目の前に差し出されたいちご飴に、ハッとする。陸が心配そうな顔で萌の顔を見つめていて、萌は慌てて笑顔を作る。

「ごめん、ぼーっとしちゃってた」
「ん、大丈夫? いちご飴でよかった?」
「うん。いちご飴、好きだよ」

 よかった、と優しい笑顔を浮かべ、萌の手にいちご飴の棒を握らせる。それを素直に受け取り、唇に押し当てる。
 いちご飴にいい思い出はない。野球をやめたあの日のことを思い出すから。
 だけど、口に含んだ飴は優しい甘さをしていた。

 陸はりんご飴を食べながら、萌の手を引く。購入したからあげやフライドポテトはビニール袋に入れてもらっていた。まるで萌の手は離さないと決めているかのようなスマートさに、萌はまた頰が熱くなる気がした。
 棒から取れたいちご飴を口の中でころころ転がしながら、萌は陸の隣を歩いた。昔は萌が引っ張っていく方だったのに、今手を引いてくれているのは陸の方だ。

 いつの間にこんなに成長したんだろう。
 横にいる陸を盗み見ると、うっかり目が合ってしまう。ドクン、と心臓が音を立てて、萌は思わず足を止めた。

「萌? どうした? 疲れちゃった?」
「あ、ううん。違うの」

 大丈夫だよ、と萌が笑うのと、空に大きな花火が上がるのはほとんど同時のことだった。

「わ……花火だ」
「そういえば毎年花火も上がってたな」

 早く特等席に行かなくちゃ! と萌が声を上げ、陸の手を引っ張る。花火が始まったことでより混雑し始めた熱気のある通りを、陸を連れてすり抜けていった。人通りの多い道を抜けると、陸を連れて走った。
 辿り着いた先は、家の近所の公園だ。花火が上がっている場所からは少し離れているが、障害物もなく綺麗に花火が見える穴場スポットなのだ。
 公園に着く頃には少し息が上がっていたけれど、隣の陸は息一つ乱していなかった。さすが現役野球部。

「ごめんね、思わず走っちゃった」
「いいよ。萌らしいじゃん」

 昔からよく陸の手を引いて、いろんなところへ連れていったものだ。きっとそのことを言っているのだろう。成長していない自分がなんだか恥ずかしくて、萌は誤魔化すように笑った。

「ジャングルジム、登る?」

 幼い頃は、この公園のジャングルジムの一番上でよく花火を見ていた。てっぺんまで登ると花火が近くに見えて綺麗なのだ。
 萌の問いかけに、陸は少し笑った。

「萌、スカートじゃん。登れないでしょ」
「えー? 登れるよ」

 萌がジャングルジムを登り始めると、陸が慌てて目を逸らす。もちろんそんなことに気がつくはずもなく、萌は一番上まで登り切った。

「陸ちゃんもおいでよ! 花火が近いよ!」
「行くけどさぁ……」

 何やら不満そうな声を上げ、陸がジャングルジムに手をかける。軽々とてっぺんまで登り、萌の隣に座ると、「萌はもうちょっと自分が女の子だっていう自覚を持った方がいいよ」と言った。

「持ってるよ。陸ちゃんと一緒じゃなきゃスカートでこんなところ登ったりしないもん」
「…………俺も一応男だって分かってる?」

 陸が低い声で問いかける。萌は驚いて、花火から目を逸らし、陸の方を見やった。彼はやけに真剣な表情をしていて、また胸の奥が騒がしくなるのを感じる。

 知ってるよ、陸ちゃんが男の人だってことくらい。

 そう思っていても口に出せないのはなぜだろう。その言葉を音にした瞬間に、何かが変わってしまうような、そんな予感がする。
 見つめ合ったまま、数秒の沈黙が流れた。その間にも、空には大きな花が咲いては散って行く。

「萌、大事な話、していい?」

 心臓が大きく音を立てた。公園には二人きり。陸の声は花火の音にかき消されることなく、凛と響く。

「電話では、できなかった話?」
「違うよ、電話では言いたくなかった話」

 訂正されたけれど、その違いは萌にはよく分からない。でもきっと、陸にとっては大きな違いがあるのだろう。

「聞くよ、陸ちゃんの話なら何でも」

 それが愚痴でも、弱音でも、泣き言でも、なんだって。
 萌が笑うと、陸もつられて優しい笑みを浮かべた。

「俺さ、今年負けたんだ。甲子園の決勝で」
「……うん、見たよ」
「俺が打たれたから負けたんだ」

 陸だけのせいではない。たとえ投手が打たれても、攻撃で取り返せばよかったのだから。でも誰も、相手校のピッチャーから点を取ることは出来なかった。
 それでも陸は自分を責めているのだろう。野球においてピッチャーの責任は重大だ。試合に負けたのは陸だけのせいではないけれど、陸がホームランを打たれなければ、負けなかったこともまた事実なのだから。

