次に萌が目を覚ましたとき、視界に広がるのは見覚えのある天井だった。頭ががんがんと痛み、なぜか目の奥がちかちかする。うう、と小さく声を上げて頭を押さえると、二つの声が飛んできた。
「萌、大丈夫?」
「雨宮大丈夫か!?」
眩しいのを堪えて周りを見回すと、そこは自分の部屋で、萌はベッドで寝ていたようだ。
「……陸ちゃんに矢吹くん? あれ……えっ? なんで?」
部屋にはなぜか、陸と駿介。状況がさっぱり理解出来なくて、萌は混乱する頭でまばたきを繰り返した。
「軽い熱中症だって。今おばさん呼んでくるから」
陸がやわらかい声でそう言って、萌の髪を撫でる。その瞬間、告白とプロポーズの記憶が一気によみがえり、脳みそが沸騰しそうになる。ぼん、と効果音のつきそうなほど、勢いよく真っ赤に染まったであろう頰を見て、陸が楽しそうに笑った。そのまま萌の部屋を出て階段を降りていく音がする。きっと階下にいる母を呼びに行ったのだろう。
「もしかして昼間から体調悪かった? 気づいてやれなくてごめんな」
「えっ、ううん。というか、矢吹くんはなんでここに……?」
今日は駿介とは別々に帰ったはずだ。時計を見ると、夜の十時を回っている。なぜこんな時間に駿介が家にいるのだろう。不思議に思って首を傾げていると、彼は袋から新品の上履きを取り出した。
「あっ! もしかして届けてくれたの?」
「そういうこと。そしたらちょうど雨宮がアイツに背負われて帰ってきてさ、心配だからちょっと上がらせてもらって、目が覚めるのを待ってたってわけ」
わざわざ萌の上履きを買いに行ってくれただけでなく、届けてくれたなんて。
駿介の優しさに心がじんわり温かくなる。さらに萌のことを心配してこんなに遅い時間まで待ってくれていたとは、彼の心の広さには頭が下がる。
「……矢吹くんはやっぱり優しいね」
「そう? 雨宮にそう見えるなら、そうなのかもね」
どこか意味深な表現に、萌はふとつい最近聞いた、あの言葉を思い出す。
『俺は好きな人以外に優しくしないって決めてるから』
こんなのは思い上がりだ。そう思うのに、どうしてか駿介の目を見ることが出来ない。俯いていると、ドアをノックする音がして、陸が萌の母を連れて戻ってきた。
「萌、熱は?」
「えっどうだろう。あるのかな」
そういえば陸が軽い熱中症だと言っていたことを思い出す。母に渡された体温計ではかると、三十八度ぴったりだった。
「うーん、病院に行くほどではないと思うけど、明日は念のため部活は休みなさいね」
「えっ行くよ。明日には熱も下がると思うし、音楽室は涼しいから大丈夫」
萌の言葉にたしなめるような声を上げたのは駿介だった。
「あーまーみーや」
「はいっ」
「部活は二日間禁止、家で休んでろ」
「二日も!?」
「部長命令だから」
普段は部長と呼ばれるのを嫌うくせに、こんなときだけ引き合いに出してくるのはずるいと思う。でもそれが駿介なりの優しさだと知っているので、萌はその言葉に甘えることにした。
「じゃあ……ごめんね。主に矢吹くんに迷惑かけることになっちゃうけど」
「気にすんなって」
駿介のからっとした笑顔に、ほっと息を吐く。二人のやりとりを眺めていた陸が、駿介の肩を掴んだ。
「そろそろ帰るよ。萌だって休みたいだろうし」
「お前に言われなくても帰るよ」
「…………二人とも、初対面だよね? いつの間に仲良くなったの?」
幼馴染である陸と、中学、高校の同級生である駿介が、会話をしている。陸は学区外の中学に進学したので、駿介との面識はないはずだ。
見慣れない組み合わせに違和感を覚えながら萌が問いかけると、陸は不満そうな表情を浮かべ、駿介は思い切り嫌そうな顔をしてみせた。
「仲良くなってないから」
「うん。なりようがないよ」
何それ、変なの。と萌が呟いた言葉に、吹き出したのは母だった。
なぜか大笑いをしている母と、気まずそうな表情をしている二人を見比べ、首を傾げる。母はひとしきり笑った後、「これ以上遅くなったら家の人が心配するから二人とも帰りなさい」と言って、陸と駿介の背中を押した。
「あっ、矢吹くん!」
「ん?」
「上履き、ありがとね。それから心配かけちゃってごめんね」
駿介は何も言わずにひらひらと手を振って部屋を後にした。
「陸ちゃんもありがとう。私のことおんぶして運んでくれたって聞いたんだけど……肩とか痛くない? 大丈夫?」
「そんなにやわな身体作りしてないよ」
陸はいつだって優しい。きっと重かったはずなのに、そんなことは一言も口にしない。
「そっか……。陸ちゃん、私今日のこと、絶対忘れないよ」
「うん。覚えてて」
優しく笑った陸に、また頰が熱くなる。
彼といるとドキドキしてばかりだ。お大事にね、と言って部屋を去っていた陸が、階段を降りていく音がする。
階下で陸と駿介が何やら言い合っているのが気になったけれど、さすがに部屋までは聞こえてこなかった。二人を見送るために冷房の効いている部屋の窓を開け、外を見る。ちょうど玄関から陸と駿介が顔を出した。萌の母がお礼を言って玄関の扉を閉めたのを確認し、萌は近所迷惑にならないくらいの声で二人に呼びかける。
「陸ちゃん、矢吹くん!」
「萌、そんなに乗り出したら危ないよ」
「雨宮寝てろよ、体調悪いんだろ」
「うん! でももう一回お礼を言いたかったから!」
ありがとう! と萌が笑うと、二人が顔を見合わせる。それから萌の方に手を振り、帰って行った。
萌は窓を閉めて、もう一度ベッドに横になる。
今日はなんだか素敵な夢を見られそうだ。そんな予感がする。
冷房の風が、火照った身体には気持ちいい。そっと目を閉じて、萌は静かな眠りにつくのだった。
これは中学生になったばかりの頃の話だ。
萌の通う中学校は、学区内にある二つの小学校が合わさるので、知らない子が半分くらいいる。小学生の頃に一番仲の良かった幼馴染の陸は、リトルシニアのチームに入るため、部活動が強制ではない別の中学に進学してしまった。
萌は人見知りではなかったので、特別友達作りには困らなかったが、それでもクラスメイトの顔と名前を全員分覚えるまでは少し落ち着かなかった。
小学校四年生の春に野球クラブを辞めてから、萌は音楽クラブに入った。四年生からはクラブ活動が必須だったので、迷っていたところ、音楽クラブの先輩が声をかけてくれたのだ。
