「う、ぅんん……」

 暖かい光が瞼を差す。小鳥の囀りが聞こえてくる。

「抄華……?」

 優しい声がする。

(誰……?)

 考えるまでもなく思いつく。私はうっすらと目を開けた。

「目が覚めたか?」

 目覚めて最初に飛び込んできたのは、この世のものとは思えないほどの整った顔だった。朝日に似つかわしい笑顔が私を覗き込んでいる。

 きっと、今までの私ならば叫び声を上げて相手の顔を叩いていた光景。しかし、すでに私は見慣れている顔。そうそうに驚くことも、心臓が痛くなることも無くなった。

 もちろん、甘いときめきで軽い高ぶりくらいならば、今も感じているが。

 ご機嫌そうに口角を上げているその人物に、私も笑みを返す。

「おはよう……羅衣源」
「ああ。体は大丈夫か?」
「うん、何ともないよ」
「そうか。ならば良かった」

 おはよう、という言葉が合っているのかは分からない。少なくとも、眠りの沼から這い上がってきた今の私にはこの言葉ぐらいしか見つからなかった。私の挨拶を満足そうに聞いてから、羅衣源はゆっくりと離れ襖の向こう側に消えた。

 それに反して、私は体を起こす。軽い眩暈に襲われたが、何度か深呼吸を繰り返すと治った。

 辺りを見回す。掃除が行き届いている壁。少しの乱れもない畳。太陽が当たって光を反射している天井。そして、何もかもが一目で高価だと分かる家具。

 ここは羅衣源の屋敷で、最初に私が案内された部屋だった。

(……私、助け出されたんだっけ)

 鬼に攫われた私は、薄暗い部屋の中で鬼に求婚を迫られた。そこで助けに来てくれたのが羅衣源だった。

 魔落ちした鬼は羅衣源によって浄化され、千魏によって検非違使まで運ばれていった。そして、私たちも帰ろうというところで意識が途絶えたのを覚えている。

「まだ、体の自由が効かないのか?」

 再び襖が開いて、心配そうな羅衣源が入ってくる。

「ううん、ただ、考え事をしていただけ」
「そうか。これを飲め」

 彼は手に持っていた湯呑みを差し出した。

「うん、ありがとう」

 それを受け取り、口元に持っていく。ふわっと甘い香りがした。花のような、蜜のような。口に含むと仄かな苦味と爽やかな甘さが下の上に広がる。

「……おいしい」

 お茶は喉を通って体全体に染み渡る。一口飲んだだけで、溜まっていた疲労が少し和らいだ気がした。

「ねぇ、羅衣源」
「ん、どうした?」
「今って、いつ?私、どのくらい眠っていたの?」
「一日程だ。とは言っても、あれは昼下がりのことだったから、実際は半日と少し、といったところか」
「そっか」

 つまり今は次の日の朝、というわけだ。半日と言っても、随分寝ていたものだ。

「あれから私、どうなったの?」

 鬼のことも、自分と羅衣源がどうやって戻ってきたかも。知りたいことは山ほどある。
 
 前のめりになる私に、羅衣源は優しく微笑みかけた。そう慌てるな、と言わんばかりに。

「お前が倒れた後、取り敢えずあの部屋から出た。私が開けた穴を通ってな。そこを抜けると、あのあやかし通りに出た。どうやら鬼は、あの道の一角にある建物の地下に部屋を作っていたらしいな」
「ということは、私は攫われてからそう遠くへは連れていかれてなかったんだ」
「ああ、全く大変だった」

 彼は苦笑いを浮かべる。

「お前が消えて、驚いてあちこち探し回った割には、こんな近くにいたとはな。灯台下暗しってやつだ」
「探し回ったって……」

 焦った表情で一人で街を駆け回る羅衣源を想像し、思わず苦笑する。

「でも、よく見つけたね」
「それはこれのおかげさ」

 そう言って懐に手を入れ、取り出したのはあの桔梗の花びらだった。

「これ……っ!」
「こいつには九尾の力が宿っていたからな。抄華の居場所を突き止め、私に知らせてくれたのだろう」

 羅衣源は手のひらに乗る花びらをじっと見つめる。

「これがひとりでに舞い、ついて行ったところに抄華がいた」
「そうなんだ。やっぱり、あやかしは凄いね」
「ああ、あいつには、また救われた。感謝し切れない」
「うん」

