春休みが終わって、今日は始業式。
校庭の桜が春の始まりを告げるかのように花開き、生徒たちを出迎えた。
体育館では、続々と生徒たちが押し寄せて、誰が声をかけるわけでもないのに、列を作って並んでいく。
「ちょーラッキー!速水センパイ見える!」
「尊い!後姿すら尊い!」
きゃっきゃっと女子たちの囁き声がそこかしこから聞こえてきた。
その視線の的となるのは、速水千歳センパイ。
この学校で知らない人はいないんじゃないか、というくらいの有名人だ。
色素の薄い茶色の髪に、白い肌、長いまつ毛、スラリとした肢体、文句のつけようがない整った顔は、中性的な美しさをまとっている。
いつもどことなくやる気のなさそうなその表情がまた独特な雰囲気となって見る人を惹きつけているのかもしれない。
特進クラスの3年1組に在籍していて、成績もトップクラス。部活こそやっていないものの、何をやらせても卒なくこなすその姿は、まさに非の打ち所がなかった。
そんな速水センパイを一目でも見ようと、全校生徒の集まる始業式で女子たちは浮足立っていた。
(早く終わらないかな…)
胸をときめかせる女子たちとは反対に、私は体育館の床を見つめていた。
人混みは苦手だし、なにしろ、両側を男子に挟まれたこの状況がいたたまれない。
真っ黒な詰襟を着た男子がまるでそびえる壁のようで、圧迫感が苦手だった。
校長先生の話から始まって、国歌斉唱、新任教師の紹介と進められる中、私はずっと俯いて時が過ぎるのをただ待っていた。
友達は、居ない。
休み時間は、本を読んで、昼ごはんは一人で食べる。
1年の時と同じ毎日がまた始まった。
私は、今日も息をひそめて一日を終えるだけ。
始業式から早1週間。
特進クラスの1組は各学年1クラスのためほとんどメンバーの入れ替わりがない。成績が落ちて普通クラスに行く人が数名。それを埋めるように普通クラスから成績の良い人が入ってくる程度。
見慣れた顔ばかりのクラスに安心感を覚えつつ、今日も私は無言で教室のドアをくぐり、自分の席に着いた。
荷物を整理してから、私は本を開く。電車の中で読んだ続きが気になって仕方なかった。
(あー、この時間が一番幸せ)
本は、もう一人の私の世界。
本を読んでいる時だけは、私は私じゃなくなって、本の世界を旅する主人公になれた。
周りの目も雑音も気にならないくらい、没頭できる特別な時間だった。
「はい、じゃぁ、34ページ開いてー。出席番号10番は、岸野か。1ページ読んで」
(34ページ…)
現国の授業が始まったと思ったらいきなりさされて慌ててしまった。
急いで開いて、読み始める。
「と、突然の出来事に、おど、ろいた早坂は…」
「おい、岸野、ちゃんと見えてんのか?そんな前髪して、のれんみたいだぞ」
先生の言葉にクラスがどっとわいた。
「す、すみません」
私は、恥ずかしくなりながら、何とか1ページを読み終えた。
「のれんみたい」と言われた前髪は、私の目を隠すくらいまで厚く伸びていて、まさしくのれんのように私の顔を隠してくれている。少し俯けば、肩で切りそろえた髪が横顔を隠して、世界から私を隔離してくれた。
俯いていれば、周りから見られることも、こちらから見えることも無くなる。
この髪は、私にとってシェルターのようなものだった。
ーーーーキーンコーン・・・
4時間目が終わり、それぞれがグループを作って昼食の時間が始まる。
私は、購買へと急いだ。
公立のこの高校は、食堂とかそういうものはなく、近所のパン屋が昼に販売しにくるだけで昼は激込みで、この日もすでに列が出来ていて私も並ぶ。
(コンビニで買ってくれば良かった…)
がやがやとにぎやかな空間は苦痛でしかない。
「あれ、速水が購買くるのめずらしーじゃん」
列の前から歩いてきた3年生の声に、びくっとする。
なぜなら、私のすぐ横で止まったから。
(え、速水ってまさか…)
「寝坊した」
すぐ後ろで響いた声に、心臓が飛び跳ねた。
あの速水センパイだ。
どうしよう、すぐ後ろにいる。
「あはは、寝坊とか速水でもあるんだ」
