自宅の前で「ばいばい」というと、敬人は心配そうに私を見た。「ちょっと疲れたの」と答えると、「そう。ゆっくり休んでね」とやわらかく微笑む。途端に泣きそうになる。そんな優しい顔をしないで。そんな暖かい目をしないで。そんな、希望を見せないで。
私は黙って庭に入っていった。行かないでなんていわせないで。そばにいてなんていわせないで。そんな、縋りつく隙を見せないで。優しすぎる。もっと冷酷になってよ。お前には興味がないと、お前といるとうんざりすると——お前の隣は、窮屈だと。そういってほしい。
優しいままでいなくならないで。大嫌いだと突き放して。顔も見たくないと睨みつけて。二度と近づくなと、声を尖らせて。今までに一度も聞いたことのないような声を、最期まで忘れられないように深く深く突き刺して。決して抜かないで。行かないで行かないでと、本音があふれて止まらなくなるから。
そうしてくれないと、私は敬人たちの邪魔になりかねない。そんなことはしないと、したくないと強く思っているけれど、今までなにもできなかったように、今回もだめかもしれない。ちゃんとできないかもしれない。どこまでも、敬人にふさわしい人になれないかもしれない。
部屋はあまりに静かだった。誰もいない空箱。
この部屋に初めて敬人がきた日のことが思い出される。幼い頃の私たちが、透明になってそこにいる。お手玉をして遊んでいる。座卓のそばで、透明な私たちがすあまを食べている。ランドセルを放り出した私たちが、座卓に宿題を広げている。縁廊下の方に、大きくなった敬人が立っている。
頭がふわふわする。息ができない。縁廊下から、敬人が振り返る。窓の外は穏やかな光に満ちている。残酷な冷たい籠の中から、羽ばたこうとしているようだった。振り返った敬人が、悲しいほど美しく微笑む。優しく両の端を持ちあげられた唇が、短くなにかいう。声は自分のへたくそな呼吸に掻き消された。
敬人、敬人……。
彼は高いところから飛びおりるように、窓の外へ消えていった。
ひどい声が鼓膜を突き刺した。耳を塞いでも繰り返し発される。その悲鳴が自分のものであると気づくのには、かなりの時間がかかった。
体が動かない。敬人がいない。敬人が、いなくなっちゃった。追いかけたいのに、体が動かない。縛りつけられたように、足元が深い沼であるように、少しも動けない。
動かなきゃ、動かなきゃ。敬人に、会えなくなっちゃう。敬人が遠くに行っちゃう。嫌だ、嫌だ。
何度も名前を呼んだ。
敬人、敬人。嫌、怖い、助けて。
お願い、助けて——。
敬人の名前を呼ぶ合間に、悲鳴があがる。
敬人がどんどんいなくなる。宿題を広げている敬人も、すあまを食べている敬人も、お手玉で遊んでいる敬人も、みんなみんな、消えていく。いなくなる。
「敬人っ、敬人……や、嫌……」
お願い、行かないで。帰ってきて。お願いだから一人にしないで。私を見捨てないで。私のそばにいて。
「拓実」と声がした。叫ぶような母の声だった。走った直後のような心臓と呼吸の音だけが、訪れた静寂を掻き乱す。
ようやく、母の腕の中なのだとわかった。体が動かなかったのは母に抱かれていたからかもしれない。そんなに長い間、母はここにいたのか。
「拓実、どうしたの」と母がいう。
なにもいえなかった。ただどうしようもない恐怖だけがここにあった。敬人がいない。
ふと、母が腕から力を抜いた。背後で母の立ちあがる気配を感じ、やがて部屋を出ていくのを感じた。
「拓実」と敬人の声がした。思わず振り返ってしまう。敬人がいた。今すぐにでも飛びつきたい。敬人、と呼びたいのに、声が出ない。頭は我慢できないのに、体が理解して動かない。
敬人がすぐそばに座る。ひどく悲しい顔をしている。どうして敬人がそんな顔をするの?
「ごめんね」と伸びてきた彼の手を、無意識のうちに弾いていた。「触らないで」と鋭い声がうるさい。自分の声だと気づくのには、やはり時間がかかった。
どうして優しくするの。敬人が拒んでくれないのなら、私が拒むしかない。私は大丈夫だと、ちゃんと伝えないといけない。
「帰って」といった声がみっともなく震えた。「拓実」と呼んでくれる声を「帰って」と振り払う。仕方ない。邪魔をするつもりはない。ちゃんと大丈夫になるから、もう気にしないで。早く、幸せな姿を見せつけて。私を絶望させて。
「ごめんね」という敬人の声もまた、悲しげに震えていた。敬人が立ちあがる。離れていくのがわかる。呼び止めたい。待ってと引き止めたい。行かないでと叫びたい。けれどそうしてしまえば、本当に変われない。いつまでも敬人を縛りつけ、不幸にする。自分の幸せと安心しか考えず、敬人の幸せと引き換えに自分が安心するようになる。それではいけないとわかっている。
敬人には幸せになる権利がある。その権利とはなにか。彼が一人の人間であることだ。彼は家電や便利な道具ではない。私の安心と幸せのために存在するのではない。彼自身の人生を全うするために在るのだ。それを阻む権利など、誰も持ってはいない。ほかの誰もが持っていないのだから、私が持っているはずもない。
心臓がばくばくしている。へたな呼吸はしてはならない。敬人の捨てきれない優しさが、きっと彼をここへ呼び戻す。せっかく拒んだのに、次にまたそばへこられたら、私はきっと、もう彼を拒めない。絶対に、彼をここへ呼び戻してはならない。