音楽は年齢差も男女差も体格差も関係ない、誰にでも平等にチャンスのあるクラブなんだよ、という言葉に惹かれて入部した。なんとなく選んだトランペットは楽しくて、中学校でも迷わず吹奏楽部を選択した。吹奏楽部はあまり人数が多い方ではなく、すぐにメンバーの顔を覚えられたので、萌にとってのホームになった。
「委員会決め?」
「そう。萌は何がやりたい?」
別の小学校から進学してきた百合絵は、クラスで一番最初に仲良くなった女の子だ。ちょっと気の強い性格だが、男子とも仲がいい。どうやら他のクラスに彼氏がいるらしく、まだ中学一年生なのにすごいねぇ、と萌は感心してしまった。
「私は放送委員かなぁ」
「えー! 面倒くさそうじゃない? 私は絶対生活委員! バスケ部の先輩が楽だって言ってた!」
委員会で楽をしたいという人もいるだろう。でもそれをここまで明け透けに話してしまう人もなかなか珍しい。
「小学校でも放送委員だったから」
「放送委員ってあれでしょ? お昼の時間に音楽流したりするやつ」
「うん。あとは体育祭とか文化祭でのアナウンスもやるんだって」
萌と同じ委員会が良かったけど絶対私には無理だ! と言い張る百合絵に、思わず苦笑する。
教室の中は委員会決めの話で盛り上がっていた。次のホームルームの時間に委員会を決める、ということをあらかじめ知らされていたからだ。
雨宮さん、とクラスメイトの男子に話しかけられて、萌は振り向く。
「あ、やまえもんじゃん」
「やまえもん?」
「山下のあだ名」
百合絵と同じ小学校だった彼は、山下くんというらしい。まだクラス全員の名前は覚えられていないんだよなぁ、と心の中で呟く。そして萌が誤魔化すように笑いながら、どうしたの? と訊くと、山下は真っ赤な顔で口を開いた。
「あのさ! 雨宮さんって何委員になる予定?」
その声が大きかったので、萌はびっくりして目を丸くする。そして質問の意図が分からずに首を傾げつつ、放送委員がいいかなって思ってるよ、と答えを返す。
「そっか! ありがとう!」
そのまま自分の席に戻っていく後ろ姿を呆然と見つめていると、百合絵がいたずらな笑みで覗き込んでくる。
「やまえもん、萌に気があるのかもね」
「えっ? まだほぼ初対面なのに?」
「気づいてないの? うちの小学校の子達の間で話題になってるよ。西小の方にかわいい子がいるって」
ぽすん、と頭に優しくチョップをくらい、萌は目をまたたかせた。
西小というのは萌の通っていた小学校だ。
野球をやっていた頃は背も高く、活発なタイプだったので、男の子にモテるということもあまりなかった。でも野球を辞めたあたりでちょうど成長期も終わり、どんどんみんなに背を抜かされていった。するとどうしてか、男子に告白されることも増え始めた。
見た目で判断されているようで悔しい。今だってそうだ。かわいいって、なにそれ。萌のことを何も知らないくせに、見た目だけを褒められたって何も嬉しくない。
でもそんなことを言えば空気が悪くなるに決まっている。曖昧に笑って誤魔化しながら、ホームルームが始まるのを待った。
まずは学級委員を決めて、その後に他の委員会のメンバーを決めることになった。学級委員は男女共に立候補してくれた人がいて、すんなり決まる。女子の学級委員が黒板に各委員会の募集人数を書いていく。放送委員は各クラス一人だけのようだ。
委員決めは立候補制で、募集人数より立候補者が多い場合はじゃんけんで決めることになる。萌の希望していた放送委員は、他に立候補者がいなかったため、すぐに決まった。
てっきり先ほど何委員になるのかと訊いてきた山下が、同じ委員会に立候補するものだと思っていた。しかしよく考えてみれば、彼は萌と同じ委員会になりたかっただけで、このクラスから放送委員は一人しかなれないというのなら、一枠を萌と争っても意味がないだろう。
早々に委員会が決まった萌は、ぼんやりしながら他の委員が決まるのを眺めていた。特に人気があったのは体育委員だ。萌の通っていた西小の方は希望者がいなかったが、もう一つの小学校である中央小の出身者はなぜかこぞって立候補していた。
壮絶なじゃんけん大会の末、体育委員には男女一人ずつが選ばれた。負けてしまった女の子が泣いているのがひどく印象的だった。
放送委員の初回の集まりは、その日の六限目となった。
一年生から三年生まで各クラス一名ずつ選出された放送委員が、一つの教室に集まる。
萌は一年二組だが、一組と三組の代表の子は二人とも知らない顔だった。一組の女子が、三組の委員の男の子に話しかけているのが聞こえてくる。
「えー! なんで駿介ここにいるの? 絶対体育委員だと思ったのに!」
「…………じゃんけんで負けたんだよ」
「そうなんだ! みんな駿介と同じ委員がやりたくて、体育委員がすごく人気だったんだよ」
「ふぅん」
萌の心の声と、三組の男の子の声が重なった。この男の子目当てで、体育委員があんなに人気だったのか。
興味なさそうに相槌を打つ男子を、萌はちらっと横目で盗み見る。
確かに整った顔立ちをしていた。幼馴染の陸は中性的でかわいらしい顔をしているが、この男子は分類するならかっこいい系だろう。
今は机に頬杖をついて猫背になっているけれど、背も高そうだ。モテるんだろうな、と考えながら黒板の方に視線を戻すと、三年生の放送委員長が黒板に曜日を書き記していた。
「放送委員は主に給食の時間に音楽を流して放送するのが仕事です。月曜日から金曜日まで、各二人ずつ。ペアは公平にくじ引きで決めます。一年間組み替えはしないので、上級生や下級生と組むことになっても仲良くしてくださいね」
じゃあくじを回します、と言って小さな箱が三年生から順に回される。萌が取るときには二枚になっていたが、折り畳まれた紙の綺麗な方を手に取った。開いてみると木曜日と書かれている。
月曜日から金曜日までのペアが決まり、萌が組むことになったのは一年三組の男子だった。同じ学年でペアを組めるのはラッキーだったが、先の話から察するにかなり人気のある人であることは間違いないので、少しだけ心配になる。
妬まれたりしませんように。そう心の中で呟いて、萌は再びペアになった男子の方に目を向ける。どうやら彼も萌の方を見ていたようで、ばっちり目が合った。
「一年二組の雨宮萌です、よろしくお願いします」
「俺は三組の矢吹駿介。よろしく」