今の今まで気づかなかったけど、周りの女子たちがきゃぴきゃぴ騒いでいた。
話しかけた3年生は「じゃーな」と去っていく。
どうしよう。背中が…。
もちろん振り返ることなど私には出来ない。
(早く買って、図書室に行こう)
まだかまだかと待っていると、買い終わった男子二人がふざけながら歩いてきて、私にぶつかった。
例のごとく下を向いていた私は気づけなくて、衝撃で体が後ろによろけてしまう。
「わっ」
「っと」
背中に当たった何か。両腕を支えてくれた何か。
その何かは、見なくてもわかってて…。
「すみません!」
急いで体を起こしてその何かから離れようとして、今度は足がもつれてその場に尻もちをついてしまった。
「ったた…」
「大丈夫かよ、って、アンタ…」
声の近さに驚いて、顔を上げたら、そこにはやっぱりあの速水センパイがいた。
うわ、本物…!
彼はめんどくさそうな表情で少しかがむと、あろうことか私の腕を掴んだのだった。
「ひっ、自分で立てます」
あまりに突然の出来事に気が動転して、気づいたらその手を振り払って私は走り出していた。
「はぁっ、はぁ…、び、びっくりした…」
こんなに全力で走ったのは初めてかもしれない。
長距離走の時のように、喉がぜぇぜぇして苦しかった。
私は、職員室のドアの前でどうにか息を整え、心を落ち着かせてから職員室の扉をノックして開く。
「失礼します」
近くにいた先生に一言声をかけてから、後ろの壁に並ぶ鍵の中から見慣れた図書室のカギを取って、私は図書室へ向かった。
図書室は、本校舎の隣の特別校舎の2階にある。
図書委員をしている私は、毎日昼休みの受付係を担い、昼休みはずっと図書室で過ごしていた。
鍵を開けて入ると、古書独特の嗅ぎなれた匂いが出迎えてくれる。
(やっぱりここは落ち着く)
まだ肌寒さの残る4月の半ば、朝から誰も使っていないここはとてもひんやりとしていた。
私はカウンターに座ると、PCを立ち上げてワゴンに残っている本にざっと目を通した。
(あ、この作者の本…)
今私が読んでいるのと同じ作者の本が目に入った。
もしかしてと思い、立ち上がったばかりのPCを操作して昨日の返却履歴を開く。
「やっぱり」
そこに映った名前を見て、さっきの出来事がもう一度頭の中でリプレイされた。
「綺麗な顔だったな、速水センパイ」
そういえば、腕を掴まれたのだった。
なんとなく掴まれた自分の腕を見て、思わず赤面してしまう。
せっかく起こしてくれようとしたのに、それを振り払って逃げてくるなんて、失礼なやつだと思われたに違いない。
「仕事しよ、仕事」
ワゴンに残された本は、昨日返却されたもので、それを元の場所に返すのも図書委員の仕事。私は本の作者をあいうえお順に並べ替えてからワゴンを押して本棚の方へと向かった。
お腹がぐぅと音を立てたけれども、どうすることもできなかった。
購買に戻る気にもなれないし、今日は空腹のまま過ごすしかなさそう。
午後の授業中にお腹が鳴らないことだけを祈るのみ。
一冊一冊、元の場所へと返し終えたら、昼休みが終わるまでカウンターに座って読書をする平穏な時を過ごす。
はずだったのに。
ーーーガラッ
乱暴に開けられたドアの音にびくっとなり、顔を向けるとそこには、なんとさっきぶつかって逃げてきた速水センパイが居た。
(な、んで)
センパイは、後ろ手でドアを閉めるとこちらを向いた。
ばっちりと目が合う。
向こうは私を一瞥すると、こちらへ早足で駆けてきた。その表情はやぱり気だるそうで何を考えているのか、少しも読み取れない。
「かくまって」
「え?」
ちょうどドアと対面しているカウンターを回り込んで中に入ると、座っている私の後ろを通り一番奥にしゃがみこんだ。
呆然と見ている私。
センパイは、そんな私の方を向くと、人差し指を口にあてて「しー」と言った。
その仕草が、なんとも色っぽくて私は胸を鷲づかみされてしまう。
また心臓がドクドクと早鐘を打っている。
赤い顔を隠すように私は前に向き直り再び本に視線を落とした。
本の内容など入ってくるはずもなく、目で文字を追うだけだった。
