「見た? 今朝のニュース!」
「見た見た! 甲子園のプリンスでしょ?」
「あのピッチャーめちゃくちゃかっこよくない? しかも完封? っていうの? すごいんでしょ?」

 同じ学校の制服を着た女子二人が、バスの中できゃあきゃあと騒いでいる。
 夏休みも終わりに近いこの時期に、制服で学校へ向かっているのは、補修か部活のある一、二年生だけだ。ほとんどの部活動では夏の初め頃に大会が行われ、徐々に三年生が引退していく。
 雨宮萌の所属する吹奏楽部でも、夏の大会が終わり世代交代が始まっていた。新しく部長になったのは、萌と同じトランペットパートの矢吹駿介。人当たりはいいが、自分にも人にも厳しいので、三年生の先輩がいなくなったからといって吹奏楽部が中弛みすることはないだろう。

「あのピッチャーの名前何だっけ?」
「速水陸でしょ。笑顔も爽やかだし、インタビューも謙虚な感じで、スポーツも出来るんでしょ? ファンになりそう!」

 萌は楽譜を読みながら、彼女達の話に耳を傾けていた。話題は昨日中継されていた甲子園の準決勝。昨年甲子園一回戦敗退の東星学園と、優勝候補の青葉高校の試合。誰もが青葉高校の勝利を信じていただろう。一回裏、速水陸がマウンドに立つまでは。
 準決勝まで彼は温存されていた。それまでの試合で投げていた三年生投手ではなく、マウンドに上がったのは二年生にしてエースナンバーを背負う男。準決勝でようやく出場した背番号一の二年生に、自然と注目が集まった。次の瞬間だった。
 警戒している打者を嘲笑うような、ど真ん中に放たれたストレートボール。完全に振り遅れたバットに、会場は静まり返る。強豪校の一番打者といえば、能力も高いはずだ。その打者が青い顔で固まっている。それほど球威のあるストレートだった。
 陸はその後、優勝候補である青葉高校の強力打線を見事に抑え切った。フォアボールやヒットはあったものの、内野陣と外野陣が守備力を見せつけ、無失点のまま試合を終えた。
 甲子園の準決勝での完封試合。力量差のあるチームならまだしも、相手は甲子園まで勝ち残ってきたハイレベルなチームだ。速水陸は昨日の試合をもって、一躍有名人になった。

「あ、雨宮。おはよう」

 バスが停車し、バス停から続々と人が乗ってくる。前の方の窓際の席に座っていた萌に話しかけてきたのは、同じトランペットパートの駿介だ。空いていた萌の隣の席に腰掛け、大荷物を膝に置く。楽器のケースを持っているところを見ると、昨日も持ち帰って家で練習したのだろう。朝から晩まで楽器漬けで疲れないのだろうか。萌は毎日の部活動だけでもへとへとだというのに。

「おはよう、矢吹くん。今日も朝練?」
「うん。部長の仕事してると練習時間削られるからさ、少しでも追いつかないと」

 駿介の演奏技術が、他の人より遅れていることなんてない。むしろ、トランペットパートでも一、ニ、を争う実力者だ。駿介とは同じ中学だったが、その頃はあまり上手くはなかった。努力を重ねて今の実力を身につけたことを知っているので、萌は素直に尊敬していた。
 謙虚で勤勉な彼は、決して現状に満足していなかった。つい先日行われた吹奏楽部コンクールの県大会で、ダメ金だったこともやる気に火をつけている要因の一つだろう。ダメ金というのは、金賞を取った学校のうち、次の大会に進めないことを指している。吹奏楽部コンクールでは必ず全ての学校に金賞、銀賞、銅賞いずれかの賞がつくため、金賞だからといって一番というわけではないのだ。結果発表の瞬間、金賞ゴールド、と言われて喜んだのも束の間。西関東大会に進めるかどうか、という分かれ目で、萌達の学校はダメ金に終わったのだ。

「来年は絶対、西関東大会に出たいね」
「そこは全国っていうところだろ!」

 目標が高いのはいいことだ。でも萌は、高すぎる目標を設定するよりも、努力すれば達成出来るくらいの方が性に合っている。強豪校集まる埼玉県の県大会で、金賞を取ることが出来たのだ。西関東大会出場も夢ではないと、萌はそう思っていた。

「そういえば、速水陸くんって地元はこの辺りなんでしょー? ばったり駅で会えたりして!」

 先ほどの女子が一際大きい声で、ミーハーなことを口にする。その声が耳に入ったのか、駿介が肩をすくめてみせた。

「すごいニュースになってたよな、甲子園の準決勝での完封試合」
「昨日からそのニュースで持ちきりだよね」
「うちの学校は野球部強くないからなぁ」

 駿介のあまりに直球すぎる言葉に、萌は苦笑した。確かに地区予選一回戦負けだったけど、彼らも授業が終わった後、遅い時間まで練習に励んでいたのだ。必ずしも努力が報われるわけではない。そんなことは、高校生にもなれば誰でも知っていることだ。

「俺は野球に詳しくないから、応援のブラスバンドの方にばっかり気を取られちゃったよ」
「あはは! かっこいいよねぇ、甲子園での応援!」

 特にトランペットの明るく高い音は、広い会場全体に響き渡る。応援の花形とも言えるだろう。
 夏の青空の下、汗をかきながら選手を応援するために音を奏でるのは、どんな気持ちなのかな、と萌は少し考えてみたが、想像出来なかった。試合の状況が気になってしまうような気もするし、自分の演奏に集中していて応援どころではないかもしれない。
 ぼんやりと考えていると、でもあんまり上手くなかったな、と駿介が呟いた。

「ブラバン。あれならうちの方が上手いよ」
「うーん、そうだねぇ。東星学園って吹奏楽にはあんまり力入れてないみたいだからね」
「詳しいね、東京の高校のことなのに」

 駿介の言葉にドキッとする。今のは失言だった。生まれも育ちも埼玉県の萌が、東京の私立高校の吹奏楽事情に詳しいのはおかしな話だ。

「えっと……コンクールの結果、調べちゃった。あんまり上手くないなぁと思って」

 ごめんなさい、東星学園の吹奏楽部のみなさん。
 悪気はないが、貶めるような発言になってしまった。罪悪感に心を痛めていると、ようやくバスが学校の前に到着する。駿介が楽器のケースを持って立ち上がったのに倣い、萌も譜面を片手に後を追う。

「それにしても、どんな気持ちなんだろうな」
「なにが?」
「例のピッチャー。たった一日で、日本中から甲子園のプリンスなんて呼ばれるようになったわけだろ?」

 俺なら恥ずかしくてたまらないと思う、と歯を見せて笑う彼に、萌も笑い返す。
 そして幼馴染の男の子を思い出しながら、きっと今も野球のことしか考えていないと思うよ、と心の中だけで呟いた。