楽器を素早く、それでいて丁寧に片付ける。そしていつもなら持って帰る譜面も、今日は音楽室に置いておく。
 学校を出る前にお手洗いの鏡で髪をセットし直して、唇にリップクリームを塗る。淡いピンクのリップクリームは、本当なら校則で禁止されているものだが、今日だけ特別に持ってきていた。

「変なところ……ないよね」

 鏡の中の自分に問いかけてみても、当然答えは返ってこない。
 制服を翻しながら、ぱたぱたと廊下を駆けていく。上履きだったならもっと速く走れたのだが、あいにく今日はスリッパだ。何度も脱げそうになりながら、萌は生徒玄関に急いだ。
 来客用スリッパを返却し、下駄箱からローファーを取り出す。泥だらけの上履きの処分は明日考えよう。せっかくお祭りに行くのに、余計な荷物は増やしたくない。
 玄関を出て校門前に辿り着くと、スマートフォンをいじりながら待っている幼馴染の姿が見えた。

「お待たせ、陸ちゃん!」

 萌が声をかけると、つまらなそうな表情を浮かべていた彼は、ぱっと表情を明るくする。昔からそうだ。ご主人様に尻尾を振る愛犬のように、陸は萌にも懐いてくれている。

「萌、久しぶり。部活お疲れ様」
「久しぶりだねぇ。陸ちゃん、また背が伸びたね」

 小学生の頃は萌の方が大きかったのに、いつの間にかすっかり差がついてしまっている。身長を聞いてみると、百七十六センチだそうだ。萌より二十センチも大きい。
 まだ成長しているらしい幼馴染を羨ましく思いながら、二人でバスを待っていると、遠くから萌先輩ー! と呼ぶ声が聞こえてくる。振り返ると、トランペットパートが練習していた教室のベランダから、みんなが顔を出している。

「練習サボってるなー、もう」

 そう言いながらも笑顔になってしまうのは、コンクール前ほどの緊迫感がないからだろう。手を振って陸の方に向き直ると、彼は照れ臭そうにそっぽ向いていた。

「あれ? 陸ちゃん、人見知りはなおったんじゃなかったの」
「いや、この間の準決以来、顔バレすることが多くなったから……」
「そっか! 有名人だもんねぇ」

 甲子園の準決勝での快挙。そして決勝戦での好投も評価され、陸は有名人の仲間入りをした。
 確かに野球には興味のないと言っていた駿介ですら知っていたくらいだし、野球ファンでなくても陸を知っているという人は多いのだろう。
 やって来たバスに二人で乗り込むが、席は一人分しか空いていなかった。

「陸ちゃん座りなよ。練習続きで疲れてるでしょ」
「いいよ、萌が座って。俺は今日休みだったし、萌の方が疲れてるだろ」
「ううん、私は平気。お休み期間中に大会の疲れ取らなきゃいけないんだから、ほら、座って」

 萌がとんと背中を押すが、陸の身体はびくともしない。二人で押し問答をしているうちに、バスが走り出した。
 陸が意地でも座ろうとしないので、萌は苦笑しながら「じゃあ座っちゃうよ」と言った。

「ん、どうぞ」

 ふいに鞄を取り上げられて、驚いて目を丸くする。陸は萌の鞄を持ったまま、ぼんやり窓の外を眺めている。

「え、陸ちゃん、鞄くらい自分で持つよ」
「だーめ。萌はちょっと休んでて」

 どうせお祭りではしゃぐんだから、と優しい笑顔で言われて、萌は頰を膨らませる。付き合いが長いだけあって、陸には何でもお見通しだ。それでも子ども扱いされたことが悔しい。

「なにほっぺ膨らませてんの」
「だって同い年なのに、陸ちゃんが子ども扱いするから」
「違うよ、今のは女の子扱いしたんだよ」

 そう言われて頰が熱くなるのはどうしてだろう。
 陸といると、ペースを乱される気がする。駿介と話しているときは、もっと落ち着いていられるのに。
 そう考えて、ふと疑問に思う。どうして今ここで、駿介のことを考えたのだろう。部内で一番仲がいいから? それとも、もっと別の理由だろうか。
 そんなことを考えながらぼんやりしていると、バスの揺れが心地良い眠気を誘ってくる。

「萌、着いたら起こすから寝てていいよ」

 うとうとしているのに気がついたのだろう。ぽん、と頭を撫でられて、萌はゆっくり目を閉じる。まどろみの中、最後に聞こえたのは、おやすみと囁く陸の優しい声だった。