にっと歯を見せて笑った顔が爽やかで、モテるのも分かる気がするなぁ、と考えながら萌は笑みを返した。
委員会が決まって初めて迎えた木曜日。給食の準備が終わり次第すぐに放送室へ向かう。まだ初日で、曲のリクエストがあるか分からないので、家から適当に音源も持ってきた。
放送室のドアを開けると、そこには先に到着したらしい駿介がいた。給食を食べ始めているが、放送はまだ始めていない。
「あれ? 放送まだ流してないよね? やり方分からなかった?」
「いや、やり方はなんとなく分かるけど、原稿読み上げるのが恥ずかしいから雨宮さんにお願いしようと思って」
悪びれもせずにそう言う駿介に、萌は思わず苦笑した。お昼の放送はとにかく時間に追われているので、放送の電源をオンにして、マイクの音量を上げる。
「みなさんこんにちは。お昼の放送の時間です。今日の放送は一年二組雨宮と、一年三組矢吹が担当します。よろしくお願いします」
早口にならないように丁寧に読み上げて、マイクの音量を下げる。駿介が隣でパチパチと拍手をするものだから、萌は思わずため息を吐いた。
「原稿読みたくないなら私が全部読むけど、その代わり矢吹くんは音楽流す係ね」
「えっいいの? 絶対怒られると思ったのに」
怒られると思うなら言うなよ、と心の中で毒づいて、萌は眉を下げる。
「なんでもいいから曲流して。音量はうるさくなりすぎないように気をつけてね」
「はいはい」
駿介が選んだのは、放送室に無造作に置いてあるクラシックのCDだった。他にも有名な邦楽や洋楽がたくさん置いてあったのに、意外性のあるチョイスだ。
駿介の隣のパイプ椅子に腰を下ろし、萌も給食を食べ始める。隣の駿介の皿を見ると、すでに半分ほど食べ終えていた。どうやら食べるのが速いらしい。
「雨宮さんってもしかして放送委員に立候補した?」
「えっ? うん。なんで?」
「慣れてる感じだったから、今までもやったことあるのかと思って」
小学校のときも委員会はずっと放送委員だったことを話すと、駿介は驚いたように目を丸くした。
「へぇー、すごいな。だから読むの上手いんだ」
その言葉に少しだけ嬉しくなる。コンソメスープを一口飲んで、萌がありがとうと笑うと、駿介は意外な言葉を口にした。
「アナウンサーとか向いてそうじゃない?」
「えっ」
「あ、もしかしてもう他に夢がある?」
「ううん、そうじゃなくて」
ずっと昔から、夢だった。父親と一緒に見る野球中継。同じ会場で選手の活躍を見て、プレーを実況するアナウンサー。かっこいいと思った。自分もやってみたいと、ずっと思っていたのだ。
「…………笑うかもしれないけど」
「ん?」
「アナウンサーになるのが夢なの」
親にも幼馴染にも教えたことのない秘密。どうしてまだ会ったばかりの駿介に、こんな話をしているのだろう。言いふらされるかもしれないし、無茶だと笑われるかもしれないのに。
でも駿介は笑わなかった。真面目な顔でふぅん、と呟くと、かっこいいじゃんと言葉を続けた。
「アナウンサーってニュース読んだり、バラエティ番組の司会したり?」
「うん。でも一番やりたいのはスポーツの実況なの。だから今いろんなスポーツのルールを勉強してるんだ」
野球はやったことがあるから分かるけれど、他のスポーツには触れてこなかったので、さっぱりルールが分からない。図書館でルールブックを借りて、ノートにまとめ、覚えている最中だ。
「バスケは?」
「この間、簡単に分かるバスケットボールって本を借りて読んだんだけど、結構ルールが複雑だよね」
「一度試合を見にきたら? 見たら分かることもあるかもしれないし」
駿介が食べかけのパンを頬張りながら口にした言葉に、萌は首を傾げる。
矢吹くんってバスケ部なの、と訊ねると、途端に楽しそうな表情を浮かべ、身を乗り出す。
「そう、バスケ部! まだ入ったばっかりだけどさ、ミニバスからやってたから結構上手いんだぜ」
詳しく話を聞くと、どうやらバスケットボール部は完全な実力主義らしく、一年生でレギュラーを取ることもあり得るのだと言う。
部内でチームを組んで試合を行い、その成績によって夏の大会のレギュラーが決まるようだ。
「三年生に遠慮したりしない。俺は一年だけど、絶対レギュラーを取る」
強い決意を秘めた目に、どうしてか幼馴染の顔を思い出した。ピッチャーでナンバーワンになると言った彼は、頑張っているのだろうか。
そんなことを頭の隅でぼんやり考えながら、頑張ってね、と駿介に笑いかけると、爽やかな笑顔が返ってきた。
バスケットボール部の見学に行くことになったのは、翌日の放課後のことだ。二組にまでわざわざ駿介が迎えに来て、ほら行くぞ、と半ば強引に体育館へ連れていかれる。その間の女子の視線の刺さり具合が、見事に駿介の人気を表しているようだった。
「痛い痛い! 矢吹くん痛いから!」
「そんなに強く引っ張ってねぇよ」
「違うよ! 女子の視線が痛いの!」
萌の言葉に、駿介が笑みをこぼす。せめて手だけでも離してもらおうとぶんぶん振ってみるが、駿介の手は振り解けない。バスケをやっている人は握力も強いのだろうか。萌がため息を吐くと、何だよと駿介は首を傾げる。
「そんなに引っ張らなくても着いて行くから、手は離してくれない?」
「なに、見られたら困る相手でもいるの」
彼氏とか好きな人とか、と続けられた言葉に、萌は眉を下げる。
そういう意味で言うならば、駿介に手を引かれているところを見られても、困る相手はいない。でも駿介のことを好きな女子から反感を買うのはこわい。何と説明するべきか、と迷っていると、いないならいいじゃん。と駿介はまた萌の手を引いて走り出した。
体育館にたどり着く頃には息が上がっていて、萌はすっかり疲れていた。ちなみに疲れの原因は八割方、駿介と一緒にいることによって集まる女子の視線である。いわゆる気疲れだ。
駿介が案内してくれたのはバスケットコートを見渡せる体育館の二階だった。萌の他にも見学をしている人が何人かいて、これなら目立たないな、と少しだけホッとする。
体育館に着くまでに聞いた話によると、今は部内で紅白戦をしている最中で、来週の金曜日までに部員全員が三回ずつ試合に出場し、その成績次第でレギュラーが決まるらしい。駿介が出るのは三戦目らしく、アップが終わった後は萌のところに来て試合の解説をしてくれた。
