母と書店に出かけたある日、初めて自分の手で本というものに触れ、ページを開いた。母が居間で読んでいるのはよく見ていたけれども、自分で触ったり動かしたりするのは初めてだった。家にあるのは母か父のものだったから、なんとなく自分は触ってはいけないと思っていた。

それでも興味というのは勝手に湧いてくるもので、いつもは母のそばを離れないものの、その日は一人で店の中を歩き回った。

周りのものをあまり触ってはいけないといわれていたから、こっそり中を見てみようと思ったのだ。いくらなんでも丁寧に開いてみるくらいでは破れたりしないだろうとも思った。

手に取ってみたその一冊の中には、細かい文字がたくさん並んでいた。複雑な記号のようなものも紛れていた。その記号を漢字と呼ぶことは少しあとになってから知った。

ひらがなと違って一文字一文字が意味を持っているというのに魅力を感じた。なににでもなれるひらがなとは違う魅力。

 「なにかあった?」と声をかけられ、ぎくりとした。恐々振り返ってみたけれど、母は怒ってはいなかった。怒るどころか「欲しいものがあったら買ってあげるよ」とまでいってくれた。

「でも、拓実の読むようなのはあっちの方じゃないかな」と穏やかに笑う母に連れられ、児童書や絵本の売り場へ行った。

 自分でも読める文章に出会って、ああそういうことかとわかった。これはお手紙だ。私でも母でもない人の、声にはされなかった出来事たちが、この中に映し出され、残っているのだ。わかった途端にわくわくした。どれもこれも欲しくなった。

 飛び跳ねたくなるような興奮の中、「全部欲しい」というと、母は「うーん」と少し困ったように笑った。「全部はお母さん、買えないかなあ」と。「三冊、三つくらいにしよう」といって、三本の指を立てた。

 欲求は、感じるものとは別のところにあるらしい。欲求に任せて三冊の絵本を買ってもらったけれど、なかなか次の絵本へ進めなかった。初めて読んだ一冊が大好きになった。寝る前のお喋りがいらなくなった。

寝る前に、母にその絵本を読んでもらった。今日の出来事より、その一冊に出会えたことの確認が嬉しくて楽しかった。

何度でも聞きたくなる音の連なりだった。何度でも読みたくなる言葉の繋がりだった。何度でも見たくなる色彩の遊びだった。