峰野邸の敷地をずかずかと突き進み、自転車をおりる。隅に自転車を停め、手入れの行き届いた庭を大股で進む。
いつも入る部屋の前で、悲鳴のような声が聞こえた。縁廊下はくれ縁という形の、窓や雨戸で雨に濡れるのを防げるもので、悲鳴はそれを貫いて聞こえてきた。
雨戸は閉まってはいなかったけれど、ただごとではない。窓の向こうは障子だし、決して防音性は高くないけれど、そういった声が発されるような事態がこの先で起こっているのだ。
不意に、その声に名前を呼ばれた。拓実の声だった。
思わず窓へ手をかける。しかし、あとでいくらでも叱られようと瞬時にかたまった意志はまるで意味を為さない。玄関の方へ走り、窓が開かなくてもめげない意志が扉へ手をかけさせる。動きやしない。
窓の戸締りがされているような家なのだから当然だったけれど、焦れったかった。窓の前を離れて呼び鈴を鳴らすまでの間にも、悲痛な叫び声は何度も響いた。
いっそ窓を破るべきかと考えが過ぎったとき、玄関の扉が開いた。拓実のおかあさんだった。
「敬人君」と表情をやわらげる彼女へ「失礼します」と断って中にあがる。おかあさんがいるのなら事件が起きたということではないのだろう。なにより、目が合ったときに彼女はどこか安心したような表情を見せた。
いつもの部屋に入ると、拓実は息を荒くしてこちらに背を向ける形で座り込んでいた。
「拓実」と呼ぶと、彼女はばっとこちらを振り返った。ぼろぼろとあふれる涙が頬を濡らしている。
俺のせいだ、とわかった。拓実は俺に助けを求めてくれた。それに応えられなかったために、拓実はこんなにも弱々しく、怯えるように泣いている。
あの叫び声は、俺の愚かさを嘆いたものだったのかもしれない。どうして気づいてくれないの、どうして助けてくれないのと。どうして、帰っちゃうのと。疲れたのは体じゃないのに、休んでどうにかなるものじゃないのにと。
俺は拓実の前に座った。抱えきれずにあふれる透明な感情に手を伸ばすと、ぱしんと乾いた音がした。「触らないで」と鋭い声が響いて、ようやく事態を理解した。右手の痛みが追いついてくる。
「帰って」と小さな声が泣いている。
「拓実」
「帰って」と鋭い声が静寂を切り裂く。
目の前が暗くなる。救えなかった。もう、拓実のそばにいる資格はない。拓実のそばにいるには、俺はあまりに愚かだった。いや、相手を拓実に限った話ではない。俺は人と接するには、あまりに愚かだ。
だから、求められるものを差し出すことでしか人と関われない。人手が足りないときにちょろっと顔を出すことしかできない。与えられた役割をこなすことしかできない。
人との関わりはそういうものではない。相手を思いやり、求められるより先に必要なものを見つけ、自らそれを差し出す。その能力を持っていることが、人のそばにいる資格だ。
俺はそれを持っていない。見えないものは見られない、聞こえないものは聞けない、触ることのできないものには触れない。
五感でしか接せないような浅はかさは、やがて相手を傷つける。それで済めばいい。相手の心を壊してしまう。そうしてしまえば、もはや関係の修復は叶わない。寄り添うことも許されない。そばにいてはならないのだ。
それ以上そばにいれば、相手はさらなる苦痛を味わうことになる。こちらが至らないせいで。愚か者は、自らの罪を償うこともできないのだ。それができるほどの能力がない。精々、残された人生を悔いて過ごすことくらいが、愚か者のできること。
俺にはもう、拓実のそばにいる資格はない。
「ごめんね」といった声が自責の念に震えた。
俺は何年、拓実を苦しめたのだろう。俺の気づかないところで、拓実はどれだけ苦しんでいたのだろう。俺がもっと立派だったなら、こんなことにはならなかった。
拓実はどれだけ我慢していたのだろう。それが今回、とうとう爆発したのだ。
精々、苦しめばいい。知らないでいた彼女の苦しみを、味わえばいい。残った人生のすべてをかけて、味わい尽くせばいい。
部屋を出ると、おかあさんに呼ばれた。振り返ることはできなかった。俺はこの人の娘の心を、愚かさという恐ろしい凶器で壊した。愚かさとは、ときに冷酷だ。助けを求める人を平気で無視する。