バスケットは想像していた以上に複雑なスポーツで、駿介が説明してくれなかったら、きっと見ていてもよく分からなかっただろう。
「何で今のは三点なの?」
「スリーポイントのラインがあるんだよ。そのラインの外側からシュートを打って、入ったから三点」
「へぇ……。あのつり目の人、すごく上手だね」
スリーポイントラインというのはゴールから離れたところにある。その外側から綺麗なフォームでボールを投げ、リングに当たることなくすとんとゴールに入った。
黒髪でつり目の男の人は、シューティングガードというポジションらしい。シュートを攻撃の軸にして戦うポジションだ。
「俺もシューターだからさ、一番のライバルは切島先輩なわけ」
「ふーん。先輩って、三年生?」
「そう。バスケではわざとファウルを取ってフリースローをもらうみたいな戦略もあるんだけど、切島先輩はそういうことしないんだよ。相手にどんなにぶつかられても、怒ったりせずにプレイで黙らせる感じ」
それがフェアでかっこいいんだよなぁ、と駿介が呟く。萌は話を聞きながら、切島を目で追う。
バスケ初心者の萌にも分かる。切島は別格で上手い人だ、と。まだ全員のプレイを見たわけではないけれど、きっとこのチームのエースは切島なのだろうと思った。
「矢吹くんはあの人のこと尊敬してるんだね」
「まあな。でも、負けるつもりはねぇよ」
駿介の不敵な笑みと共に、試合終了の笛が鳴る。勝ったのは切島のいるチームだった。
「雨宮さん、俺は次の試合で審判だから一旦降りるけど、よかったら三試合目まで見ていってよ」
「うん。せっかく来たんだし、矢吹くんの試合まで見ていくよ」
「絶対勝つからさ」
そう言い残して、駿介は一階のコートに降りて行った。ほどなくして試合が始まるが、駿介の解説がないとやはりまだルールは分からない。本で勉強したことはあるが、実戦を見たほうがよほど勉強になる。これが百聞は一見にしかずか、と萌が一人で感心していると、隣から鈴の音のような声が聞こえてきた。
「あの……萌ちゃん、だよね?」
「えっ?」
「二組の、雨宮萌ちゃん」
萌より少しだけ小さな背の女の子が、こちらを見つめている。丸くて大きな瞳に、艶やかな赤い唇。お人形のように整った顔立ちをした少女が、やわらかな笑みを浮かべて首を傾げた。
「あれ? 違った?」
制服の赤いリボンが、彼女が一年生であることを示している。同じ学年で萌の知らない女の子、つまり中央小学校出身の子なのだろう。
「えっと……ごめんなさい、もしかして同じクラス?」
まだクラス全員の顔と名前を覚えられていない萌は、眉を下げて問いかける。一応訊ねてはみたが、おそらく違うクラスの子だと、萌は確信していた。
こんな美少女が同じ教室にいたならば、話したことがなかったとしてもさすがに覚えているはずだからだ。女の子はふわりとやわらかく笑い、「私は三組なの」と答えた。
隣のクラスの女の子だった。でもそれならば、どうして萌の名前を知っているのだろう。こてんと首を傾げてみるが、もちろん答えが出るはずもない。
「私、白星美羽です」
しらほしみう。名前の響きまでかわいい。名は体を表すとはこのことか、と萌が感心していると、美羽は上目遣いで萌のことを覗き込んだ。
「萌ちゃん、有名なんだよ」
すっごくかわいいって、と付け足された言葉に、萌は頰が熱くなるのを感じた。どう考えても萌より目の前に立つ美羽の方がかわいい。何とも言えぬ恥ずかしさが押し寄せて、頰を手で押さえると、美羽がちょこんと萌の隣に立った。
「試合、一緒に見てもいいかな?」
「あっ、うん、もちろん! ……でも私、ルールとかあんまり分からなくて」
「私なんとなく分かるよ。教えてあげるね」
とびっきりの笑顔を向けられて、同性なのにきゅんとしてしまう。かわいい、この子は絶対男子にモテるだろう。
美羽と並び立ちながら、二回戦を観戦する。説明はたどたどしかったが、美羽は意外にもバスケに詳しいようで、丁寧に教えてくれた。
解説なしで試合を見ても、初心者の萌にはきっと分からなかっただろう。どうして美羽が萌に声をかけてくれたのかは分からないが、萌としては非常にありがたかった。
「あ、三試合目、駿くんが出るみたい」
駿くんという言葉にとっさに反応出来なかったのは、自分をここに連れてきた男の名前が駿介だということを忘れていたからだ。
数秒遅れで「あっ、矢吹くんのことか」と萌が呟くと、美羽がくすくすと小さく笑う。
「なんか不思議。中央小の子で、駿くんのことを苗字で呼ぶ人っていないから」
そういうものだろうか、と考えてみて、納得する。確かに萌も、同じ小学校だった子のことは苗字ではなく名前で呼んでいるからだ。
「試合始まるみたいだよ」
美羽が一階を指差すのと同時に、ホイッスルが鳴り響く。駿介のチームで一番背の高い人がボールを弾き、ポイントガードと思われる人にボールが渡る。相手チームのディフェンスを巧みにかわしながら、ゴール近くまでボールを運び、少し後ろにいた駿介にパスをする。
駿介のシュートはゴールへ吸い込まれるように入っていった。レギュラーを取ると宣言していただけあって、どうやら実力はあるらしい。
その後も駿介のシュートが外れることはなかった。ディフェンスに阻まれて、危なっかしいシュートもあったが、ボールは全てリングに吸い込まれていったのだ。
「矢吹くんって上手いんだねぇ」
萌がしみじみと言うと、隣にいた美羽が嬉しそうに目を輝かせる。
「そうなの! 駿くんは運動神経が抜群でね、バスケも上手だけど、サッカーもすごく上手いんだよ!」
自分のことのように嬉しそうに語る美羽は、きっと駿介のことが好きなのだろう。
こんなにかわいい子に好かれているなんてちょっと羨ましいな、と萌は心の中で呟く。
三試合目終了の合図が鳴った。十五点の差をつけて、駿介のチームが勝利した。ぱちぱちと拍手をしながら、美羽が「駿くんすごい!」と声を上げる。駿介もその声に気づいたようで、二階にいる萌達に向かってガッツポーズをしてみせる。
「じゃあ矢吹くんの試合も見終わったし、私は部活に行こうかな」
「えっ? 萌ちゃん行っちゃうの?」
眉を下げて寂しそうな顔をする美羽に、萌は笑いかける。
「うん。今日はありがとう、解説してもらえて助かったよ」
