朝からうだるような暑さだった。
 いつも通り制服を着て、お弁当や水筒の入ったバッグを持つ。それからお財布。少し多めにお小遣いを入れて、バッグの中にしまった。スマートフォンの充電はばっちり。いつもストレートのまま下ろしている長い髪は、ふわふわに巻いて二つにまとめた。ちょっと切った前髪も変じゃないはず。
 鏡と持ち物を何度も確認して、萌が家を出ると、すでに駿介が家の前に立っていた。

「おはよう、矢吹くん!」
「おはよ…………どうしたの、珍しいじゃん」

 駿介が驚いた顔をして、萌の髪を指す。萌は毛先をくるんと指で巻いて、変? と訊ねる。

「変じゃないよ、似合ってる」
「ありがとう」

 えへへ、と笑いながら歩き出した萌に、駿介は何か機嫌いいな、と呟いた。そして、忘れないうちに、と萌は話を切り出す。

「矢吹くんあのね、今日は私、居残りせずに帰るね」
「何か用事でもあるの? 髪も巻いてるし」
「うん! 夏祭りに行くんだ。だから今日は送りもなくて大丈夫だよ」

 え、と駿介が立ち止まったので、萌は振り返る。何やら複雑そうな表情を浮かべ、駿介が店の窓に掲示されている夏祭りのポスターを見やる。

「祭りってこれでしょ? バスに乗るならやっぱり送るよ、痴漢とか危ないし」
「ううん、一緒にお祭りに行く子が学校まで迎えに来てくれるみたいなの!」

 立ち止まったままの駿介に、バスに遅れちゃうよ? と言うと、硬い表情のまま歩き出す。
 バス停までは無言だった。いつもなら今日の練習メニューの話などで盛り上がるのだが、駿介が黙りこくっているので萌もそれに倣った。

 好意で送り迎えをしてくれているのに、断ったから気に障っちゃったかな。

 そんなことを心配していると、バスがやってくる。休日の朝にしては珍しく混んでいて、座れそうになかったので、通路の端っこに立った。駿介も萌の隣に並び立ちながら、出遅れたなぁ、と呟く。

「え? 出遅れたって、何が?」

 萌が首を傾げる。駿介はセットされた髪を崩さないように器用に頭をかいて、言葉を続ける。

「祭りのポスターを先週初めて見かけたときから、ずっと計画してたんだよ」
「計画?」
「そ。何とかして今日は部活を早く終わらせて、いつも通り雨宮を送っていって、祭りやってるじゃん、寄っていこうぜ、みたいな自然な流れで雨宮と祭りに行けたらいいなって」

 数秒意味を考えて、萌は頰が熱くなるのを感じた。それはつまり、駿介も萌と一緒に夏祭りに行きたかった、ということだ。

「自然な流れで、とかズルいこと考えずに、もっと早く声をかけておけばよかった」

 後悔の言葉を口にする駿介の表情は、どことなく悔しそうだ。こういうときなんて言葉を返せばいいんだろう。萌が言葉に詰まっていると、駿介は照れ笑いをこぼした。

「困らせちゃったな、ごめんごめん」
「あ、ううん。何かびっくりして」
「雨宮は鈍感だからなぁ」

 そんなことはないと思うけど、と呟いて、誤魔化すように窓の外を見る。駿介もそれ以上追撃してくることなく、バスは静かに進んでいく。
 学校前のバス停に辿り着くまでが、なぜか長く感じられた。気まずい沈黙ではないのにどうしてだろう。熱い頰を隠すように俯いて、駿介に続いてバスを降りた。
 玄関で上履きに履き替えようとしたときだった。学校の下駄箱は生徒一人ずつに振り当てられていて、簡素なものだが扉も付いている。萌の下駄箱の扉が、少しだけ開いていることに気が付いた。
 萌は几帳面な性格だ。本棚に並んでいる本は順番になっていないと気持ちが悪いし、ドアや下駄箱の扉だって隙間があると落ち着かない。
 嫌な予感がした。誰かが萌の靴箱を開けたとしか思えない。いったい誰が、何のために?
 おそるおそる扉を開けて、息を飲んだ。

「…………雨宮? どうかした?」

 下駄箱の前で固まっている萌に痺れを切らしたのか、すでに上履きに履き替えた駿介が萌の元にやってくる。そして、これでもかというほど泥を詰め込まれた上履きに、表情が強張る。

「…………えーっと、どうしよう……とりあえず私、来客用のスリッパを借りてくるね」

 気まずい。女子のいる社会では、嫌がらせの類は珍しいことではない。萌だって無視をされたり、物を隠されたりといった嫌がらせを受けたことがある。
 でも、それを誰かに知られるのは初めてのことだった。同じ部活の中でも仲のいい駿介に見られたことで、一番に浮かんだ感情は、恥ずかしい、だった。
 ローファーを脱ぎ、靴下のまま教員用玄関の方に向かい、来客用のスリッパを借りる。ぱたぱたと音を立てながら駿介の元へ戻る途中、大きな声が生徒玄関に響き、萌は思わず足を止めた。