「萌、俺は来年絶対にピッチャーとしてナンバーワンになる」

 一番のピッチャーになる。それが陸の夢だ。
 ずっと努力し続けてきたことを知っているだけに、その言葉は重く感じられた。

「じゃあ来年こそは、甲子園で優勝だね」
「うん。でもそれじゃあ足りない」
「えっ?」

 陸のまっすぐな目が、花火に向けられる。大きな花火が空に打ち上がり、きらきらと光の余韻を残して散っていく。

「甲子園で優勝しても、誰かに打たれたんじゃ一番とは言えない」
「……陸ちゃん」
「もう誰にも、打たせたりしない」

 心臓が、大きく跳ねた。陸はあまり強い言葉を使うタイプではない。人を傷つけたり、煽ったりすることだってない。
 これは決意だ。自分自身に対して、大きくプレッシャーをかけて。そうまでしてナンバーワンになりたいと、そう思っているのだ。
 陸の覚悟が痛いほど伝わってきて、萌は黙って頷いた。

「それからもう一つ、夢があるんだ」

 ピッチャーで一番になる。それ以外の夢は聞いたことがなかったので、萌は首を傾げる。花火を見ていた陸が、ふいに萌の方を向く。吸い込まれそうなほど澄んだ瞳から、目が離せなかった。

「好きだよ。萌のことが、ずっと前から」
「…………えっ」
「萌と結婚して、幸せな家庭を築くのが俺のもう一つの夢」

 夜なのに、世界が明るく見えた気がした。公園の奥の雑木林も、地面も、全てがきらきらして見える。
 心臓が早鐘を打って落ち着かない。全身の体温が上がった気さえする。心がふわふわと宙に浮いている。どうしていいか分からない。それでも陸の目をじっと見つめていた。

「いつも萌は俺の手を引いて、新しい世界を見せてくれたよね」

 野球だって、萌がいなければ始めていなかった、と陸が言う。

「泣き虫で臆病な俺の手を引っ張って、大丈夫だよ、って言ってくれた。いつも一生懸命で、まっすぐで、負けず嫌いで、強がりで。そういうところ、全部ひっくるめて好き」

 何て答えていいのか分からない。頰がとにかく熱くて、心臓が爆発してしまいそうだ。

「悲しいことがあったときも、辛いことがあったときも、萌は絶対に誰かの前で泣かないんだ。いつも隠れて一人で泣いて、みんなの前では大丈夫だよ、って笑う。それで、自分が辛いときでも真っ先に人の心配をするんだ」
「…………」
「そんな萌だから、俺が守ってあげたいって思うんだよ。俺の前では強がらなくていいよ、泣いても大丈夫だからって」

 ジャングルジムをぎゅっと握る萌の手に、そっと陸が手を重ねる。

「萌のことが好き。俺と、結婚してください」

 空に大きな花火が打ち上がった。だけど花火なんて見ている余裕はなくて、目の前の陸から目が離せない。
 全身が熱い。このまま溶けてしまいそうなくらい。
 何も言えない萌に、陸はいつもの優しい笑顔を向ける。鼓動が、呼吸が、全部聞こえてしまいそうだ。
 震える唇をやっと開いたときには、数十秒経っていたけれど、陸は静かに萌のことを待っていてくれた。

「わた、私……」
「うん」
「プロポーズされたの、初めて……」
「ふはっ! そこなの?」

 もっと違う感想あるでしょ、と陸が笑う。それからひとしきり笑った後、萌の顔をぐいと覗き込んでみせた。

「答えはさ、今じゃなくていいから」

 まだ十八歳になってないから法律上結婚出来ないし、とさらりと言ってのける陸は、本当にあの泣き虫だった彼なのだろうか。
 別人みたいだ。知らない男の人になってしまったように錯覚するけれど、少し眉を下げて笑う顔は幼い頃の面影がある。
 この人は、間違いなく速水陸だ。成長して、男の子から男の人へと変わった陸なのだ。

「ゆっくりでいいよ。返事は卒業まで待つから」
「卒業まで?」
「うん。待つのは得意なんだ」

 陸の誕生日は三月。結婚出来るようになるのは、卒業とほぼ同時。答えを出すまで約一年半の猶予がある。
 いつの間にか、花火は終わっていた。陸がすとんと地面に降り立って、萌を見上げる。
 萌も足元に気をつけながらジャングルジムを降りると、陸がさらりと萌の手を握った。

「帰ろうか」

 いつもと変わらないやわらかな声に、今はなぜかドキドキしてしまう。好きだと言われて、結婚したいとまで言ってくれた。
 世界がきらきらして見えるのは、足元がふわふわしているような気がするのは、気のせい?
 家に向かって二人でゆっくり歩いていると、くらりと視界が揺れた。

「萌?」

 隣にいるはずの陸の声が、やけに遠くに聞こえる。その声を最後に、萌の意識はぷつりと途切れた。