「ううん、特別なことは何もしてないよ。……あの、萌ちゃん。また、話しかけてもいいかなぁ?」
不安気な表情で上目遣いに問いかけてくる美羽は、やっぱりかわいかった。こんな風にかわいく頼まれたら、どんな頼みごとでも聞いてしまうだろうな、とバカなことを考えながら萌は頷く。
「もちろんだよ。またね、美羽ちゃん」
小さく手を振ると、美羽がやわらかな笑顔と共に手を振り返してくれた。萌は入部したばかりの吹奏楽部に向かうべく、体育館を後にした。
翌週の月曜日から、萌は美羽に話しかけられることが増えた。廊下ですれ違うときはもちろん、わざわざクラスに遊びに来てくれることもある。美羽と同じ小学校出身の百合絵曰く、かなり人懐っこい子らしい。
「美羽はかわいくて性格もよくて人懐っこいから、もうモテるとかの次元を超えてるのよ。ファンクラブができる勢いだから」
それはすごい話だ。ファンクラブなんて、テレビで見るアイドルのようだ。
萌が感心していると、美羽は恥ずかしそうに頬を染めて、眉を下げた。
「そんなことないよ……。それにほら、肝心の好きな人にはなかなか振り向いてもらえないし……」
「好きな人って矢吹くん?」
「えーっ! なんで萌ちゃんまで知ってるの……!」
赤くなった頰を両手で押さえる美羽に、百合絵が笑いながら言葉を返す。
「美羽の態度分かりやすいもんね?」
「うん、恋する女の子って感じですごくかわいかった」
「えええ、恥ずかしい……!」
ぱたぱたと熱くなったであろう頰を手で仰ぐ美羽に、教室の中が少しだけ騒がしくなる。やっぱり美羽はかわいいな、と言っている男子の声に、萌は思わず同意の声を上げそうになった。
「それにしても駿介も変わってるよねぇ。これだけかわいい子に好かれてるのに見向きもしないなんて」
「えっ、矢吹くんってそうなの? 美羽ちゃんと矢吹くん、お似合いだから付き合っててもおかしくないのに」
萌が首を傾げるのと、右肩にずしんと重みがかかるのはほとんど同時のことだった。びっくりして振り向くと、そこには話題の中心になっていた駿介の姿。
「俺がなんだって?」
「あっ、駿くん、ち、違うの……!」
美羽が慌てたように声を上げるが、駿介はちらりと一瞥しただけで、萌と百合絵の方に向き直る。
その反応を見て、萌の頭に一つの考えがよぎった。
もしかして、矢吹くんはあんまり美羽ちゃんのことが好きじゃないのかな。
しかしまさかそんなことを口に出来るはずもなく、気づかないふりをして笑みを貼り付ける。
「矢吹くん重いんだけど」
「んー? だってなんか雨宮さんが俺の噂話してたみたいだから?」
実際はそんなに体重をかけられているわけではないので、そこまで重くはないのだが、駿介に好意を抱いている美羽がどう思うのか、とそればかり考えてしまう。
早く離れてほしい一心で、ぐい、と駿介の身体を押すが、ぴくりとも動かない。思いの外筋肉のついた身体にびっくりして、萌は驚きの声を上げる。
「矢吹くん、腹筋すごくかたいね!?」
「そりゃあ鍛えてるからな」
「へー……私なんて全然だよ……毎日筋トレしてるのになぁ」
トランペットを吹くには体力と肺活量が必要なので、毎晩地道なトレーニングに励んでいるのだ。しかし、駿介のようなガッチリとした筋肉は全くつく気配がない。萌も一応女子なので、腹筋を割りたいと思っているわけではないが、それでも吹奏楽に必要な程度の筋肉量は欲しいと思っている。
「へー雨宮さん、筋トレとかするんだ」
「あ、うん。吹奏楽部だから、腹筋とか背筋がしっかりしてると、音も安定するんだよ」
駿介にトレーニングの方法を訊いてみようか、と思いついて口を開きかけたとき、ふいに視線に気づいて言葉を飲み込む。
すぐそばで駿介と萌の会話を聞いていた、美羽と百合絵の視線が痛い。彼は美羽の好きな人なのだから、もう少し気をつかえばよかった。
慌てて駿介から距離を取り、曖昧に笑って誤魔化す。きっと駿介からしたら急に避けられたように感じてしまうだろう。悪いことをしてしまったような気分になって、別の話題を頭の中で必死に探す。
「あっ! そういえば矢吹くんって、サッカーも上手いんでしょ? 美羽ちゃんが褒めてたよ」
「ん? まぁそれなりに?」
「なんでサッカー部じゃなくてバスケ部にしたの?」
どっちも上手いのなら、どちらに入ってもよかったはずだ。割合は少ないらしいが、兼部という方法もあるらしいので、両方を選ぶことも出来たのだろう。
あえてバスケットを選んだのには何か理由があるのか。そんな素朴な疑問だったのだ。しかし、美羽が気まずそうに俯いたのが視界の端に見えて、萌はじわりと嫌な汗がにじむのが分かる。
「サッカーでもよかったんだけどさ、あっちはマネージャーありなんだよ」
「うん……?」
マネージャーがいてもいいのではないだろうか。男の子の気持ちは分からないけれど、かわいい女の子がマネージャーとして補佐してくれれば、やる気も出そうなものだけれど。
「本気でサッカーを好きなやつがマネージャーになるならいいけど、そうじゃないやつもいるじゃん?」
「うーん……サッカー部の男の子目当てってこと?」
「そうそう。そういう下心みたいな半端な気持ちで部活に挑まないでほしいよなぁ」
そういうやつがいたら面倒だから、バスケにしたんだ。
そう言った駿介は爽やかな笑顔を浮かべていたけれど、目の奥が笑っていなかった。モテる人も大変なんだなぁ、と萌が変に感心していると、脇腹をちょんとつつかれる。百合絵だった。
「でもさぁ、駿介が部活に真剣なように、恋に真剣な子がいてもよくない?」
ぐいと身を乗り出して百合絵が言った言葉を、駿介は否定することはしなかった。
「それは別に個人の自由じゃん? 俺とは価値観が合わないってだけで」
美羽が顔を真っ赤にして俯いた。そこでようやく萌は自分の失態に気がついた。
駿介のことを好きな美羽は、もしかしてサッカー部のマネージャーがやりたかったのではないだろうか。でも駿介はサッカー部を選ばなかった。
事情を知らなかったとはいえ、美羽に不利な情報を聞き出してしまった。落ち込んでいる美羽に申し訳なくて、萌も慌てて声を上げる。
「でも私も恋に真剣なの、素敵だと思うよ! そういう理由でマネージャーを始めて、だんだんサッカーを好きになる子だっているんじゃないかな?」
「萌ちゃん……」