ーーーーガラッ
またしても乱暴に開けられたドア。
「ねぇ、速水見なかった?」
顔を出したのは、ウェーブのかかった長い茶髪が印象的な綺麗な女の人。
答えに詰まる私に、急いでいるような彼女は「速水千歳のこと」と付け足す。
「あ、…」
とっさに声がうまく出なくて、首を横に振ると、
「そ、お邪魔しましたー」
と、彼女は興味なさげにドアを閉めてどこかに行ってしまった。かくまって、と言われたものの、嘘をついてしまったことにほんの少し申し訳ない気持ちになった。
「はぁーーーー」
足音が聞こえなくなってから私は長いため息を吐いた。
(緊張した…って、まだ居るんだった)
私は、どうしたらいいのかわからなくて、本から視線を動かせずにいる。
いつもなら心地よいはずの、図書室の静寂が今は気まずい…。
窓の外からは、男子生徒がサッカーをしているのか、声が聞こえてくるだけで、それ以外は、とても静かだった。
なんて思っていたら、カサカサとビニール袋の音が聞こえてきて、横を見れば、速水センパイが隠れたままパンをかじりだしていた。
(…嘘でしょ、ここで食べる気?)
センパイと私の距離はパイプ椅子一個分くらい。
「あ、あの、床じゃ汚れるので、ここ座ってください」
私は、いたたまれなくなって椅子から立ち上がり、本棚の方に向かった。
カウンターが見えない奥の方。
私は何をするでもなく、本棚に寄りかかった。
息がうまくできない。
速水センパイは、1年生の頃からずっと気になっていた人だった。
それは、好きとかそういうのではなく、センパイの読む本が私の好みとドンピシャだったというだけの話。
1年の時から昼の受付だった私は、返却用ワゴンにある本の中から気になる本があると、誰が借りたのだろう、と気になってこっそり履歴を見るのが習慣になっていた。
そうしている内に、たびたび同じ名前が出てきたその人こそ、速水千歳センパイだった。
あの速水センパイが図書室から本を借りるというのも意外だったし、更に自分と好みが似ているというのも不思議な感じで…。
なんとなく、それから気になっていたのだ。
私がすでに読んだ本もあれば、まだの本もあって。
そういう時はそのまま私が借りたりすることも。
あんな、雲の上のような存在の人と1日に2度も遭遇するなんて、底辺の私にはハイレベルなイベント過ぎる。
どのくらい経っただろうか、ドアが開いて閉まる音がした後少ししてからそーっとカウンターに戻ると、そこに速水センパイの姿はもう無かった。
ただ、カウンターの上にさっきまで無かったものがぽつんと佇んでいるのを見つける。
『かくまってくれたお礼』
図書の返却期限日を書く紙の裏を使ってかかれたメモ。
そのメモと一緒にメロンパンがひとつ置かれていた。
慌てて追いかけようと廊下に出たけれど、もうセンパイの姿は無くて、とてもじゃないけど教室に行って返す勇気もなく…。
図書室に戻り、私はありがたくメロンパンを頬張った。
なんて、優しいんだろう。
私が今日、購買に並んでいたのに買わずに逃げ出したからと恵んでくれたんだろう。
かっこよくて、頭もよくて何でもできて、優しいなんて、神様は不公平なことをなさる。
「字まで綺麗なんて…反則すぎ」
この直筆メモは捨てられないかもしれない。
校庭の桜が春の始まりを告げるかのように花開き、生徒たちを出迎えた。
体育館では、続々と生徒たちが押し寄せて、誰が声をかけるわけでもないのに、列を作って並んでいく。
「ちょーラッキー!速水センパイ見える!」
「尊い!後姿すら尊い!」
きゃっきゃっと女子たちの囁き声がそこかしこから聞こえてきた。
その視線の的となるのは、速水千歳センパイ。
この学校で知らない人はいないんじゃないか、というくらいの有名人だ。
色素の薄い茶色の髪に、白い肌、長いまつ毛、スラリとした肢体、文句のつけようがない整った顔は、中性的な美しさをまとっている。
いつもどことなくやる気のなさそうなその表情がまた独特な雰囲気となって見る人を惹きつけているのかもしれない。