「電話無視してんじゃねぇよ! 次に雨宮に嫌がらせしたらぶっ飛ばすからな!?」
「え…………!」

 その場に立ち尽くし、萌は動けなかった。駿介の怒鳴り声など初めて聞いたからだ。中学生の頃から彼のことを知っているが、こんなに怒っているところは見たことがない。
 固まったまま動けずにいると、駿介が萌の鞄も持ってきてくれた。

「えっと……電話? 誰にしてたの?」
「消去法で一人しかいないだろ、犯人は」

 上履きが泥だらけになっていたことがショックで、誰にやられたのかまで考える余裕がなかった。駿介は消去法と言ったが萌にはすぐに思い浮かぶ人物がいなかった。

「昨日雨宮は部活に普通に出て、居残り練習していっただろ?」
「あ、そっか。そのときは上履きを履いていたから、その後ってことになるのか」
「そう。それで昨日最後まで居残りしてたのは俺と雨宮。音楽室の鍵を締めたから間違いない」

 その場面は萌も見ていた。由奈を置き去りにして帰って、それで。

「あ」

 一つの可能性が頭に浮かぶ。萌は由奈に嫌われていた。そして昨日のあの騒動。告白の場面に居合わせてしまったのはわざとではないが、由奈からしたら萌が面白がっていると思ったのかもしれない。

「もしかして、電話の相手って由奈先輩?」
「そうだよ」
「で、でももしかしたら他の人かもしれないし……」

 決めてかかるのはよくないんじゃないかな、と呟いた声が小さくなってしまったのは、萌も犯人は由奈なのではないかと思ってしまったからだ。

「他の人はあり得ないよ」

 駿介がはっきりとそう言ったので、萌はどうして? と首を傾げる。

「吹奏楽部が朝早くから夜遅くまで練習してることは、他の部活の奴らも知ってるはずだ。でも誰が遅くまで残っているのかまでは、同じ部の奴じゃないと知らないだろ?」
「でも上履きがなかったらローファーに同じことをするつもりだったのかも」
「誰がいつ下駄箱に来るか分からない昼間にやるとは思えない。それに、他の部の奴らに恨まれるような覚えはないだろ」

 それは確かにそうだ。仲のいい友達も、そんなに仲がよくない相手もいるけれど、恨まれるような覚えはない。同じ部活のメンバーほど、深い関わりがないからだ。

「俺達は昨日最後まで居残りしてた。それで、今日もいつも通り一番最初のバスで登校してきてる」
「吹奏楽部で、その間に嫌がらせを出来たのは、由奈先輩だけ……?」
「な? 消去法だけど、間違っていない自信はあるよ」

 それに雨宮は俺のせいで嫌われちゃってるからなぁ、と駿介が呟いたので、萌は再び首を傾げることになった。
 萌が由奈に嫌われているのは、単純に気に食わないからだと思っていた。でも、違うのだろうか。

「矢吹くんのせいって、どうして?」
「ん? それは秘密」

 駿介が歩き出したので、萌は慌てて後を追う。音楽室に辿り着いたが、やはり萌達以外まだ誰も来ていないようだった。

「雨宮の靴のサイズっていくつ?」
「え? 二十三センチ」
「じゃあ俺が今日の帰りに新しい上履き買ってくるよ」

 唐突に告げられた言葉に、萌は驚いて声を上げる。そんなことを駿介にしてもらうのは申し訳ない。何より、そこまでしてもらう理由がないのに。

「えっいいよ、自分で買いに行くし」
「だーめ。今日雨宮はお祭りに行くんだろ? 楽しんでこいって。それに、嫌がらせされたのは俺のせいみたいなものだし」

 由奈が犯人だとしたら、あの告白の現場に居合わせたことに対する八つ当たりだろうか。でもその前から由奈には嫌われている気がしていたので、もしかしたらあれをきっかけに怒りが爆発しただけかもしれない。
 そうなると駿介は関係ないのだが、お祭りに行くことを考えると確かに萌が上履きを買いに行く時間はなさそうだ。明日も来客用スリッパで過ごすことを考えると、少し憂鬱である。吹奏楽部は室内の部活動なので、上履きで移動するのが基本だ。そんななか突然スリッパで過ごしていたら、何かあったと自ら告白しているようなものだからだ。

「……矢吹くん、上履きを買いに行くの、お願いしていい?」
「ん、もちろん」
「お金はちゃんと明日払うから」

 いくらだったか教えてね、と萌が言うと、そんなの気にしなくていいのになぁ、と駿介は笑った。