小学校四年生、春。新学年に上がると同時に、陸と萌は少年野球チームの正式な部員になった。四年生になるまで試合には出られない約束だったので、萌にとっては待ち望んだ日だった。
 春休みの練習は、まだ四年生の新部員が入って来る前だったので、五、六年生と陸と萌だけで行った。
 もうすぐ新学期を迎えるその日、萌は朝から体調が良くなかった。朝トイレに行ったら、パンツに少し血のようなものがついていてびっくりしたし、お腹も少し痛い。看護師の母に相談しようかと思ったが、夜勤明けでぐっすり眠っていたので、萌はそのまま野球の練習に向かった。

「みんなー、坂井くんのお母さんがいちご飴を作ってきてくれたよ」

 坂井晴人は六年生のピッチャーだ。これから陸のライバルになる人でもある。他のメンバーはみんな萌達に優しくしてくれていたが、彼だけは違った。キャッチャーなのに陸の球しか捕らない萌のことが気に入らないようで、ミスをするとヤジを飛ばされたし、すれ違うときに足を引っ掛けられたりもした。
 萌はあまり晴人のことが好きではなかったけれど、晴人のお母さんのことは好きだった。なぜなら週に一度、こうしてみんなに差し入れを持ってきてくれるのだ。

「わあ! きれい!」

 一つ一つ丁寧にラッピングされたいちご飴が配られて、萌は目を輝かせる。

「いちご飴ってなあに?」
「お祭りでりんご飴って売ってるの、見たことない?」
「ある! りんごが大きくて食べきれないんだよねぇ」
「そうそう。りんごの代わりにいちごを使って作ったのがいちご飴だよ」

 へぇ、と相槌を打ちながら、太陽の光にかざしてみる。確かに真っ赤ないちごの周りは、きらきらと輝く透明な飴でコーティングされていた。
 いただきます、と晴人のお母さんに声をかけて、一口。優しい甘みが口いっぱいに広がって、幸せな気分になる。萌は家でお菓子を食べることがないので、週に一度の差し入れは萌にとって贅沢な時間だった。
 いちご飴をみんなが食べ終わる頃、監督がそろそろ練習再開するよ、と声をかける。残った飴を口の中で転がして、はあい! と元気に返事をして立ち上がった。そのときだった。

「萌、それ血じゃない?」
「えっ?」

 五年生でサードを守っている先輩が、萌の肩を叩く。首を傾げて先輩の目線を追うと、白い練習着のお尻のあたりが真っ赤に染まっていた。
 驚いて息を飲む。
 お尻から血が出たの? 何で?
 混乱する萌に、陸が大丈夫? と声をかけてくれるが、頭がうまく働かない。

「あれ、セーリってやつじゃない?」
「うわ、すげぇ、やっぱり萌は成長早いんだなー!」
「そりゃあそうだろ、おっぱいも大きいし」
「じゃあ萌とエッチしたら子ども出来るの?」

 晴人を中心に、六年生達がざわつくのが分かる。
 何を言われているのかほとんど分からなかったけれど、胸の大きさを指摘されたことだけは理解出来た。頰が熱くなって、胸を隠すようにパーカーのファスナーを上げる。
 確かに萌は成長が早い方だった。同じ学年の他の子に比べて背も高かったし、胸だって膨らんできた。野球をするのに邪魔だから、と母が買ってきてくれたスポーツブラを着けていたけれど、最近ではおさまらなくなってきたくらいだ。

 でも、なんで。どうしてそんなことを言うの。私が、女の子だから?