特進クラスの3年1組に在籍していて、成績もトップクラス。部活こそやっていないものの、何をやらせても卒なくこなすその姿は、まさに非の打ち所がなかった。
そんな速水センパイを一目でも見ようと、全校生徒の集まる始業式で女子たちは浮足立っていた。
(早く終わらないかな…)
胸をときめかせる女子たちとは反対に、私は体育館の床を見つめていた。
人混みは苦手だし、なにしろ、両側を男子に挟まれたこの状況がいたたまれない。
真っ黒な詰襟を着た男子がまるでそびえる壁のようで、圧迫感が苦手だった。
校長先生の話から始まって、国歌斉唱、新任教師の紹介と進められる中、私はずっと俯いて時が過ぎるのをただ待っていた。
友達は、居ない。
休み時間は、本を読んで、昼ごはんは一人で食べる。
1年の時と同じ毎日がまた始まった。
私は、今日も息をひそめて一日を終えるだけ。
始業式から早1週間。
特進クラスの1組は各学年1クラスのためほとんどメンバーの入れ替わりがない。成績が落ちて普通クラスに行く人が数名。それを埋めるように普通クラスから成績の良い人が入ってくる程度。
見慣れた顔ばかりのクラスに安心感を覚えつつ、今日も私は無言で教室のドアをくぐり、自分の席に着いた。
荷物を整理してから、私は本を開く。電車の中で読んだ続きが気になって仕方なかった。
(あー、この時間が一番幸せ)
本は、もう一人の私の世界。
本を読んでいる時だけは、私は私じゃなくなって、本の世界を旅する主人公になれた。
周りの目も雑音も気にならないくらい、没頭できる特別な時間だった。
「はい、じゃぁ、34ページ開いてー。出席番号10番は、岸野か。1ページ読んで」
(34ページ…)
現国の授業が始まったと思ったらいきなりさされて慌ててしまった。
急いで開いて、読み始める。
「と、突然の出来事に、おど、ろいた早坂は…」
「おい、岸野、ちゃんと見えてんのか?そんな前髪して、のれんみたいだぞ」
先生の言葉にクラスがどっとわいた。
「す、すみません」
私は、恥ずかしくなりながら、何とか1ページを読み終えた。
「のれんみたい」と言われた前髪は、私の目を隠すくらいまで厚く伸びていて、まさしくのれんのように私の顔を隠してくれている。少し俯けば、肩で切りそろえた髪が横顔を隠して、世界から私を隔離してくれた。
俯いていれば、周りから見られることも、こちらから見えることも無くなる。
この髪は、私にとってシェルターのようなものだった。
ーーーーキーンコーン・・・
4時間目が終わり、それぞれがグループを作って昼食の時間が始まる。
私は、購買へと急いだ。
公立のこの高校は、食堂とかそういうものはなく、近所のパン屋が昼に販売しにくるだけで昼は激込みで、この日もすでに列が出来ていて私も並ぶ。
(コンビニで買ってくれば良かった…)
がやがやとにぎやかな空間は苦痛でしかない。
「あれ、速水が購買くるのめずらしーじゃん」
列の前から歩いてきた3年生の声に、びくっとする。
なぜなら、私のすぐ横で止まったから。
(え、速水ってまさか…)
「寝坊した」
すぐ後ろで響いた声に、心臓が飛び跳ねた。
あの速水センパイだ。
どうしよう、すぐ後ろにいる。
「あはは、寝坊とか速水でもあるんだ」
今の今まで気づかなかったけど、周りの女子たちがきゃぴきゃぴ騒いでいた。
話しかけた3年生は「じゃーな」と去っていく。
どうしよう。背中が…。
もちろん振り返ることなど私には出来ない。
(早く買って、図書室に行こう)
まだかまだかと待っていると、買い終わった男子二人がふざけながら歩いてきて、私にぶつかった。
例のごとく下を向いていた私は気づけなくて、衝撃で体が後ろによろけてしまう。
「わっ」
「っと」
背中に当たった何か。両腕を支えてくれた何か。
その何かは、見なくてもわかってて…。
「すみません!」
急いで体を起こしてその何かから離れようとして、今度は足がもつれてその場に尻もちをついてしまった。
「ったた…」
「大丈夫かよ、って、アンタ…」
声の近さに驚いて、顔を上げたら、そこにはやっぱりあの速水センパイがいた。
うわ、本物…!