俯いていた美羽が顔を上げて、萌を見つめる。その目がうっすら涙に濡れていたので、罪悪感に襲われた。
「……雨宮さんって本気で恋したことある?」
「えっ、なに急に」
ぐい、と駿介に顔を近づけられて、思わずのけぞる。恋、という単語を聞いて一番に頭に浮かんだのは、幼馴染の顔だった。
でも正直なところ、萌には分からない。恋というものがどんな感情なのか。陸に抱いている好きという気持ちが、恋と呼ばれるそれなのか、分からないのだ。
「…………ないと思うけど」
萌が答えるのとほぼ同時に、背中に衝撃が走る。後ろから抱きつかれたのだと理解し、慌てて相手を確認すると、同じ小学校だった沙羅だった。
「萌は好きな人いるよね? 陸くん!」
「沙羅ちゃん……陸ちゃんはそういうんじゃ……」
「誰?」
「あっ、私沙羅っていうの! 矢吹駿介くんだよね? キミすごい有名だよ」
話してみたかったんだぁ、という沙羅の言葉に、萌は思わずこぼれそうになったため息を飲み込む。
沙羅はいい子だが、新人アイドルや若手俳優が大好きで、ミーハーなところがある。イケメンな駿介が萌と話しているのを見て、話に混ざってきた、というところだろう。
ふいに顔を上げると、百合絵が強張った表情を浮かべているのが確認出来た。その表情に、なぜだか嫌な汗がにじむ。
「ね、みんなそろそろ教室に戻って席につかないと、先生来ちゃうよ!」
にこっと萌が笑みを浮かべて、場を取り成すように両手を叩く。美羽がそうだね、と笑って、駿くん帰ろうと駿介に声をかける。駿介も頷いて、その場を離れていった。やはり駿介目的だったらしい沙羅も、あっさりと自分の席に戻っていく。
ようやく静けさを取り戻した自分の周りに、ホッと息を吐くと、いつもよりやけに落ち着いた百合絵の声が静かに響く。
「ねぇ、萌ってさぁ」
「ん?」
「男子との距離、近いタイプ?」
その言葉に棘があるのが分からないほど、萌は鈍くない。駿介との距離が近すぎる、と遠回しに言われているのだ。
小学生の頃から美羽と百合絵は仲が良かったようだし、突然萌が彼と仲良くし始めたら気に入らないのも当然だろう。
駿介との距離感は気をつけるようにしよう、と心に決めて、萌は笑いながらそんなことないよと答えるのだった。
中学生は意外と忙しい。授業時間も小学生のときより長くなり、部活動や委員会もある。萌の入った吹奏楽部は、どちらかといえば緩い部活であり、あまり練習時間が長い方ではない。しかし部活によっては上下関係が非常に厳しく、練習時間も長いと聞く。
土曜日や日曜日のお休みの日には、陸の通っているリトルシニアの野球チームの応援にも行っている。硬球での練習はまだ慣れないらしく、難しいと嘆いていたが、陸の目はきらきらと輝いていた。幼馴染が全力で野球を楽しんでいるという事実は、萌を元気にさせてくれた。
そんなお休みを目前に控えた木曜日。給食を持って放送室に向かうと、やはり先に駿介が辿り着いていた。
「曲の準備出来てるぞ」
「うん、ありがとう。放送流しちゃうね」
萌がアナウンスを流すと、駿介が音楽を流し始める。まだ二回目だというのに手際がいい。
「美羽がリクエストだっていって音源を渡してきたんだけど、流していいんだよな?」
「あ、美羽ちゃん持ってきてくれたんだね。流して大丈夫だよ」
きっと駿介と話すきっかけが欲しかったのだろう。健気だなぁ、と思わず笑みを浮かべていると、駿介に頭を小突かれる。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「えー? 別に?」
「考えてることダダ漏れだからな」
ぺし、と優しく頭を叩かれて、萌はじとりと駿介を睨む。
駿介は萌の視線など気にした様子もなく、昼食に手を伸ばした。萌も倣ってフォークに手を伸ばし、ミートソーススパゲッティを器用に巻き取る。
「この間矢吹くんが教室に来たとき、百合絵ちゃんに言われたんだけどね」
「んー?」
興味なさそうな相槌に、萌は苦笑をこぼしながら言葉を続ける。
「私って男子との距離が近いんだって」
「…………そうか?」
「でもどっちかというと、私じゃなくて矢吹くんじゃない? 距離感が近めなの」
別に悪いことではないと思うけど、と付け足しながらスパゲッティを口の中に放り込む。麺は少し伸びているけれど、ソースは想像していたよりも美味しかった。
「ふーん。あんまり言われたことないけど、気をつけるわ」
「まぁ矢吹くんみたいなモテる人は、その距離感も含めて人気なのかもしれないから、直す必要はないかもしれないけど」
少なくとも駿介に好意を抱いている女の子からしたら、頭をぽんと叩かれたり、唐突に肩を組まれたり、そういうボディタッチだって嬉しいに違いないのだ。
たまごスープを一口飲むと、じわりと身体が温まるのを感じる。萌には恋心はよく分からないけれど、きっと恋をしていたら毎日が楽しいのだろう。羨ましいな、と呟くと、駿介が音源の入れ替えをしているところだった。美羽の持ってきた曲は、最近流行りの恋愛ソング。片想いの切なさと楽しさを歌った曲で、可愛らしい曲調は美羽のイメージにぴったりだった。
「羨ましいって何が?」
どうやら萌の先ほどのひとりごとはしっかり聞こえていたらしい。少しだけ恥ずかしい気持ちになりながら、フォークをくるくる回し、スパゲッティを巻きつける。
「恋してる子って、なんだかそれだけでかわいく見えるでしょ? それに好きな人がいたら、毎日楽しそう」
「……楽しいことばっかりではないんじゃない? 俺も分かんないけど」
その言葉に、食べかけのスパゲッティがはらはらと解けていく。
「私に本気で恋したことある? とか訊くくらいだから、てっきり矢吹くんは恋したことあるのかと思ってたんだけど!」
なんだか騙された気分だ。何なら彼女でもいそうな雰囲気だったのに。
駿介は目を丸くし、ふはっと吹き出すと、萌の髪をぐしゃぐしゃと雑に撫でた。
「だから距離感!」
「今は放送室に二人しかいないんだから問題ないだろ」
誰かに見られる心配もないし、という意味なのだろうが、もしも萌がこれで勘違いしてしまったらどうするつもりなのだろう。ちゃんと責任を取ってくれるのだろうか。
頰を膨らませて不満を露わにしてみせるが、駿介は全く見ていない。
興味がなさすぎるでしょ、私に! 別に好きになってもらいたいとかそういうのではないけども!