 それは私も同じだった。わたしたちを何度も巡り合わせてくれた。それは、奇跡にも等しいだろう。

「それで、あの建物とかはどうなったの?それに私、あの中で話し声を聞いた気がするんだけど……?」
「ああ。まず、建物はすぐに解体された。抄華が囚われていたのは地下だが、どうやらあそこは上の階も魔落ちした鬼が居てな、そいつらも取り押さえたよ」
「魔落ちしたあやかしの溜まり場だったということ?」
「そうなるな」

 ぞわりと背筋に寒気が走る。あやかし通りには、普通のあやかしだけでなく、人間に危害を加えるものもいた、というわけだ。

 あやかし通りと私がよく行く通りは決して離れているわけではない。にも関わらず、あんな危険な生き物が近くにいたと思うと恐ろしくして仕方なかった。

「だが安心しろ。そこにいた奴らは全て浄化した。私が見る限り、近くに魔落ちのものはいないだろう」
「そっか。よかった」

 ほっと胸を撫で下ろす。すると、ぐうとお腹で音が鳴った。途端にぼっと火がついたように顔が熱くなる。多分、羅衣源にも聞こえたはず。

 そう言えば、半日間何も食べていなかった。それは腹の虫が鳴くのも当然だろう。

「な、なんかお腹空いてきちゃったし何か食べようかな」

 必死に誤魔化しながら立ち上がった。が、空腹と疲労のせいか、足元がおぼついて羅衣源の腕に倒れ込む。

「そんなにも必死にならなくてもよい」
「だ、だって……」

(笑われたら、嫌だし)

 けれども羅衣源は変わらない表情だった。他人を心から思いやる、優しい笑顔。

「強力な鬼の邪気に当てられたんだ。完全に回復するのはもう少し先だろう」

 そして、私の体に手を添え、支えとなってくれた。

「朝食ならすでに用意させている。ゆっくりでいい」
「う、うん、分かった……」

 羅衣源の優しさに、鼓動が早くなる。私は彼と共に廊下を歩き、大広間で豪華な食事をとった。

 魚介の出汁を使った味噌汁や旨味が染み込んでいるお浸し、ふっくらと口のなかでほぐれる焼き魚。朝にしては多いな、なんて思いながらも、美味しさのあまりあっという間に食べ尽くしてしまい、お腹と心は満たされる。何事もない、平穏で楽しい食事だった。

 一つ言うならば、夢中で食べすぎた故に、大口を開けていたところを羅衣源に見られたのは恥だった。

 大量なる米を頬張り、さらにその口に魚を押し込もうとしたところで彼の視線を感じた。箸を宙で静止させたまま振り向くと、そこには案の定、頬杖をついてニヤつきながら私を見る彼がいた。

「ちょ、見ていたなら声ぐらいかけてよ!」
「いや、すまん。随分と美味そうに食べているものでな」

 ふはっと羅衣源が笑う。私が顔を赤らめてそっぽを向いたという行動に至ることを想像するのは容易いだろう。

 飛んだ醜態で、顔が真っ赤になったことだけ、それ以外は良かったのだが。
 
「はぁ……」

 寝ていた部屋に戻ってきた私は、さっきのことをまたも思い出してしまい、顔を覆ってため息をつく。

(でもまぁ、こんな経験も悪くないかもね)