「ごめんなさい」と答えながら、なにか熱いものが頬を焼いた。
いつも入る部屋の前で、悲鳴のような声が聞こえた。縁廊下はくれ縁という形の、窓や雨戸で雨に濡れるのを防げるもので、悲鳴はそれを貫いて聞こえてきた。
雨戸は閉まってはいなかったけれど、ただごとではない。窓の向こうは障子だし、決して防音性は高くないけれど、そういった声が発されるような事態がこの先で起こっているのだ。
不意に、その声に名前を呼ばれた。拓実の声だった。
思わず窓へ手をかける。しかし、あとでいくらでも叱られようと瞬時にかたまった意志はまるで意味を為さない。玄関の方へ走り、窓が開かなくてもめげない意志が扉へ手をかけさせる。動きやしない。
窓の戸締りがされているような家なのだから当然だったけれど、焦れったかった。窓の前を離れて呼び鈴を鳴らすまでの間にも、悲痛な叫び声は何度も響いた。
いっそ窓を破るべきかと考えが過ぎったとき、玄関の扉が開いた。拓実のおかあさんだった。
「敬人君」と表情をやわらげる彼女へ「失礼します」と断って中にあがる。おかあさんがいるのなら事件が起きたということではないのだろう。なにより、目が合ったときに彼女はどこか安心したような表情を見せた。
いつもの部屋に入ると、拓実は息を荒くしてこちらに背を向ける形で座り込んでいた。
「拓実」と呼ぶと、彼女はばっとこちらを振り返った。ぼろぼろとあふれる涙が頬を濡らしている。
俺のせいだ、とわかった。拓実は俺に助けを求めてくれた。それに応えられなかったために、拓実はこんなにも弱々しく、怯えるように泣いている。
あの叫び声は、俺の愚かさを嘆いたものだったのかもしれない。どうして気づいてくれないの、どうして助けてくれないのと。どうして、帰っちゃうのと。疲れたのは体じゃないのに、休んでどうにかなるものじゃないのにと。
俺は拓実の前に座った。抱えきれずにあふれる透明な感情に手を伸ばすと、ぱしんと乾いた音がした。「触らないで」と鋭い声が響いて、ようやく事態を理解した。右手の痛みが追いついてくる。
「帰って」と小さな声が泣いている。
「拓実」
「帰って」と鋭い声が静寂を切り裂く。
目の前が暗くなる。救えなかった。もう、拓実のそばにいる資格はない。拓実のそばにいるには、俺はあまりに愚かだった。いや、相手を拓実に限った話ではない。俺は人と接するには、あまりに愚かだ。
だから、求められるものを差し出すことでしか人と関われない。人手が足りないときにちょろっと顔を出すことしかできない。与えられた役割をこなすことしかできない。
人との関わりはそういうものではない。相手を思いやり、求められるより先に必要なものを見つけ、自らそれを差し出す。その能力を持っていることが、人のそばにいる資格だ。
俺はそれを持っていない。見えないものは見られない、聞こえないものは聞けない、触ることのできないものには触れない。
五感でしか接せないような浅はかさは、やがて相手を傷つける。それで済めばいい。相手の心を壊してしまう。そうしてしまえば、もはや関係の修復は叶わない。寄り添うことも許されない。そばにいてはならないのだ。
それ以上そばにいれば、相手はさらなる苦痛を味わうことになる。こちらが至らないせいで。愚か者は、自らの罪を償うこともできないのだ。それができるほどの能力がない。精々、残された人生を悔いて過ごすことくらいが、愚か者のできること。
俺にはもう、拓実のそばにいる資格はない。
「ごめんね」といった声が自責の念に震えた。
俺は何年、拓実を苦しめたのだろう。俺の気づかないところで、拓実はどれだけ苦しんでいたのだろう。俺がもっと立派だったなら、こんなことにはならなかった。
拓実はどれだけ我慢していたのだろう。それが今回、とうとう爆発したのだ。
精々、苦しめばいい。知らないでいた彼女の苦しみを、味わえばいい。残った人生のすべてをかけて、味わい尽くせばいい。
部屋を出ると、おかあさんに呼ばれた。振り返ることはできなかった。俺はこの人の娘の心を、愚かさという恐ろしい凶器で壊した。愚かさとは、ときに冷酷だ。助けを求める人を平気で無視する。
「ごめんなさい」と答えながら、なにか熱いものが頬を焼いた。