膨れたままもくもくご飯を食べていると、ようやく気づいたらしい駿介が頰を突いてくる。
「そういえば今日、試合なんだよ」
「へ?」
レギュラー決めのラストの試合! と言いながら歯を見せて笑う駿介はどこまでも爽やかで、眩しいなぁ、とすら思う。
駿介は今のところ負け知らず。得点に絡むシーンも多く、レギュラーも射程圏内だと言う。
「ただラストの相手は切島先輩なんだよなぁ」
「切島先輩って、あの……黒髪でつり目の?」
「そ。一回見に来たから分かると思うけど、あの人がうちのバスケ部のエースなんだ」
切島先輩を超えなきゃ、俺はエースになれない。
そう言った駿介の目がどこまでもまっすぐだったので、萌はなぜか会ったばかりの彼を応援したくなってしまった。
「……試合、見に行ってもいいかなぁ」
「えっ、見に来てくれんの? もちろん大歓迎! 雨宮さんの方の部活は平気?」
吹奏楽部はゆったり練習してるから、と萌が笑うと、駿介も楽しそうに笑った。
お昼の放送の時間はあっという間に過ぎていった。給食の時間終了の五分前に片付けて、二人で放送室を出る。放送室は三階にあるので、一年の教室がある一階まで階段を降りなければならないのだ。とんとん、と萌が先に階段を降り出して、駿介に話したいことを思い出して振り向いた、そのときだった。
階段の一番上でまだ足を止めている駿介。その後ろに、見覚えのある背の高い男の人の姿があった。ふいにその人と目が合った。瞬間、駿介の目が見開かれて、ぐらりとその身体が傾く。
「矢吹くん!?」
気がついたら手に持っていたプラスチックの食器は投げていた。スローモーションに落ちてくる駿介の身体をどうにか自分の身体で受け止めて、階段から転がり落ちる。
階段の踊り場に頭をぶつけ、それから遅れて全身に痛みが襲う。ずきずきと痛む身体を無理矢理起こして、駿介に声をかけた。
「矢吹くん! 矢吹くん、大丈夫!? 怪我してない!?」
「いっ……てぇ…………」
首をさすりながら起き上がった駿介は、身体のいろんなところを動かして、俺は大丈夫そう、と答えた。それから萌の顔を覗き込み、言葉を失った。
「え、矢吹くん? どうしたの?」
固まっている駿介の目の前に手をかざして、ひらひらと振ってみる。ずきん、と手首に痛みが走り、慌てて手を止めた。
「血、出てる」
「えっ、嘘、どこ?」
「頭」
「あたま!?」
駿介がポケットからハンカチを取り出す。ちゃんとハンカチを持っているのがなんだか意外だな、と場にそぐわないことを考えていると、駿介がハンカチを萌の左のこめかみあたりに押し付けた。
「いたっ」
「我慢して。そのまま抑えられる? 保健室まで連れていくから」
矢吹くんのハンカチが汚れちゃうよ、と萌が声を上げるのと、駿介が萌を抱え上げるのはほとんど同時だった。
突然浮いた身体と、密着する体温。頭が混乱して何が何だか分からない。ただ一つ分かるのは、駿介にお姫様抱っこをされた、という事実だけだ。
「わあああああ! なにしてんの!? なにしてるの!?」
「早く保健室連れて行かなきゃいけないんだからしょうがないだろ。つーか声、うるさい。怪我人なんだから静かにしてろよ」
「いや、何でそんなに冷静なの!? お姫様抱っこだよ!?」
顔が熱くて堪らない。抑えているこめかみのあたりがどくどくと鼓動して、痛みが増した気がする。
駿介の顔を見上げているのは恥ずかしい。だからといって下を見るのはこわい。折衷案として駿介の身体の方に顔を埋めてみるが、これはこれで恥ずかしい。
こんなに狼狽えているのは萌だけなのだろうか。おそるおそる駿介の顔を盗み見ると、真剣な表情を浮かべていた。
重いであろう萌を軽々と抱き上げたまま、階段を駆け降りていく駿介の姿に、胸の奥がきゅんと鳴いた。
「先生! 怪我人!」
一階にある保健室に辿り着くと、駿介は足で扉を器用に開けてみせた。そして中にいる保健医が驚いた顔を浮かべるのにも構わず、萌を保健室のソファーに座らせた。
「…………あ、ありがと…………」
恥ずかしくて頰は真っ赤に染まっている。それでも保健室まで最速で運んでくれたことは確かなのだ。お礼を口にした萌に、駿介は眉を寄せて嫌そうな顔を浮かべる。
「お礼を言うべきなのは雨宮さんじゃなくて俺だろ。ごめん、巻き込んで。それからありがとう、庇ってくれて」
申し訳なさそうな表情で駿介が言葉を紡ぐものだから、萌まで苦しくなる。そんな表情をしてほしかったわけではないのだ。
「いいんだよ、矢吹くんが怪我してないならよかった!」
レギュラーを決める試合を控えた駿介が、怪我をしなくてよかった。
階段から落ちてくる駿介を助けるために身体が動いたのは無意識だった。けれど、駿介が無事でよかったと心から思う。
萌の笑顔を見て、駿介が一瞬泣きそうな顔を浮かべる。それに驚いて慌てていると、「いいから早く先生に診てもらえよ」と駿介はそっぽ向いてしまった。
駿介に借りたハンカチは、案の定血で汚れていた。それでも思ったより出血量が少なかったのは、不幸中の幸いだろうか。
「これならガーゼで止血出来そうだね。でも頭を打ったなら、念のため病院に連れて行ってもらってね」
「あ、はい。あと先生、手首が痛いんですけど……」
「手首?」
こめかみのあたりをガーゼとテープで止血してもらった後、ずきずきと痛む左手首を前に出す。先生が目を丸くするのが分かった。
「右手も出して」
言われるがままに両手を身体の前に出すと、まるで手錠をかけられるのを待つ犯罪者になった気分だ。苦笑しながら両手を見比べれば、ほっそりとした右手首に比べ、左手首が明らかに腫れ上がっている。
