その数日後だった。日直の仕事を済ませて、トイレに行くので敬人を先に昇降口へ向かわせた。
昇降口は、もう波が去ったのかがらんとしていた。だから、聞こえたのだ。「さ、」という語尾だった。あのさ、とでもいったのかもしれない。女子の声だった。
「付き合ってくれないかな」とその声はいった。勇気があっていいな、と、羨むような、その申し出の実を結ぶことを願うような、こちらまでどきどきしながら相手の返答を待ってみた。
どの辺りにいるのかわからないけれど、その人たちのいなくなるのを待ってから外に出ようと思った。
女子がどれだけ頑張って勇気を出したかわからないけれど、その邪魔をしたくなかった。それならば遠回りでもしてこの始終を盗み聞きするようなことを避けた方がより彼女のためなのだろうけれど、恋愛というものには私だって人並み以上に興味がある。
結果がどうであれ彼女を蔑むつもりはないし、このことを人に喋って回るような趣味もない。
「いいよ」と答えた男子の声には聞き覚えがあった。いや、聞き慣れた声だった。
「本当?」と女子の声が弾む。「いいの?」と。
「もちろん」と男子は感じよく答える。
「尊藤君」と女子の声が男子を呼んで、目の前が真っ暗になった。立っている廊下が抜けたような感覚だった。心臓がばくばくいっている。壁に凭れて口に両手を当てようにも、その手は激しく震えていた。
遠くから、「全然問題ないよ」と、敬人の声が籠って聞こえた。
とうとう、敬人がいなくなってしまう。一人ぼっちになる。やはり、敬人は私という重荷を置く機会を、その術を探していた。私は敬人を縛りつけていた。
部屋に呼ぶたび、縋るような気持ちで抱きつくたび、私は彼を不幸にしていた。自分の安心と引き換えに、敬人を束縛し、あの優しい心に外の世界への憧れを募らせた。
もう、五年以上だ。五年以上、私は敬人を縛りつけていた。それはもう、逃げ出したいことだろう。自由にもなりたいだろう。
敬人の目を、覆ってしまいたい。だめだよ、そっちに行っちゃだめだよと。でも、違う。それこそ、だめなことだ。敬人が幸せになりたがっているのだ。敬人が彼女を受け入れたのだ。敬人が、それを望んだのだ。望んでいるのだ。否定してはならない。
私と一緒にいては、敬人が壊れてしまうかもしれない。私より、彼女の方がじょうずに敬人を大切にできるに違いない。
だめだ、だめだ、引き留めてはだめだ。縋ってはいけない、求めてはいけない。そうしてしまうくらいなら、二度と、彼の名前を呼んではいけない。
自らの負けを認め、大好きな人の幸せを願えてこそ、ちゃんとした人ではないか。最後くらい、敬人に対してちゃんとしてやらないか。今までなにもできなかったではないか。
彼にしたことはたくさんある。けれども、そのうちの幾つが彼のためになっただろう。一つ、二つ。いや、一つあれば喜ばしいことだ。実際には一つもありはしないだろう。
だから、ちゃんと身を引いて、ちゃんと幸せを願って、二度と縋ったりしないと誓って、最後くらいそうやって、ためになることをしてあげないといけない。今までありがとうと心の中でいって、送り出さなくてはならない。
私に選択肢などない。黙ってそばを離れることだけだ。百歩譲って、今までのお礼を伝えることが許されるかどうかといったところだ。本当なら、その時間さえ、彼から奪うことは許されない。
彼はもはや、私のそばにいていいような人ではないのだ。よくも今までそばにいてくれたものだと、感謝しなくてはならない。
昇降口は、もう波が去ったのかがらんとしていた。だから、聞こえたのだ。「さ、」という語尾だった。あのさ、とでもいったのかもしれない。女子の声だった。
「付き合ってくれないかな」とその声はいった。勇気があっていいな、と、羨むような、その申し出の実を結ぶことを願うような、こちらまでどきどきしながら相手の返答を待ってみた。
どの辺りにいるのかわからないけれど、その人たちのいなくなるのを待ってから外に出ようと思った。
女子がどれだけ頑張って勇気を出したかわからないけれど、その邪魔をしたくなかった。それならば遠回りでもしてこの始終を盗み聞きするようなことを避けた方がより彼女のためなのだろうけれど、恋愛というものには私だって人並み以上に興味がある。
結果がどうであれ彼女を蔑むつもりはないし、このことを人に喋って回るような趣味もない。
「いいよ」と答えた男子の声には聞き覚えがあった。いや、聞き慣れた声だった。
「本当?」と女子の声が弾む。「いいの?」と。
「もちろん」と男子は感じよく答える。
「尊藤君」と女子の声が男子を呼んで、目の前が真っ暗になった。立っている廊下が抜けたような感覚だった。心臓がばくばくいっている。壁に凭れて口に両手を当てようにも、その手は激しく震えていた。
遠くから、「全然問題ないよ」と、敬人の声が籠って聞こえた。
とうとう、敬人がいなくなってしまう。一人ぼっちになる。やはり、敬人は私という重荷を置く機会を、その術を探していた。私は敬人を縛りつけていた。
部屋に呼ぶたび、縋るような気持ちで抱きつくたび、私は彼を不幸にしていた。自分の安心と引き換えに、敬人を束縛し、あの優しい心に外の世界への憧れを募らせた。
もう、五年以上だ。五年以上、私は敬人を縛りつけていた。それはもう、逃げ出したいことだろう。自由にもなりたいだろう。
敬人の目を、覆ってしまいたい。だめだよ、そっちに行っちゃだめだよと。でも、違う。それこそ、だめなことだ。敬人が幸せになりたがっているのだ。敬人が彼女を受け入れたのだ。敬人が、それを望んだのだ。望んでいるのだ。否定してはならない。
私と一緒にいては、敬人が壊れてしまうかもしれない。私より、彼女の方がじょうずに敬人を大切にできるに違いない。
だめだ、だめだ、引き留めてはだめだ。縋ってはいけない、求めてはいけない。そうしてしまうくらいなら、二度と、彼の名前を呼んではいけない。
自らの負けを認め、大好きな人の幸せを願えてこそ、ちゃんとした人ではないか。最後くらい、敬人に対してちゃんとしてやらないか。今までなにもできなかったではないか。
彼にしたことはたくさんある。けれども、そのうちの幾つが彼のためになっただろう。一つ、二つ。いや、一つあれば喜ばしいことだ。実際には一つもありはしないだろう。
だから、ちゃんと身を引いて、ちゃんと幸せを願って、二度と縋ったりしないと誓って、最後くらいそうやって、ためになることをしてあげないといけない。今までありがとうと心の中でいって、送り出さなくてはならない。
私に選択肢などない。黙ってそばを離れることだけだ。百歩譲って、今までのお礼を伝えることが許されるかどうかといったところだ。本当なら、その時間さえ、彼から奪うことは許されない。
彼はもはや、私のそばにいていいような人ではないのだ。よくも今までそばにいてくれたものだと、感謝しなくてはならない。