ホームルームのあと、俺は担任を追って教室を出た。「藤村先生」と呼ぶと、彼は足を止めて振り向いた。「ああ、尊藤」と穏やかな声を発す。

 「今日の昼休み、ちょっといいですか」と申し出ると、彼は「いいよ」と快く受け入れてくれた。「今日も日替わり定食か?」といわれたけれど深い意味はなさそうなので「安いので」と笑っておく。


 昼食後、扉を三度叩いて引いた。「誘うだけ誘われて放置されたらどうしようかと思ったよ」という担任に「なにいってるんですか」と苦笑しながら扉を閉める。

 席に着きながら、「食堂のお茶ってうまいよな」といわれたので「埃みたいなの浮いてますよね」と答える。あれはおいしいお茶の証なのだとなにかで知った。

 「どうしたのかな」といわれ、「峰野さんの入院先を教えてください」と単刀直入に申し出た。

 担任は一つ頷くと「すぐそこの総合病院だよ」となんでもないように答えた。「尊藤は峰野と親しいのか?」

 かさぶたが引っかかったような痛みに黙り込んでしまってから、「親し、かったんです」と答える。

 「幼稚園の頃から一緒ですけど、今では先生に見えている通りです。話もしない、目を合わせることもほとんどない。でも喧嘩をしたわけでもない。変わっちゃったんです、俺も峰野さんも」

それを、受け入れたつもりでいた。それなのに、今、どうしようもなく拓実に会いたい。そばにいてはまた傷つけるとわかっているから、もう距離を取り戻そうとは考えていなかったのに、今になって、だ。

 「でも、俺はまだ峰野さんのことが気になるんです。怪我をしたなんて聞けば尚更です。……みんなが話してることですが、……本当ですか」

 担任の表情が、一瞬、変わった。あまりにも短い時間だったので、どのように変わったのかは感じ取れなかった。

 「本当、と聞いている」

 「とは、どういうことですか」

 担任は机の上で手を組み、何度か頷く。なにかを決心しているような様子だ。右手親指の黒い部分が、先日よりも少し小さくなっている。

 「峰野は自分で自分を傷つけた、それで入院したと。その直前に尊藤とトラブルがあったようだと鴇田から聞いたものだから、一昨日、尊藤と話をさせてもらった」

 「……そうですか」拓実になにがあったのか。明るい笑顔が蘇る。やはり俺が原因なのだろうか。

それなら、お菊には今日会ってこいと言われたけれども、そうしない方が拓実のためになるのではないか。俺がそばにいれば、やはり拓実はさらに苦しむことになるのではないか。

 「峰野がなにを思ってたのか、俺は知らない。なにか感じていたはずなのに気づけなかったんだ。声をかけてやることも相談に乗ってやることもできなかった」担任は机の上で、自らの両手をぎゅっと握った。爪の先が白くなっている。

 気づけなかった——。まあそうでしょうねとも思う。俺と鴇田の接触も把握していないのだから。本当に、話さえすれば真っ直ぐで悪い人ではないのだけれど、どうも鈍感なのだ。自分を見ているようで不安になる。

 しばらく考えてから、俺はそっと息を吸い込んだ。

 「俺は今日、峰野さんがそうした理由を聞きます」

 「そんなことしなくていい」

 「俺のためです。俺が知りたいんです。峰野さんがなにを思ってそうしたのか、なにを感じていたのか」

 ふと、担任の爪に血色が戻った。

 「この件に尊藤の名前が出たのは鴇田の勘違いだったと、昨日、本人から聞いた」

 「勘違い?」と聞き返しながら笑いを噛み殺す。ここで笑っても怒っても、担任への八つ当たりにしかならない。

 「鴇田は峰野と尊藤が親しくしている頃を知っているそうだ。峰野が自分を傷つけるような危うさを感じさせたとき、ほかに原因が思い当たらず、尊藤となにかあったんじゃないかと考えたんだと。とても反省していたよ」

 昨日の鴇田の涙が思い出される。「そうですか」と答えるほかない。お菊の、鴇田を根は純朴な少女だと評する声も蘇る。

 大好きと大嫌いは同じときに同じ場所に在れる——。ああそうかよと内心苦笑する。今まで散々罵声を浴びせ、安っぽくも強力な言葉を俺のノートに殴りつけ、ときには平手や拳を飛ばしてきたくせに、そこに大好きが一緒に在ったと。

よくわからないけれどもあの女は人を好きにならない方がいい。鈍感で冷酷な愚か者である俺と同じように。形は違えど、あの女も人を傷つける。あれが大嫌いのためでなく、愛情表現なんかであったら尚更だ。

 「本当に、怖い人ですね」

 「怖い?」

 俺は思わず笑ってしまう。「ええ、鴇田さんは恐ろしい人です」