 そこまで考えて、萌はその場にしゃがみこんだ。パーカーの裾を引っ張ってお尻を隠そうとするけれど、長さが足りない。
 俯いて涙を我慢していると、ふいに肩にぱさ、と何かをかけられた。陸のパーカーだった。四年生になったら絶対身長が伸びるから! と言い張って、陸はサイズの大きなものを買ったのだ。
 血で汚れたお尻が隠れたことに安堵して、萌はそっと顔を上げる。それは一瞬の出来事だった。
 萌の隣にいたはずの陸が、晴人に掴みかかったのだ。

「陸ちゃん!?」

 悲鳴のように叫び声を上げると、ベンチの方で話をしていた監督と晴人の母が騒ぎに気づき、慌てて駆け寄ってくる。

「陸くん! 何してるの!」

 監督が力強く陸と晴人を引き離す。それでも陸は晴人を殴ろうと前のめりになっていた。晴人の母が「何が起きたの!?」と周りに問いかけるが、誰も答えようとしない。答えられる訳がない。意地悪なことを言ったのは、晴人の方なのだから。
 萌は立ち上がり、陸のパーカーを腰に巻き付ける。それから陸の元に走り、陸ちゃんやめて! と陸の手を掴んだ。

「だってコイツ、萌のこと……!」
「なんだよ陸! やんのかよ!」
「やめて! やめてってば!」

 まだ殴りかかろうとする陸に抱きついて、萌は必死に引き止める。殴ったらダメだ。陸の左手は、そんなことに使っていい手ではない。
 ぎゅっと陸の身体を抱きしめて、力いっぱい後ろに引っ張る。陸の方がまだ身体は小さいので、少しだけ引き離すことが出来た。
 監督がいがみ合う二人の間に割り入って、いい加減にしろ! と怒鳴り声を上げた。そこでようやく晴人と陸の動きが止まる。

「何があった? 説明して」
「陸がいきなり殴りかかってきたんだよ!」
「お前が萌のこと、変な目で見てるからだろ!」
「なに、何の話? どういうことなの?」

 晴人の母が混乱した様子で、自分の息子と陸を見比べる。それから困ったような顔で萌の方を見るので、萌は仕方なく口を開いた。

「あの……私、……その」

 何と説明すればいいのだろう。だって萌はまだ状況が分かっていない。どうしてお尻から血が出たのか。晴人達はそれが何か知っていて、からかってきた。動けない萌に代わって、陸が怒ってくれたのだ。

「セーリだよ。萌がセーリで血が出て、それをちょっとからかったら陸がキレたの」

 晴人がムスッとした表情で何かを説明する。その言葉に一番に反応したのは、晴人の母だった。ばちん、と大きな音がグラウンドに響き、萌達はみんな息を飲む。晴人の母が、自分の息子の頰を平手打ちしたのだ。誰が見ても親バカな晴人の母。その人が、まさか自分の子どもを叩くなんて、誰も予想出来なかったことだ。

「アンタはやっていいことと悪いことの違いも分からないの!?」

 晴人を怒鳴りつけ、くるりと向きを変えた晴人の母は、萌に手を差し出した。

「萌ちゃん、うちのバカ息子がごめんね。ちょっとおばさんと一緒に来てくれる?」

 そのまま萌を連れて校舎の方へ向かい、女子トイレに入った。そして鞄の中から白いティッシュのようなものを取り出すと、それを萌に差し出した。

「萌ちゃん、生理は初めて?」
「セイリってなに?」
「女の子はね、大人になると身体が赤ちゃんを作る準備を始めるの」

 晴人の母は、生理について少しだけ教えてくれた。身体に異常があるわけではないのだと分かり、少しだけホッとする。

「これはナプキン。ごめんね、下着の替えは持ってないから、汚れた下着につけてもらうことになっちゃうけど」

 そう言いながら、生理用品の使い方も説明してくれる。萌はよく分からないままナプキンを下着につけてみた。下着は真っ赤に染まっていて、ぞっとする。汚れてしまった下着とズボンはどうしようもないので、陸が貸してくれたパーカーを再び腰に巻き直し、トイレを出る。

