、教室の中が少しだけ騒がしくなる。やっぱり美羽はかわいいな、と言っている男子の声に、萌は思わず同意の声を上げそうになった。
「それにしても駿介も変わってるよねぇ。これだけかわいい子に好かれてるのに見向きもしないなんて」
「えっ、矢吹くんってそうなの? 美羽ちゃんと矢吹くん、お似合いだから付き合っててもおかしくないのに」
萌が首を傾げるのと、右肩にずしんと重みがかかるのはほとんど同時のことだった。びっくりして振り向くと、そこには話題の中心になっていた駿介の姿。
「俺がなんだって?」
「あっ、駿くん、ち、違うの……!」
美羽が慌てたように声を上げるが、駿介はちらりと一瞥しただけで、萌と百合絵の方に向き直る。
その反応を見て、萌の頭に一つの考えがよぎった。
もしかして、矢吹くんはあんまり美羽ちゃんのことが好きじゃないのかな。
しかしまさかそんなことを口に出来るはずもなく、気づかないふりをして笑みを貼り付ける。
「矢吹くん重いんだけど」
「んー? だってなんか雨宮さんが俺の噂話してたみたいだから?」
実際はそんなに体重をかけられているわけではないので、そこまで重くはないのだが、駿介に好意を抱いている美羽がどう思うのか、とそればかり考えてしまう。
早く離れてほしい一心で、ぐい、と駿介の身体を押すが、ぴくりとも動かない。思いの外筋肉のついた身体にびっくりして、萌は驚きの声を上げる。
「矢吹くん、腹筋すごくかたいね!?」
「そりゃあ鍛えてるからな」
「へー……私なんて全然だよ……毎日筋トレしてるのになぁ」
トランペットを吹くには体力と肺活量が必要なので、毎晩地道なトレーニングに励んでいるのだ。しかし、駿介のようなガッチリとした筋肉は全くつく気配がない。萌も一応女子なので、腹筋を割りたいと思っているわけではないが、それでも吹奏楽に必要な程度の筋肉量は欲しいと思っている。
「へー雨宮さん、筋トレとかするんだ」
「あ、うん。吹奏楽部だから、腹筋とか背筋がしっかりしてると、音も安定するんだよ」
駿介にトレーニングの方法を訊いてみようか、と思いついて口を開きかけたとき、ふいに視線に気づいて言葉を飲み込む。
すぐそばで駿介と萌の会話を聞いていた、美羽と百合絵の視線が痛い。彼は美羽の好きな人なのだから、もう少し気をつかえばよかった。
慌てて駿介から距離を取り、曖昧に笑って誤魔化す。きっと駿介からしたら急に避けられたように感じてしまうだろう。悪いことをしてしまったような気分になって、別の話題を頭の中で必死に探す。
「あっ! そういえば矢吹くんって、サッカーも上手いんでしょ? 美羽ちゃんが褒めてたよ」
「ん? まぁそれなりに?」
「なんでサッカー部じゃなくてバスケ部にしたの?」
どっちも上手いのなら、どちらに入ってもよかったはずだ。割合は少ないらしいが、兼部という方法もあるらしいので、両方を選ぶことも出来たのだろう。
あえてバスケットを選んだのには何か理由があるのか。そんな素朴な疑問だったのだ。しかし、美羽が気まずそうに俯いたのが視界の端に見えて、萌はじわりと嫌な汗がにじむのが分かる。
「サッカーでもよかったんだけどさ、あっちはマネージャーありなんだよ」
「うん……?」
マネージャーがいてもいいのではないだろうか。男の子の気持ちは分からないけれど、かわいい女の子がマネージャーとして補佐してくれれば、やる気も出そうなものだけれど。
「本気でサッカーを好きなやつがマネージャーになるならいいけど、そうじゃないやつもいるじゃん?」
「うーん……サッカー部の男の子目当てってこと?」
「そうそう。そういう下心みたいな半端な気持ちで部活に挑まないでほしいよなぁ」
そういうやつがいたら面倒だから、バスケにしたんだ。
