友だち宣言してから数日後、薙は突然、なにを思ったか蓮を隣町境の土手まで引っ張っていった。

「高塔、こいつ、杉山由佳里、俺の中学時代の友人なんだ」

 そこで美女を紹介された、杉山由佳里、もちろん女だ。

 薙に女?
 彼女?

 由香里は美人で、スレンダーで、優しそうに見えた。薙にはもったいない美人だ。
 蓮は彼女の姿を見た途端、心臓に太い杭を打ち込まれたかのような衝撃を感じて焦った。薙に彼女がいるなんて考えてもみなかったのだ。まるで世界が突然掌を返したように色が変わって見えた。
 薙は自分と同じくクラスから浮いていた。それは尊敬と羨望と、少しの煩わしいくらいの融通のきかない正義感が疎ましく感じられるからなのかもしれないが、それでも浮いていた。自分に薙しかいないように、薙には自分しかいない。そう信じていた。それが覆された気がした。

 薙に彼女がいた?
 それはどういうことだ?
 薙は違うと思ってた。
 なにと違う?
 なにが違う?

 自問自答していると、いつの間にか近づいてきていた薙がチョイチョイと蓮の脇腹を突く。
 途端に全身の血流が上がった。
 薙の指が突いた脇腹の部分から、ゾクリと痺れるような感覚が奔り、それが全身へ広がっていく。背筋からずり上がってくるむず痒いその感覚は、それでなくとも動揺していた蓮の内心を大きく波打たせた。

 落ち着け。
 落ち着け!
 しっかりしろ!

 足が震えそうになるのを抑え、出来るだけ何気なく薙へと耳打ちする。

「なんだよ、お前、そんな顔して彼女なんかいたのかよ!」
「そんな顔は余計だ馬鹿、それに由佳里は別に彼女ってわけじゃねえって、中坊ん時からの友達だって」
「そういうの、彼女って言うんじゃねえの?」
「言わねえの」

 薙は由佳里を彼女ではないと言ったが、それは今はまだ、という意味にも聞こえた。もしくは薙自身、自分で自分の気持ちに気付いていないだけで、本当は好きなんだろうなと思った。それは由佳里が薙の想う人であるにふさわしい気立てのよさそうな娘だったからだ。
 薙の(未来の)彼女。
 蓮は由佳里を真正面から見ることが出来ず、斜めに構えたままチラチラと横目で見ていた。この娘がいつか自分から薙を奪っていくんだ。それは絶望的な予感だった。
 そんな狭くて暗い、半友好的な考えを持ったことを疎ましく、恥ずかしい。なんで自分は女に生まれなかったんだろうかとさえ感じたが、その考えは慌てて否定した。自分が薙に何を求めたのか、そのときはまだ気付きたくなったし、そんなことでヤキモチを妬くようなセコイ人間だと薙に思われたくない。
 だが自分がどこか上擦っていて、おかしいということだけはわかっていた。

「高塔、お前が喋らねえから、由佳里の奴、お前を女と間違えてんぜ、何とかいえよ、ほら」
「え、あ? ああ、そうか、えっと……」

 突然そう話をふられ、蓮も一瞬心を読まれたかと慌てたが、そんなわけは無い。直ぐに気持ちを切り替えて笑顔を作った。そしてはにかんでいる由佳里に向かってスッと右手を差し出す。

「よろしく、杉山由佳里……さん? 高塔蓮です」
「あ、こちらこそよろしく、由佳里です」

 由佳里は最初蓮が感じた薙を奪っていく敵としてのイメージからは程遠く、とても魅力的な娘だった。
 笑顔が柔らかい。そして好意に躊躇いがない。
 普通、初めて会った男に突然握手を求められて躊躇わず応じる女はいない。まずは警戒心を持つはずだ。いい子ぶるにしても一瞬の躊躇いがある。そして慌てて作り笑顔で震えがちな手をオズオズと差し出す。それが流れだと思っていた。
 しかし由佳里は蓮の差し出す右手に両手で答え、蓮の右手を包むように握りながら人懐こそうな柔らかく優しい笑顔で話しかけてきた。だから元来人見知りするタイプの蓮も、臆することなく笑い返すことが出来た。


「びっくりしたわ、まさか薙にこんなカッコイイ友達ができるなんて、ね、どう? 薙って学校でもあんななの?」
「あんな?」
「ほら、無愛想で、ぶっきら棒で、鬼みたいに怖いでしょ、中学ン時なんか皆に恐れられてたんだから、体も大きいし、なんかもう二十五くらいに見えない?」
「ああ、まったくだ、今でもそうだぜ、先生より怖いって評判さ、マジ十六には見えねえよな、二十五? それは言いすぎ、三十だろ」
「あっはは、そうかもねー」