 割り切った私は、開け放たれた障子の外を眺める。

 青かった。真っ青でとても澄んだ、美しい空模様だ。そこに浮かぶ太陽もまた、鮮やかな輝きを地に振りまいている。

 眩しいほどの日光に照らされて、屋敷の庭の池は空に負けないほど光っていた。まるで、池の水全てが宝石になったみたい。

 贅沢だなぁ、なんて分かりきってるのに思ってしまう。

 そっと耳をすませば、小鳥の囀り、蝉の鳴き声、人々の足音が風に乗って流れてきた。正しく、夏に相応しい景色。

 この庭と合っていて、この季節の良さが引き出されている感じがする。

「やっぱり、夏は素敵」

 なんて、毎年は必ず思っている気がする。綺麗な風景の余韻に浸っていると、襖が開いて羅衣源が入ってきた。

「抄華、どうだ、体は休めたか?」
「あ、うん、お陰様で」

 私は笑顔で彼にお礼を言う。私を運んで、朝食、そして寝床まで用意してくれたのだから。体といい気分といい、すっかり元の状態に戻った。

「そうか、お前が元気で何よりだ」

 羅衣源は微笑み、私の隣に腰を下ろした。そして、先ほどの私と同様に外の景色へ視線を移す。

「ここは良い眺めだな。久しぶりにじっくりと見たもんだ」
「そうなの?」

 彼の屋敷だから、すっかり見慣れた風景かと思ってた。

「最近は色々と用事が多かったもんでな。ゆっくりする間なんてなかったさ」
「へぇ……それは大変だね」

 帝だから優雅な暮らしをしてるって勝手に想像していたけど、この国をまとめる人だ。私が知る以上に苦労を重ねていることだろう。国を治める人間って結構大変なんだろうな。

「だから今日、こうしてまた美しい景色を堪能できてよかった」

 羅衣源は太陽が主役となっている空を見上げる。眩しそうに細める瞳には嬉しさの色が混じっていた。

「そうだ、抄華に見せたいものがあるのだ」

 羅衣源はポンと手を打って私を見た。

「えっ、私に?」
「ああそうだ、付いて来てくれ」

 彼は立ち上がると、私に手を差し伸ばす。うんと頷いて、私はその手を取った。

 部屋から出て、使用人達が忙しなく通り過ぎていく廊下を突き進む。みんな、羅衣源の横を通るときは決まって彼の顔を見て会釈する。そしたら、続いて私にも。

(私なんかは別にいいのに)

 最初は恥ずかしかったが、何度もされた今にとってはあまり気にならなくなった。笑顔を向けられたら、とにかく、こっちも笑うということを覚えたからかもしれない。

 使用人が目を合わせて笑みを浮かべたら、私もすかさず笑顔をつくる。そうして何人もの、中には何回も通りすがりの人と会釈をし合って歩いていく。

 羅衣源は幾重も続く廊下を何度も曲がり、やがて屋敷の裏の方に来た。表とは違ってあまり日光が当たらない場所で、心なしか気温が低い気がする。

「ねぇ、どこに向かってるの?」

 見慣れない場所までやってきた私は、興味本位で羅衣源に尋ねる。しかし彼は、片目を瞑って人差し指を唇に当てた。

「まだ秘密だ。待ってろ」

 また勿体ぶられた。昨日といい今といい、羅衣源は他人に目的を教えず、驚かせることが好きなのかもしれない。

 それはそれで面白いか、とそう割り切ってついて行くことにした。

 ひんやりと冷たい木製の床を歩き、彼が連れてきたかった場所にとうとう着く。目の前には、僅かな日光を浴びて柔らかく光る薄い障子。

「抄華、開けてみてくれ」

 羅衣源がその白い紙が貼られた扉を指して促す。

「分かった」

 ゆっくりと障子に両手を伸ばして、木の枠の取手を掴んだ。

(一体、何があるんだろう?)

 期待と不思議さで胸が高鳴る。震える手で、私は一気にどちらの手も横に弾いた。

 パァンッ!

 勢い余った障子が両端の壁に打ち付けられ、高い音が響き渡る。

「……っ!」

 まるで、それが合図だったように私の視界は一変した。


 目を見開いた。


 息を呑んだ。


 風に乗って運ばれてくる甘い香り。地面を埋め尽くす沢山の色。踊るように空中で舞っている花びら。

 素っ気なかった世界の色が、一瞬にして鮮やかに塗られた瞬間だった。

「うわぁぁぁっ!」

 心の声が、言わずとも漏れていた。

(なんて綺麗なんだろう、なんて美しいんだろう……!)