「萌ちゃん、今日は早退しようか。おばさんがおうちまで送ってあげるから」
「えっ、いいよ! 私一人で帰れるよ」
「いいのよ、それに早く帰って着替えたいでしょ?」

 その通りだった。血で濡れた下着やズボンを身につけているというだけで落ち着かない。気持ちが悪いし、何よりまた誰かに見られて笑われてしまうことを考えるとこわくなった。

「じゃあおばさんは監督に説明してくるから、ちょっと待っててね」

 生徒玄関に取り残された萌は、ぼんやりとその場に立っていた。なんだかどっと疲れた気がする。
 晴人の母が戻ってくるまで、数分程度のことだっただろう。それでも萌には数時間のことのように感じられた。

「お待たせ萌ちゃん、帰ろうか」

 手を引かれ、シルバーの車に乗せられる。シートが血で汚れてしまうかもしれない、と心配する萌に、晴人の母はタオルを敷いてくれた。

「ほら、これなら汚れてもすぐに洗えるでしょ? だから気にせず座って大丈夫よ」
「ありがとうございます……」

 助手席に乗り込み、持ってきてもらった萌の荷物をぎゅっと抱え込む。晴人の母は、後部座席から見覚えのあるきらきらした飴を取り出して、萌にくれた。

「いちご飴……」
「これはちょっと失敗しちゃったやつなんだけどね。萌ちゃんにあげる」

 練習中に食べたものよりも少し分厚く飴がコーティングされている。それでも口に含むとやっぱり優しい甘みが広がって、萌はたまらず俯いた。なぜか目の奥が熱くなる。
 なんで、さっきは我慢できたのに。

「初めての生理ってびっくりしちゃうよね。お腹は痛くない?」
「…………うん」

 ぽつりと小さな声で返事をした萌に、晴人の母が優しい声をかけてくれる。

「うちのバカ息子、萌ちゃんに気があるみたいね。だからってからかったりしていいわけじゃないのに。本当にごめんね」

 赤信号で車が停まる。大きな手に頭を撫でられて、涙が込み上げてくる。慌てて涙を拭ったけれど、一度溢れ出したそれは止まることなく、ぽろぽろと頰を流れていく。
 静かに車が発進して、萌の家に辿り着くまで、晴人の母は謝り続けた。大丈夫です、と言えたらよかったのに、胸が苦しくて言葉は出てこなかった。

 萌の母には、晴人の母が事情を説明してくれた。萌に生理がきたこと、服が血で汚れてしまったこと、そのことで自分の息子を含む同じチームの男の子達にからかわれてしまったこと、陸が庇おうとして殴りかかったこと、監督がそれを止めてくれたこと。
 話を聞きながら、萌はずっと俯いていた。泣き腫らした目を見られたくなかったし、何より恥ずかしかった。

「萌、辛かったね。お風呂に入っておいで」

 晴人の母を見送った後、萌の母が優しく背中を押した。お風呂場で汗と一緒に血も洗い流すと、母が新しい下着とナプキンを用意してくれていた。
 看護師の母は、生理についてももちろん詳しくて、月経がどういうものなのか丁寧に教えてくれた。全ての説明を聞き終えた後、二人で新しい下着を買いに行った。生理用の下着というのも存在するらしく、これと生理用品はいつもポーチに入れて持ち歩こうね、と母が優しい声で言った。

 帰りの車の中で、買ってもらったばかりのピンクのポーチに下着とナプキンをしまいながら、萌は小さな声で呟く。

「私、野球やめたい」

 それは初めて口にした言葉だった。母が隣で息を飲んだのが分かる。
 自分でやりたいと言って始めたことだ。上級生の中に下級生が入って練習することも、男の子の中で一人だけ女が混ざって野球をやることも、自分で決めたことである。

 それにようやく四年生になって、正式加入したばかりのチーム。今までとは違い、上手くなれば試合にだって出られるかもしれない。
 それでも、晴人達にぶつけられた心無い言葉の数々が、萌の頭にこびりついて離れない。
 同じチームの仲間だと思っていた。それなのに、晴人達は萌のことを『女の子』として認識していたのだ。その事実が、ひどく苦しかった。