 二人して薙のことを貶すような話をしながら、どれくらい薙を好きなのか主張しあってるような気がした。不思議と嫌な感じはしなかった。それは由佳里の笑顔がとても魅力的だったからかもしれない。
 事実、由佳里はとても気の利く強く優しい娘だった。初めて会ったというのに、由佳里には蓮に対する警戒心も敵愾心もなく、まったく昔からの友だちであったかのように話し、笑ってくれるのだ。さすがに薙と二人きりのときはどうなのかわからないが、少なくとも蓮が一緒のときは、蓮と薙を分け隔てするような事はなかった。彼女は蓮を薙の友人としてだけでなく、蓮自身を自分の友人としてきちんと見てくれる娘だったのだ。

 由佳里ならいい。
 由佳里しか認めない。
 薙の横に並ぶ自分以外の人間は、由佳里だけだ。

 蓮はほんの少しの淋しさを心の内に抱えながら、二人の交際を認め、祝福した。



 ***



 友だち通しになってから半年、薙を自宅へ招くことは一度もしなかった。それは自分がヤクザの組長の子どもだと知られたくなかったからだ。
 薙は理由もなく人を差別するような人間ではないし、事実を知ったあともその態度は変わらないかもしれないが、彼にも家族や由佳里がいる。もしかしたら気にするかもしれない。だから話さなかった。
 だがその日は、近くに出来たアミューズメントへ行ってみたいと言った薙に押し切られ、自宅近くで待ち合わせの約束をしてしまった。学生名簿で住所だけは知れているので、待ち合わせに遅れたらそれこそ自宅へ来られかねない。来られたら困る。だが急いで家を出ようとしていた蓮の後ろから、低く冷たい声がした。

「蓮、どこへいく?」
「親父……」

 呼び止めたのは父親だった。いつにも増して渋い顔をしている。だいたいこういう顔をしている時は良い話ではないのがわかっている。蓮は出来るなら聞きたくないなと軽く睨んだ。

「どこだっていいだろ、俺は忙しいんだ、話しならアトにしてくれ」

 そう言い返す蓮に、父親、高塔《たかとう》剛久《たかひさ》は極道の頂点に立つモノの眼力で見つめ、低く、唸るような声で話した。

「連合の、浮岳(うきたけ)坊ちゃんを知っているな?」
「……ああ、だからなんだ?」

 連合というのは所謂極道の集まり、関東近辺に巣食う大小さまざまな組を束ねている組織で、ようするに極道の親玉のようなものだ。
 日本地図を関東、関西、極東の三つに別け、それぞれに溢れる極道の集団。その関東を束ねているのは、通称連合と呼ばれる関東白峰連合会であり、蓮の父親の束ねる鷲尾会の親玉のようなものだ。そして浮岳坊ちゃんと言うのは、そこの白峰会長の孫(息子は東西の抗争の末暗殺されていて現在七十歳の爺と、九十二歳の大爺が連合を仕切っている)、白峰《しらみね》浮岳《うきたけ》(二十四歳)のことだった。

「坊ちゃんがこの間の会長の祝賀会でお前を見かけてな、えらく気に入ったそうだ、たまには遊びに来いと言ってきている」
「それは強制かよ、行かなきゃウチの面子が立たなくなるとか言う気か?」

 浮岳という男は会長の孫という事を最大の武器に好き放題の道楽息子で、権力に媚び諂う輩のことなど、なんとも思わない、所謂大馬鹿野郎の類であり、そのチャラチャラとした外見からして、気に喰わない奴だった。配下の組の組長の子ども達を集めては甚振って楽しもうという腹なのは目に見えている。普段組長の子どもとしてチヤホヤされているガキどもをわざと侮辱し、嬲り、汚物を舐めさせ、屈辱に震える姿を眺めては嘲笑することで自分の優位を確認したい、そんな下品な男だ。

「いや、そうではない、ただそういう話がきているというだけの話だ」

 父親はそう言ったがたぶんそれは半ば命令なのだろうなと蓮にも察しがついた。ただ仮にも自分の息子をそんな目にあわせたくないと思ってでもくれたのか、それとも上からの命令だから行ってくれと頭を下げるのが嫌ななのか、行けとは言わなかった。