 私は至る所に視線を彷徨わせていく。

 右を向いてみた。目に止まったのは、目も覚めるほどはっきりとした黄色の菜の花や自己主張が強い赤色の椿。そして近くには大樹があって、淡い紅の花が枝々に咲いていた。

「あれは、桜だ……!」
「ああ、最近は梅よりもこっちの花の方が人気でな」

 羅衣源は得意げに話す。

 ここあるのは、春の花。何故季節外れの花が咲いてるの、なんて驚いている暇はなかった。
 
 同じ場所に並ぶ奥の花を覗いた。こっちは紫陽花に梔子、それに大輪の向日葵。見ているだけで涼しくなったり、元気をくれるような花々。今の季節の、夏の花だ。

「すごい……凄い凄い!」

 私は手を叩いて喜びを形にする。最早、心の中で叫ぶだけでは抑えられなくなっていた。

 今度は首を左に動かした。映ったのは、紅が鮮やかな彼岸花や、少し控えめな感じがまたいい菊。秋の花、と思うのに時間はかからなかった。

 そして最後は、冬の花。全く反対の季節に咲く花達が、そこには儚げに生きていた。幾重にも折り重なった花びらが特徴的な山茶花に笛のような形の水仙。

「凄い……なんて綺麗なんだろう」

 うっとりとした気持ちが、後から後から湧き上がってくる。

 そこは、四季折々の花が咲いている、なんとも不思議な花園だった。

「ここは、一体何……?」

 興奮した私は堪らず訊いてみた。すると、隣に立つ羅衣源はニヤリとした、とても満足そうな笑みを浮かべた。

「ここは抄華のために作った特別な花園だ」
「何で四季の花が一斉に咲くことができているの?」
「少しばかり、神力を使った。だが……」

 羅衣源は私の顎を立ち上げ、顔をグイッと寄せて甘く優しい声で囁く。

「こんなにも美しく咲き乱れているのは、お前のおかげかもな」

 魅力的な笑顔に、私は全身に熱が駆け巡る感覚を覚える。

「ど、どういうこと……?」

 この状況が長引くと心臓が持たない。私は咄嗟に質問して、彼から距離を取った。何が面白いのか、ふはっと表情を崩して笑う。

「やっぱ愛らしいな」

 ぼそっと聞こえた呟きに、私はボンッと赤くなる。

「い、いいから教えて!」

 そこまで気になるわけでもないけど、とにかく話題を逸らしたかった。

 はいはい、と呆れたように羅衣源は腕を組む。

「運命人は、帝の一族以外で唯一神力を持つ人間だ。そして、帝の一族は運命人と縁を結ぶことで神力を高められるのだよ」
「神力……。ああ、鬼もそんなことを言っていたかも」

 運命人は神力が少なからずあるって。そして、神力を強める珍しい存在だと。

「だから、私の神力だけでは足りないものを、抄華の神力も加わることで、こんな綺麗な花達が咲いたんだろうな」
「そっか……」

 私は改めて目の前の景色を見つめた。何度見ても飽きない、鮮やかな色が舞う舞台。世界の中でも、ここまで美しい場所はないと思う。

「ねぇ、羅衣源」
「何だ?」
「どうしてこんなところがあるの?」

 羅衣源の一族や両親が作ったのかもしれない。でも、人からは見えない裏側に、こんなにも綺麗な花園がある理由が分からなかった。

「それは……私の一族には、(づがい)になるものに贈り物をするというしきたりがあるからだ」
「そうなんだ。でも、何で花園にしたの?」
「ああ……抄華が、花好きだと聞いたからで」

 羅衣源は自然を泳がせ、どこか恥ずかしそうな、気まずそうな表情を見せる。

(あれ、私、羅衣源に花が好きって言ったことあったっけ?)

 身に覚えのない情報に、流石の彼も私の心を読んだのか、理由を説明した。

「実は、九尾に言われてな」

 頭を掻いた羅衣源は、ぽつぽつとある日の話を始めた。

          *