そう言った駿介は爽やかな笑顔を浮かべていたけれど、目の奥が笑っていなかった。モテる人も大変なんだなぁ、と萌が変に感心していると、脇腹をちょんとつつかれる。百合絵だった。
「でもさぁ、駿介が部活に真剣なように、恋に真剣な子がいてもよくない?」
ぐいと身を乗り出して百合絵が言った言葉を、駿介は否定することはしなかった。
「それは別に個人の自由じゃん? 俺とは価値観が合わないってだけで」
美羽が顔を真っ赤にして俯いた。そこでようやく萌は自分の失態に気がついた。
駿介のことを好きな美羽は、もしかしてサッカー部のマネージャーがやりたかったのではないだろうか。でも駿介はサッカー部を選ばなかった。
事情を知らなかったとはいえ、美羽に不利な情報を聞き出してしまった。落ち込んでいる美羽に申し訳なくて、萌も慌てて声を上げる。
「でも私も恋に真剣なの、素敵だと思うよ! そういう理由でマネージャーを始めて、だんだんサッカーを好きになる子だっているんじゃないかな?」
「萌ちゃん……」
俯いていた美羽が顔を上げて、萌を見つめる。その目がうっすら涙に濡れていたので、罪悪感に襲われた。
「……雨宮さんって本気で恋したことある?」
「えっ、なに急に」
ぐい、と駿介に顔を近づけられて、思わずのけぞる。恋、という単語を聞いて一番に頭に浮かんだのは、幼馴染の顔だった。
でも正直なところ、萌には分からない。恋というものがどんな感情なのか。陸に抱いている好きという気持ちが、恋と呼ばれるそれなのか、分からないのだ。
「…………ないと思うけど」
萌が答えるのとほぼ同時に、背中に衝撃が走る。後ろから抱きつかれたのだと理解し、慌てて相手を確認すると、同じ小学校だった沙羅だった。
「萌は好きな人いるよね? 陸くん!」
「沙羅ちゃん……陸ちゃんはそういうんじゃ……」
「誰?」
「あっ、私沙羅っていうの! 矢吹駿介くんだよね? キミすごい有名だよ」
話してみたかったんだぁ、という沙羅の言葉に、萌は思わずこぼれそうになったため息を飲み込む。
沙羅はいい子だが、新人アイドルや若手俳優が大好きで、ミーハーなところがある。イケメンな駿介が萌と話しているのを見て、話に混ざってきた、というところだろう。
ふいに顔を上げると、百合絵が強張った表情を浮かべているのが確認出来た。その表情に、なぜだか嫌な汗がにじむ。
「ね、みんなそろそろ教室に戻って席につかないと、先生来ちゃうよ!」
にこっと萌が笑みを浮かべて、場を取り成すように両手を叩く。美羽がそうだね、と笑って、駿くん帰ろうと駿介に声をかける。駿介も頷いて、その場を離れていった。やはり駿介目的だったらしい沙羅も、あっさりと自分の席に戻っていく。
ようやく静けさを取り戻した自分の周りに、ホッと息を吐くと、いつもよりやけに落ち着いた百合絵の声が静かに響く。
「ねぇ、萌ってさぁ」
「ん?」
「男子との距離、近いタイプ?」
その言葉に棘があるのが分からないほど、萌は鈍くない。駿介との距離が近すぎる、と遠回しに言われているのだ。
小学生の頃から美羽と百合絵は仲が良かったようだし、突然萌が彼と仲良くし始めたら気に入らないのも当然だろう。
駿介との距離感は気をつけるようにしよう、と心に決めて、萌は笑いながらそんなことないよと答えるのだった。
「美羽はかわいくて性格もよくて人懐っこいから、もうモテるとかの次元を超えてるのよ。ファンクラブができる勢いだから」
それはすごい話だ。ファンクラブなんて、テレビで見るアイドルのようだ。
萌が感心していると、美羽は恥ずかしそうに頬を染めて、眉を下げた。
「そんなことないよ……。それにほら、肝心の好きな人にはなかなか振り向いてもらえないし……」
