次に萌が目を覚ましたとき、視界に広がるのは見覚えのある天井だった。頭ががんがんと痛み、なぜか目の奥がちかちかする。うう、と小さく声を上げて頭を押さえると、二つの声が飛んできた。

「萌、大丈夫?」
「雨宮大丈夫か!?」

 眩しいのを堪えて周りを見回すと、そこは自分の部屋で、萌はベッドで寝ていたようだ。

「……陸ちゃんに矢吹くん? あれ……えっ? なんで?」

 部屋にはなぜか、陸と駿介。状況がさっぱり理解出来なくて、萌は混乱する頭でまばたきを繰り返した。

「軽い熱中症だって。今おばさん呼んでくるから」

 陸がやわらかい声でそう言って、萌の髪を撫でる。その瞬間、告白とプロポーズの記憶が一気によみがえり、脳みそが沸騰しそうになる。ぼん、と効果音のつきそうなほど、勢いよく真っ赤に染まったであろう頰を見て、陸が楽しそうに笑った。そのまま萌の部屋を出て階段を降りていく音がする。きっと階下にいる母を呼びに行ったのだろう。

「もしかして昼間から体調悪かった? 気づいてやれなくてごめんな」
「えっ、ううん。というか、矢吹くんはなんでここに……?」

 今日は駿介とは別々に帰ったはずだ。時計を見ると、夜の十時を回っている。なぜこんな時間に駿介が家にいるのだろう。不思議に思って首を傾げていると、彼は袋から新品の上履きを取り出した。

「あっ! もしかして届けてくれたの?」
「そういうこと。そしたらちょうど雨宮がアイツに背負われて帰ってきてさ、心配だからちょっと上がらせてもらって、目が覚めるのを待ってたってわけ」

 わざわざ萌の上履きを買いに行ってくれただけでなく、届けてくれたなんて。
 駿介の優しさに心がじんわり温かくなる。さらに萌のことを心配してこんなに遅い時間まで待ってくれていたとは、彼の心の広さには頭が下がる。

「……矢吹くんはやっぱり優しいね」
「そう? 雨宮にそう見えるなら、そうなのかもね」

 どこか意味深な表現に、萌はふとつい最近聞いた、あの言葉を思い出す。

『俺は好きな人以外に優しくしないって決めてるから』

 こんなのは思い上がりだ。そう思うのに、どうしてか駿介の目を見ることが出来ない。俯いていると、ドアをノックする音がして、陸が萌の母を連れて戻ってきた。

「萌、熱は?」
「えっどうだろう。あるのかな」

 そういえば陸が軽い熱中症だと言っていたことを思い出す。母に渡された体温計ではかると、三十八度ぴったりだった。

「うーん、病院に行くほどではないと思うけど、明日は念のため部活は休みなさいね」
「えっ行くよ。明日には熱も下がると思うし、音楽室は涼しいから大丈夫」

 萌の言葉にたしなめるような声を上げたのは駿介だった。

「あーまーみーや」
「はいっ」
「部活は二日間禁止、家で休んでろ」
「二日も!?」
「部長命令だから」

 普段は部長と呼ばれるのを嫌うくせに、こんなときだけ引き合いに出してくるのはずるいと思う。でもそれが駿介なりの優しさだと知っているので、萌はその言葉に甘えることにした。

「じゃあ……ごめんね。主に矢吹くんに迷惑かけることになっちゃうけど」
「気にすんなって」

 駿介のからっとした笑顔に、ほっと息を吐く。二人のやりとりを眺めていた陸が、駿介の肩を掴んだ。

「そろそろ帰るよ。萌だって休みたいだろうし」
「お前に言われなくても帰るよ」
「…………二人とも、初対面だよね? いつの間に仲良くなったの?」

 幼馴染である陸と、中学、高校の同級生である駿介が、会話をしている。陸は学区外の中学に進学したので、駿介との面識はないはずだ。
 見慣れない組み合わせに違和感を覚えながら萌が問いかけると、陸は不満そうな表情を浮かべ、駿介は思い切り嫌そうな顔をしてみせた。

「仲良くなってないから」
「うん。なりようがないよ」

 何それ、変なの。と萌が呟いた言葉に、吹き出したのは母だった。
 なぜか大笑いをしている母と、気まずそうな表情をしている二人を見比べ、首を傾げる。母はひとしきり笑った後、「これ以上遅くなったら家の人が心配するから二人とも帰りなさい」と言って、陸と駿介の背中を押した。

「あっ、矢吹くん!」
「ん?」
「上履き、ありがとね。それから心配かけちゃってごめんね」

 駿介は何も言わずにひらひらと手を振って部屋を後にした。

「陸ちゃんもありがとう。私のことおんぶして運んでくれたって聞いたんだけど……肩とか痛くない? 大丈夫?」
「そんなにやわな身体作りしてないよ」

 陸はいつだって優しい。きっと重かったはずなのに、そんなことは一言も口にしない。

「そっか……。陸ちゃん、私今日のこと、絶対忘れないよ」
「うん。覚えてて」

 優しく笑った陸に、また頰が熱くなる。
 彼といるとドキドキしてばかりだ。お大事にね、と言って部屋を去っていた陸が、階段を降りていく音がする。
 階下で陸と駿介が何やら言い合っているのが気になったけれど、さすがに部屋までは聞こえてこなかった。二人を見送るために冷房の効いている部屋の窓を開け、外を見る。ちょうど玄関から陸と駿介が顔を出した。萌の母がお礼を言って玄関の扉を閉めたのを確認し、萌は近所迷惑にならないくらいの声で二人に呼びかける。

「陸ちゃん、矢吹くん!」
「萌、そんなに乗り出したら危ないよ」
「雨宮寝てろよ、体調悪いんだろ」
「うん! でももう一回お礼を言いたかったから!」

 ありがとう! と萌が笑うと、二人が顔を見合わせる。それから萌の方に手を振り、帰って行った。
 萌は窓を閉めて、もう一度ベッドに横になる。
 今日はなんだか素敵な夢を見られそうだ。そんな予感がする。
 冷房の風が、火照った身体には気持ちいい。そっと目を閉じて、萌は静かな眠りにつくのだった。