彼はめんどくさそうな表情で少しかがむと、あろうことか私の腕を掴んだのだった。
「ひっ、自分で立てます」
あまりに突然の出来事に気が動転して、気づいたらその手を振り払って私は走り出していた。
「はぁっ、はぁ…、び、びっくりした…」
こんなに全力で走ったのは初めてかもしれない。
長距離走の時のように、喉がぜぇぜぇして苦しかった。
私は、職員室のドアの前でどうにか息を整え、心を落ち着かせてから職員室の扉をノックして開く。
「失礼します」
近くにいた先生に一言声をかけてから、後ろの壁に並ぶ鍵の中から見慣れた図書室のカギを取って、私は図書室へ向かった。
図書室は、本校舎の隣の特別校舎の2階にある。
図書委員をしている私は、毎日昼休みの受付係を担い、昼休みはずっと図書室で過ごしていた。
鍵を開けて入ると、古書独特の嗅ぎなれた匂いが出迎えてくれる。
(やっぱりここは落ち着く)
まだ肌寒さの残る4月の半ば、朝から誰も使っていないここはとてもひんやりとしていた。
私はカウンターに座ると、PCを立ち上げてワゴンに残っている本にざっと目を通した。
(あ、この作者の本…)
今私が読んでいるのと同じ作者の本が目に入った。
もしかしてと思い、立ち上がったばかりのPCを操作して昨日の返却履歴を開く。
「やっぱり」
そこに映った名前を見て、さっきの出来事がもう一度頭の中でリプレイされた。
「綺麗な顔だったな、速水センパイ」
そういえば、腕を掴まれたのだった。
なんとなく掴まれた自分の腕を見て、思わず赤面してしまう。
せっかく起こしてくれようとしたのに、それを振り払って逃げてくるなんて、失礼なやつだと思われたに違いない。
「仕事しよ、仕事」
ワゴンに残された本は、昨日返却されたもので、それを元の場所に返すのも図書委員の仕事。私は本の作者をあいうえお順に並べ替えてからワゴンを押して本棚の方へと向かった。
お腹がぐぅと音を立てたけれども、どうすることもできなかった。
購買に戻る気にもなれないし、今日は空腹のまま過ごすしかなさそう。
午後の授業中にお腹が鳴らないことだけを祈るのみ。
一冊一冊、元の場所へと返し終えたら、昼休みが終わるまでカウンターに座って読書をする平穏な時を過ごす。
はずだったのに。
ーーーガラッ
乱暴に開けられたドアの音にびくっとなり、顔を向けるとそこには、なんとさっきぶつかって逃げてきた速水センパイが居た。
(な、んで)
センパイは、後ろ手でドアを閉めるとこちらを向いた。
ばっちりと目が合う。
向こうは私を一瞥すると、こちらへ早足で駆けてきた。その表情はやぱり気だるそうで何を考えているのか、少しも読み取れない。
「かくまって」
「え?」
ちょうどドアと対面しているカウンターを回り込んで中に入ると、座っている私の後ろを通り一番奥にしゃがみこんだ。
呆然と見ている私。
センパイは、そんな私の方を向くと、人差し指を口にあてて「しー」と言った。
その仕草が、なんとも色っぽくて私は胸を鷲づかみされてしまう。
また心臓がドクドクと早鐘を打っている。
赤い顔を隠すように私は前に向き直り再び本に視線を落とした。
本の内容など入ってくるはずもなく、目で文字を追うだけだった。
ーーーーガラッ