「やめてもいいよ、萌。無理して続けることなんかないんだから」
「…………陸ちゃんは、どう思うかな」

 陸のことは、萌が無理矢理誘ったのだ。今でこそ野球を楽しんでいるようだが、バッテリーを組んでいる萌が突然やめると言ったら、陸はどう思うのだろう。

「お母さんには陸くんの気持ちまでは分からないけど」

 陸くんは優しいから、萌の意見を尊重してくれるんじゃないかな、と母が言う。
 車が家に辿り着いた。玄関の前に座り込んでいるのは、見覚えのあるキャップを被った男の子。陸だった。

「陸ちゃん! 大丈夫? 怪我しなかった?」

 萌が駆け寄ると、陸は立ち上がり静かに頷く。

「おれのことなんかより、萌、大丈夫?」

 陸がキャップを少し上げて、萌の目を見上げる。まっすぐな瞳をなぜか今は見つめていられなくて、萌は目を逸らした。

「……陸ちゃんこそ、本当に怪我しなかった?」
「ん、おれは大丈夫」

 陸が優しい手つきで萌の頭を撫でる。泣いたの? と訊かれて、とっさに嘘をついた。

「泣いてないよ」
「でも目が腫れてる」

 萌は強がりだなぁ、とやわらかい声で陸が笑って、また涙が込み上げてくる。でも今度は唇を噛んで堪えることが出来た。

「陸ちゃん、あのね、私……」

 俯いて、小さな声を吐き出す。
 言わなきゃ、野球をやめたいって。あのチームにいたくない、って、言わないと。
 バッテリーである陸には、一番に言わなければいけないことだ。それでもなかなか言葉に出来なかったのは、陸に嫌われるのがこわかったからだろう。
 何も言えないまま立ち尽くす萌に、陸が声をかける。

「…………野球、やめる?」
「!」
「あんなこと言われたら、やめたくなるよね」

 晴人の言葉を思い出して、耳が熱くなる。アイツらのせいで、萌がやめることになるのは悔しいけど、と陸が言葉を付け足す。

「でも萌が苦しい思いをする方が、もっと嫌だ」
「…………陸ちゃん」
「おれのことは気にしなくていいよ。萌は自分のことだけ考えて決めて」

 自分のことだけを考えるなら、やめたい。だけど残された陸はどうなる? ずっと一緒に頑張ってきたのに。陸を野球の道に引きずり込んだのは萌なのに。

「陸ちゃん、私……野球、やめたい」

 振り絞った言葉は震えていた。陸の反応がこわい。自分勝手でわがままな萌の言葉を、陸はどう受け止めるのか。
 しばらくの沈黙の後、陸は口を開いた。それはいつもの優しい声だった。

「おれは、野球、続けるよ」
「…………えっ?」

 てっきり萌が野球をやめるなら、陸もやめると言い出すと思っていた。これまで積み上げてきた努力も経験も全て捨てて、やめてしまう、と。
 でも違っていた。陸の目はどこまでもまっすぐに、萌を見つめていた。

「約束したよね。おれは、一番のピッチャーになるって」
「陸ちゃん……」
「萌が信じてくれるなら、やめない。だから、信じて」

 ぎゅっと握られた手に、萌は目の奥が熱くなるのを感じた。
 萌がいないと何も出来なかった小さな男の子は、いつの間にか成長して、萌がいなくても一人で歩けるようになっていた。
 昔に比べてずっと大きくなった陸の手。マメだらけでゴツゴツしたその手を握り返し、必死に涙を堪える。

「……信じる。信じるよ、陸ちゃん」

 陸ちゃんなら、絶対に一番すごいピッチャーになれる。
 萌がそう言って笑うと、陸も眉を下げて笑った。