「萌、…………萌!」

 名前を呼ばれて、ゆっくりと目を開ける。
 目の前には見覚えのある薄茶色の瞳。昔は垂れ気味だったその目は、今は猫の目のようなアーモンド型をしている。
 ぱちぱちと数度瞬きをして、頭が一気に覚醒する。
 唇が重なってしまいそうなほど近くに寄せられた顔に、驚いて後ろに飛び退くと、バスの座席に頭を思い切りぶつけた。
 痛みに眉をひそめていると、陸がからからと笑う。

「ははっ、何やってんの」
「…………だって、陸ちゃんの顔が近いから」

 やけに頰が熱いのは、気温のせいだろうか。そういえばこのバス、やけに暑い気がする。空調が効いていないのかな、と周りを見て、エアコン故障中のため窓を開けて走行しています、という貼り紙を見つける。
 猛暑日の連続するこの数日の暑さを、エアコンなしで乗り切るのは辛いだろう。運転手は大変だな、と萌は他人事のように考えた。

「萌、次で降りるからね」
「うん」

 陸が微笑んで、萌の頭をぽんと撫でる。ちゃんと朝に時間をかけてセットをして、学校を出る前にも変じゃないか確認したはずなのに、急に不安になるのはどうしてだろう。

「……髪、崩れてない?」

 萌が首を傾げて問いかけると、陸は目を丸くした後、優しく笑ってみせた。

「うん、かわいい」

 きゅん、と胸の奥が小さく鳴いた。
 陸は昔から素直だ。嘘のつけない性格をしているので、これはつまり、本当に萌のことをかわいいと思ってくれているということなのだ。
 頰が熱くてたまらない。さっきよりもずっと赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、ふいと横を向くと、陸が楽しそうに笑った。

 バスを降りて少し歩くと、いつも見慣れている街並みが屋台と電灯で彩られていた。賑やかな雰囲気に、心がわくわくするのを感じる。
 白いシャツの裾を引いて、陸の名前を呼ぶ。やわらかい笑顔を浮かべて振り返った彼は、じゃあ行くか、と萌に手を差し出す。

「えっ、なに、この手!」
「なにって、繋ぐでしょ?」

 当たり前のようにさらわれていく手が、全身の体温を上げていく。
 陸ちゃんはずるい、と思わず呟くと、いたずらな笑みを浮かべてこう言った。

「ずるいくらいかっこいいってこと?」
「…………自分でそういうこと、言う?」
「だってなかなか萌は言ってくれないから」

 はは、と笑いながら、屋台の並ぶ通りまで萌の手を引いた。

「さて、何が食べたい? お姫様」
「〜〜〜っ! お姫様じゃないし!」
「俺としては暑いからかき氷とかいいなって思うんだけど」
「全然聞いてない!」

 陸といると、ペースを乱されてばかりだ。いつもはこんなんじゃないのに、と萌が唇をとがらせていると、陸は萌の意見も聞かずにかき氷の屋台でいちごと桃のかき氷を購入する。

「はい、萌の好きなやつ。どっちがいい」

 器用に片手で受け取った陸は、二つのかき氷を萌の眼前に差し出して問いかける。どちらも萌の好きな味だ。さすが幼馴染、よく分かっている。
 でも何か悔しい、と思いながら、桃の方を指差すと、陸は繋いでいた手を離して萌にピンク色のシロップのかかったかき氷を差し出した。
 離れていった手が名残惜しいと思うのは、萌だけだろうか。別に繋ぎたかった訳ではないのに、離れてしまうと不思議と寂しくなる。
 かき氷をしゃくしゃくとスプーンで掬い、一口食べると、口の中にひんやりとした冷たさが広がっていく。

「萌、早めにかき氷食べてね」
「なんで?」
「両手使わないと食べられないじゃん」

 それが何? と首を傾げた萌に、陸は眉を下げて笑ってみせる。

「その間は萌と手を繋げないなってこと」
「っ、さっきまで繋いでたじゃん!」
「うん。でもまた繋ぎたいし」

 そういう恥ずかしいことを、平然と言ってのけるのだからタチが悪い。もしかしてよほど女の子慣れしているのだろうか。
 胸の奥がもやっとして、萌はじとりと陸を見上げる。

「陸ちゃん、モテるでしょ」

 いちごシロップのかき氷を食べていた陸が、ふいに手を止める。

「うん、モテるよ」

 全く謙遜することなく言ってのけた陸に、萌は少しだけびっくりする。そんなことないよ、と返されるものだと思っていたのだ。
 全寮制の学校に進学し、名門野球部に入ってピッチャーを始めてから、陸は少しずつ変わっていった。昔は自分の意見なんて絶対に言えなかったけれど、今は積極的に発言するし、自信もついたようだ。野球で実績を残していることが、陸の自信に繋がっているのだろう。

 いいなぁ、と萌は心の中で呟く。
 萌には誇れるものが何もない。勉強も運動も楽器も、苦手ではないけれど決して一番にはなれないのだ。特技と呼べるものがある陸を、羨ましいと思ってしまう。その裏には人並みならぬ努力が隠されていることを知っているのに。

「もーえ、どうしたの」

 ふいに顔を覗き込まれて、萌ははっと我に返る。知らぬうちにぼーっとしていたようだ。溶けかけのかき氷を口に含み、なんでもないよ、と笑う。
 陸はもうかき氷を食べ終えたようで、空の容器を屋台の合間に設置されているゴミ箱に捨てた。
 陸に置いていかれないように、溶けたかき氷を慌てて食べ終えると、頭がきーんと痛んだ。思わず眉をひそめた萌に、陸が楽しそうに笑う。それから空になった容器を萌から取り上げ、ぽいとゴミ箱に捨てる。
 また手を繋ぐのかな、と萌が陸を上目遣いに見つめると、陸は甘やかな笑みを浮かべて萌の手をさらっていく。
 心臓がおかしくなっちゃいそう。こんなにドキドキしてるのは私だけかな。
 萌が俯きながら歩いていると、陸がひょいと萌の手を引いた。人混みの中で、男の人にぶつかりそうになったのだ。ありがとうとお礼を言った萌に、なにが? と真面目な顔で陸は問いかけてくる。意識して助けてくれたわけではないと気がついて、萌は何度目か分からない赤面をして唇をとがらせる。

「陸ちゃん、なんか女の子慣れしてない?」

 彼女でも出来たの? と訊ねた萌に、目を丸くする陸。それからははっと大きな声を上げて陸が笑うものだから、萌は恥ずかしくなった。

「えっ、なに、私、変なこと言った?」
「うん、言った」
「ええ? どこが?」
「全部だよ。全部おかしい」

 ばーか、とひどく優しい声で笑いながら、陸が萌の手をぎゅっと握る。
 それからりんご飴の屋台を見つけ、二人で並んだ。さっきの会話はそれ以上続かなくて、何がおかしかったのかは分からないままだ。
 それでもどうしてか、続きは聞かなくてもいい気がした。

「りんご飴といちご飴、あ、みかん飴もあるって。萌はどれにする?」

 屋台にきれいに並んだ飴を見て、ずきっと頭が痛む。一瞬で、昔の記憶がよみがえった。