玄関から人が出ていく音を聞いて、口を開く。勢いよく飛び込んできた空気にまた呼吸が乱れる。これで本当に、敬人を失った。その実感が様々な感情をごちゃごちゃに混ぜ込んで、涙を作る。息を乱す。
私は黙って庭に入っていった。行かないでなんていわせないで。そばにいてなんていわせないで。そんな、縋りつく隙を見せないで。優しすぎる。もっと冷酷になってよ。お前には興味がないと、お前といるとうんざりすると——お前の隣は、窮屈だと。そういってほしい。
優しいままでいなくならないで。大嫌いだと突き放して。顔も見たくないと睨みつけて。二度と近づくなと、声を尖らせて。今までに一度も聞いたことのないような声を、最期まで忘れられないように深く深く突き刺して。決して抜かないで。行かないで行かないでと、本音があふれて止まらなくなるから。
そうしてくれないと、私は敬人たちの邪魔になりかねない。そんなことはしないと、したくないと強く思っているけれど、今までなにもできなかったように、今回もだめかもしれない。ちゃんとできないかもしれない。どこまでも、敬人にふさわしい人になれないかもしれない。
部屋はあまりに静かだった。誰もいない空箱。
この部屋に初めて敬人がきた日のことが思い出される。幼い頃の私たちが、透明になってそこにいる。お手玉をして遊んでいる。座卓のそばで、透明な私たちがすあまを食べている。ランドセルを放り出した私たちが、座卓に宿題を広げている。縁廊下の方に、大きくなった敬人が立っている。
頭がふわふわする。息ができない。縁廊下から、敬人が振り返る。窓の外は穏やかな光に満ちている。残酷な冷たい籠の中から、羽ばたこうとしているようだった。振り返った敬人が、悲しいほど美しく微笑む。優しく両の端を持ちあげられた唇が、短くなにかいう。声は自分のへたくそな呼吸に掻き消された。
敬人、敬人……。
彼は高いところから飛びおりるように、窓の外へ消えていった。
ひどい声が鼓膜を突き刺した。耳を塞いでも繰り返し発される。その悲鳴が自分のものであると気づくのには、かなりの時間がかかった。
体が動かない。敬人がいない。敬人が、いなくなっちゃった。追いかけたいのに、体が動かない。縛りつけられたように、足元が深い沼であるように、少しも動けない。
動かなきゃ、動かなきゃ。敬人に、会えなくなっちゃう。敬人が遠くに行っちゃう。嫌だ、嫌だ。
何度も名前を呼んだ。
敬人、敬人。嫌、怖い、助けて。
お願い、助けて——。
敬人の名前を呼ぶ合間に、悲鳴があがる。
敬人がどんどんいなくなる。宿題を広げている敬人も、すあまを食べている敬人も、お手玉で遊んでいる敬人も、みんなみんな、消えていく。いなくなる。
「敬人っ、敬人……や、嫌……」
お願い、行かないで。帰ってきて。お願いだから一人にしないで。私を見捨てないで。私のそばにいて。
「拓実」と声がした。叫ぶような母の声だった。走った直後のような心臓と呼吸の音だけが、訪れた静寂を掻き乱す。
ようやく、母の腕の中なのだとわかった。体が動かなかったのは母に抱かれていたからかもしれない。そんなに長い間、母はここにいたのか。
「拓実、どうしたの」と母がいう。
なにもいえなかった。ただどうしようもない恐怖だけがここにあった。敬人がいない。
ふと、母が腕から力を抜いた。背後で母の立ちあがる気配を感じ、やがて部屋を出ていくのを感じた。
「拓実」と敬人の声がした。思わず振り返ってしまう。敬人がいた。今すぐにでも飛びつきたい。敬人、と呼びたいのに、声が出ない。頭は我慢できないのに、体が理解して動かない。
敬人がすぐそばに座る。ひどく悲しい顔をしている。どうして敬人がそんな顔をするの?
「ごめんね」と伸びてきた彼の手を、無意識のうちに弾いていた。「触らないで」と鋭い声がうるさい。自分の声だと気づくのには、やはり時間がかかった。
どうして優しくするの。敬人が拒んでくれないのなら、私が拒むしかない。私は大丈夫だと、ちゃんと伝えないといけない。
「帰って」といった声がみっともなく震えた。「拓実」と呼んでくれる声を「帰って」と振り払う。仕方ない。邪魔をするつもりはない。ちゃんと大丈夫になるから、もう気にしないで。早く、幸せな姿を見せつけて。私を絶望させて。
「ごめんね」という敬人の声もまた、悲しげに震えていた。敬人が立ちあがる。離れていくのがわかる。呼び止めたい。待ってと引き止めたい。行かないでと叫びたい。けれどそうしてしまえば、本当に変われない。いつまでも敬人を縛りつけ、不幸にする。自分の幸せと安心しか考えず、敬人の幸せと引き換えに自分が安心するようになる。それではいけないとわかっている。
敬人には幸せになる権利がある。その権利とはなにか。彼が一人の人間であることだ。彼は家電や便利な道具ではない。私の安心と幸せのために存在するのではない。彼自身の人生を全うするために在るのだ。それを阻む権利など、誰も持ってはいない。ほかの誰もが持っていないのだから、私が持っているはずもない。
心臓がばくばくしている。へたな呼吸はしてはならない。敬人の捨てきれない優しさが、きっと彼をここへ呼び戻す。せっかく拒んだのに、次にまたそばへこられたら、私はきっと、もう彼を拒めない。絶対に、彼をここへ呼び戻してはならない。
玄関から人が出ていく音を聞いて、口を開く。勢いよく飛び込んできた空気にまた呼吸が乱れる。これで本当に、敬人を失った。その実感が様々な感情をごちゃごちゃに混ぜ込んで、涙を作る。息を乱す。