「好きな人って矢吹くん?」
「えーっ! なんで萌ちゃんまで知ってるの……!」
赤くなった頰を両手で押さえる美羽に、百合絵が笑いながら言葉を返す。
「美羽の態度分かりやすいもんね?」
「うん、恋する女の子って感じですごくかわいかった」
「えええ、恥ずかしい……!」
ぱたぱたと熱くなったであろう頰を手で仰ぐ美羽に、教室の中が少しだけ騒がしくなる。やっぱり美羽はかわいいな、と言っている男子の声に、萌は思わず同意の声を上げそうになった。
「それにしても駿介も変わってるよねぇ。これだけかわいい子に好かれてるのに見向きもしないなんて」
「えっ、矢吹くんってそうなの? 美羽ちゃんと矢吹くん、お似合いだから付き合っててもおかしくないのに」
萌が首を傾げるのと、右肩にずしんと重みがかかるのはほとんど同時のことだった。びっくりして振り向くと、そこには話題の中心になっていた駿介の姿。
「俺がなんだって?」
「あっ、駿くん、ち、違うの……!」
美羽が慌てたように声を上げるが、駿介はちらりと一瞥しただけで、萌と百合絵の方に向き直る。
その反応を見て、萌の頭に一つの考えがよぎった。
もしかして、矢吹くんはあんまり美羽ちゃんのことが好きじゃないのかな。
しかしまさかそんなことを口に出来るはずもなく、気づかないふりをして笑みを貼り付ける。
「矢吹くん重いんだけど」
「んー? だってなんか雨宮さんが俺の噂話してたみたいだから?」
実際はそんなに体重をかけられているわけではないので、そこまで重くはないのだが、駿介に好意を抱いている美羽がどう思うのか、とそればかり考えてしまう。
早く離れてほしい一心で、ぐい、と駿介の身体を押すが、ぴくりとも動かない。思いの外筋肉のついた身体にびっくりして、萌は驚きの声を上げる。
「矢吹くん、腹筋すごくかたいね!?」
「そりゃあ鍛えてるからな」
「へー……私なんて全然だよ……毎日筋トレしてるのになぁ」
トランペットを吹くには体力と肺活量が必要なので、毎晩地道なトレーニングに励んでいるのだ。しかし、駿介のようなガッチリとした筋肉は全くつく気配がない。萌も一応女子なので、腹筋を割りたいと思っているわけではないが、それでも吹奏楽に必要な程度の筋肉量は欲しいと思っている。
「へー雨宮さん、筋トレとかするんだ」
「あ、うん。吹奏楽部だから、腹筋とか背筋がしっかりしてると、音も安定するんだよ」
駿介にトレーニングの方法を訊いてみようか、と思いついて口を開きかけたとき、ふいに視線に気づいて言葉を飲み込む。
すぐそばで駿介と萌の会話を聞いていた、美羽と百合絵の視線が痛い。彼は美羽の好きな人なのだから、もう少し気をつかえばよかった。
慌てて駿介から距離を取り、曖昧に笑って誤魔化す。きっと駿介からしたら急に避けられたように感じてしまうだろう。悪いことをしてしまったような気分になって、別の話題を頭の中で必死に探す。
「あっ! そういえば矢吹くんって、サッカーも上手いんでしょ? 美羽ちゃんが褒めてたよ」
「ん? まぁそれなりに?」
「なんでサッカー部じゃなくてバスケ部にしたの?」
どっちも上手いのなら、どちらに入ってもよかったはずだ。割合は少ないらしいが、兼部という方法もあるらしいので、両方を選ぶことも出来たのだろう。
あえてバスケットを選んだのには何か理由があるのか。そんな素朴な疑問だったのだ。しかし、美羽が気まずそうに俯いたのが視界の端に見えて、萌はじわりと嫌な汗がにじむのが分かる。
「サッカーでもよかったんだけどさ、あっちはマネージャーありなんだよ」
「うん……?」
マネージャーがいてもいいのではないだろうか。男の子の気持ちは分からないけれど、かわいい女の子がマネージャーとして補佐してくれれば、やる気も出そうなものだけれど。