またしても乱暴に開けられたドア。
「ねぇ、速水見なかった?」
顔を出したのは、ウェーブのかかった長い茶髪が印象的な綺麗な女の人。
答えに詰まる私に、急いでいるような彼女は「速水千歳のこと」と付け足す。
「あ、…」
とっさに声がうまく出なくて、首を横に振ると、
「そ、お邪魔しましたー」
と、彼女は興味なさげにドアを閉めてどこかに行ってしまった。かくまって、と言われたものの、嘘をついてしまったことにほんの少し申し訳ない気持ちになった。
「はぁーーーー」
足音が聞こえなくなってから私は長いため息を吐いた。
(緊張した…って、まだ居るんだった)
私は、どうしたらいいのかわからなくて、本から視線を動かせずにいる。
いつもなら心地よいはずの、図書室の静寂が今は気まずい…。
窓の外からは、男子生徒がサッカーをしているのか、声が聞こえてくるだけで、それ以外は、とても静かだった。
なんて思っていたら、カサカサとビニール袋の音が聞こえてきて、横を見れば、速水センパイが隠れたままパンをかじりだしていた。
(…嘘でしょ、ここで食べる気?)
センパイと私の距離はパイプ椅子一個分くらい。
「あ、あの、床じゃ汚れるので、ここ座ってください」
私は、いたたまれなくなって椅子から立ち上がり、本棚の方に向かった。
カウンターが見えない奥の方。
私は何をするでもなく、本棚に寄りかかった。
息がうまくできない。
速水センパイは、1年生の頃からずっと気になっていた人だった。
それは、好きとかそういうのではなく、センパイの読む本が私の好みとドンピシャだったというだけの話。
1年の時から昼の受付だった私は、返却用ワゴンにある本の中から気になる本があると、誰が借りたのだろう、と気になってこっそり履歴を見るのが習慣になっていた。
そうしている内に、たびたび同じ名前が出てきたその人こそ、速水千歳センパイだった。
あの速水センパイが図書室から本を借りるというのも意外だったし、更に自分と好みが似ているというのも不思議な感じで…。
なんとなく、それから気になっていたのだ。
私がすでに読んだ本もあれば、まだの本もあって。
そういう時はそのまま私が借りたりすることも。
あんな、雲の上のような存在の人と1日に2度も遭遇するなんて、底辺の私にはハイレベルなイベント過ぎる。
どのくらい経っただろうか、ドアが開いて閉まる音がした後少ししてからそーっとカウンターに戻ると、そこに速水センパイの姿はもう無かった。
ただ、カウンターの上にさっきまで無かったものがぽつんと佇んでいるのを見つける。
『かくまってくれたお礼』
図書の返却期限日を書く紙の裏を使ってかかれたメモ。
そのメモと一緒にメロンパンがひとつ置かれていた。
慌てて追いかけようと廊下に出たけれど、もうセンパイの姿は無くて、とてもじゃないけど教室に行って返す勇気もなく…。
図書室に戻り、私はありがたくメロンパンを頬張った。
なんて、優しいんだろう。
私が今日、購買に並んでいたのに買わずに逃げ出したからと恵んでくれたんだろう。
かっこよくて、頭もよくて何でもできて、優しいなんて、神様は不公平なことをなさる。
「字まで綺麗なんて…反則すぎ」
この直筆メモは捨てられないかもしれない。