「うーん、捻挫かな」
「湿布貼っておけば治ります?」
「骨に異常があるかもしれないから、お医者さんに診てもらった方がいいよ」
今日は早退しな、と保健医に言われ、萌は首を横に振る。
「お母さん、たぶん今の時間は仕事でいないんです。帰ってもどうせ病院には行けないから、授業受けていきます」
「いや、帰れよ。頭打ってるし、手首だってすげぇ腫れてるじゃん」
「大丈夫だよ、見た目ほど痛くないし」
内出血して腫れた左手首は、確かに痛々しい。ずきずきと痛むけれど、頭痛や生理痛のときのために鎮痛剤を持ち歩いている。それを飲めばやり過ごすことが出来るだろう。
ずっと落ち込んだ色をにじませている駿介を励ますために、笑顔で大丈夫だよと繰り返す。保健医が萌の担任に報告するために席を立ったため、保健室には二人きりになってしまった。
二人の間に沈黙が流れ、萌は言葉を探す。
駿介が階段から落ちたとき、その後ろに見えた人影。その人が駿介を突き落としたのではないだろうか。しかし、それを本人に訊いてもいいのか。
難しい顔で何かを考え込んでいる駿介に、萌が声をかけようとしたときだった。保健室のドアがガラリと開き、焦った表情を浮かべた美羽が姿を現した。
「駿くん……! 階段から突き落とされたって本当!? 大丈夫!?」
息を切らし、頰が赤く染まっているところから察するに、きっと教室から走ってきたのだろう。本当に駿介のことが好きなことが伝わってきて、なぜだか萌も嬉しくなる。
「……美羽。俺は大丈夫。でも雨宮さんが俺を庇って怪我した」
「ええっ! 萌ちゃん、大丈夫? どこが痛いの?」
わたわたと慌てながら萌に駆け寄ってきた美羽は、萌のこめかみのガーゼと左手首の内出血を見て息を飲んだ。
「痛そう……。私が同じクラスならいろいろお手伝い出来るのに……」
「美羽ちゃんは優しいね、ありがとう」
萌が笑顔で言葉を返すと、美羽は嬉しそうに眉を下げて笑った。そんな二人のやり取りを黙って見ていた駿介が、ふいに口を挟む。
「なぁ美羽、お願いがあるんだけど」
その言葉に、美羽の目が輝いた。頼ってもらえるのが嬉しいのだろう。好きな人のお願いならなおさらかもしれない。
「なあに? 何でもきくよ!」
にこにこしながら首を傾げる美羽に、雑用で悪いんだけど、と前置きをし、駿介が言葉を続ける。
「階段の踊り場に、給食の食器をぶちまけてきちゃったんだよ。悪いけど片付けお願いしていい?」
「うん、もちろんだよ! すぐ行ってくるね!」
飼い主におもちゃを投げてもらった子犬のように、美羽の背中にぱたぱたと横に振れる尻尾が見えた気がした。
チワワみたいでかわいいな、と心の中で呟きながら、美羽が保健室を出て行くのを見送る。すると駿介が、ひどく真面目な顔で萌に向き合った。
「雨宮さん。変だと思わない?」
「えっ? なにが?」
「俺たちが階段から落ちたとき、周りに誰もいなかったよな?」
ドキッと心臓が跳ねたのは、駿介がバランスを崩す直前に見えた、あの人のことを思い出したからだ。
すぐに人影は消えてしまったけれど、あの場にはその人と駿介と萌以外、誰もいなかったはずだ。誰かいたならば、階段から転落した二人に駆けつけ、声をかけてくれただろう。
「……いなかった、と思う」
萌の言葉に、駿介が静かに頷く。それから黙って何かを考え込んでしまったので、萌は彼が再び口を開くのを静かに待っていた。
「…………俺さ、誰かに突き落とされたんだよ」
その事実は、予想していたことだが、言葉として聞くのはひどくショッキングな内容だった。
「……う、うん」
戸惑いながら頷く萌に、駿介は慎重に言葉を選びながら話し続けた。
「……今この瞬間まで、雨宮さんにもその事実は言ってなかった。そうだよな?」
「うん」
それは確かだ。階段で振り返ったとき、駿介の後ろに見えた人影について、萌は話していいものか迷っていたのだから。萌の目には、あの人が駿介を突き落としたように見えた。でももし勘違いだったらとんだ濡れ衣だ。だから口にするのを躊躇っていたのだ。
「じゃあなんで……美羽は、俺が階段から突き落とされたって知ってたんだ?」
ぞく、と背中に冷たい何かが走る。あの場にいたのは、駿介と、萌と、駿介を突き落としたと思われる容疑者一人。
騒ぎを聞きつけて集まって来た生徒もいなかった。それなら誰が、美羽にその事実を伝えたのだろう。
顔から血の気が引いていく。でも、と萌は震える唇で言葉を紡ぐ。
「でも、私、見たよ……。矢吹くんを突き落とした人……。美羽ちゃんじゃ、なかったよ……?」
「ん、だろうな。美羽が誰かに指示を出して、俺に怪我をさせようとしたってところだろ」
「そんな……」
どうしてそんなことをする必要があるのだろう。だって美羽は、駿介のことが本当に大好きで。それは周りから見ていても明らかな好意だったのに。
頭の中でぐるぐると回る嫌な考えを振り落とすように、ぶんぶん頭を横に振る。「頭に怪我してるんだからじっとしてろよ」と言われたが、落ち着いてなんていられない。
ソファーから立ち上がると、同時にずきっと手首が痛んだ。きっと無意識に体重をかけてしまったのだろう。さっきより腫れもひどくなっている気がする。保健の先生が帰ってきたら湿布を貼ってテーピングをしてくれると言っていたが、急用が出来てしまった。
「雨宮さん?」
「私、確かめてくる」
「…………は?」
「矢吹くんはここで待ってて」