「本気でサッカーを好きなやつがマネージャーになるならいいけど、そうじゃないやつもいるじゃん?」
「うーん……サッカー部の男の子目当てってこと?」
「そうそう。そういう下心みたいな半端な気持ちで部活に挑まないでほしいよなぁ」
そういうやつがいたら面倒だから、バスケにしたんだ。
そう言った駿介は爽やかな笑顔を浮かべていたけれど、目の奥が笑っていなかった。モテる人も大変なんだなぁ、と萌が変に感心していると、脇腹をちょんとつつかれる。百合絵だった。
「でもさぁ、駿介が部活に真剣なように、恋に真剣な子がいてもよくない?」
ぐいと身を乗り出して百合絵が言った言葉を、駿介は否定することはしなかった。
「それは別に個人の自由じゃん? 俺とは価値観が合わないってだけで」
美羽が顔を真っ赤にして俯いた。そこでようやく萌は自分の失態に気がついた。
駿介のことを好きな美羽は、もしかしてサッカー部のマネージャーがやりたかったのではないだろうか。でも駿介はサッカー部を選ばなかった。
事情を知らなかったとはいえ、美羽に不利な情報を聞き出してしまった。落ち込んでいる美羽に申し訳なくて、萌も慌てて声を上げる。
「でも私も恋に真剣なの、素敵だと思うよ! そういう理由でマネージャーを始めて、だんだんサッカーを好きになる子だっているんじゃないかな?」
「萌ちゃん……」
俯いていた美羽が顔を上げて、萌を見つめる。その目がうっすら涙に濡れていたので、罪悪感に襲われた。
「……雨宮さんって本気で恋したことある?」
「えっ、なに急に」
ぐい、と駿介に顔を近づけられて、思わずのけぞる。恋、という単語を聞いて一番に頭に浮かんだのは、幼馴染の顔だった。
でも正直なところ、萌には分からない。恋というものがどんな感情なのか。陸に抱いている好きという気持ちが、恋と呼ばれるそれなのか、分からないのだ。
「…………ないと思うけど」
萌が答えるのとほぼ同時に、背中に衝撃が走る。後ろから抱きつかれたのだと理解し、慌てて相手を確認すると、同じ小学校だった沙羅だった。
「萌は好きな人いるよね? 陸くん!」
「沙羅ちゃん……陸ちゃんはそういうんじゃ……」
「誰?」
「あっ、私沙羅っていうの! 矢吹駿介くんだよね? キミすごい有名だよ」
話してみたかったんだぁ、という沙羅の言葉に、萌は思わずこぼれそうになったため息を飲み込む。
沙羅はいい子だが、新人アイドルや若手俳優が大好きで、ミーハーなところがある。イケメンな駿介が萌と話しているのを見て、話に混ざってきた、というところだろう。
ふいに顔を上げると、百合絵が強張った表情を浮かべているのが確認出来た。その表情に、なぜだか嫌な汗がにじむ。
「ね、みんなそろそろ教室に戻って席につかないと、先生来ちゃうよ!」
にこっと萌が笑みを浮かべて、場を取り成すように両手を叩く。美羽がそうだね、と笑って、駿くん帰ろうと駿介に声をかける。駿介も頷いて、その場を離れていった。やはり駿介目的だったらしい沙羅も、あっさりと自分の席に戻っていく。
ようやく静けさを取り戻した自分の周りに、ホッと息を吐くと、いつもよりやけに落ち着いた百合絵の声が静かに響く。
「ねぇ、萌ってさぁ」
「ん?」
「男子との距離、近いタイプ?」
その言葉に棘があるのが分からないほど、萌は鈍くない。駿介との距離が近すぎる、と遠回しに言われているのだ。
小学生の頃から美羽と百合絵は仲が良かったようだし、突然萌が彼と仲良くし始めたら気に入らないのも当然だろう。
駿介との距離感は気をつけるようにしよう、と心に決めて、萌は笑いながらそんなことないよと答えるのだった。