初めて面と向かってみた薙は蓮よりも十センチ近く背が高く、目線は自然に上向く。蓮の身長は百七十三あるので、それより十センチ上となると、百八十以上にはなるだろう、高校生にしてはデカ過ぎだ。
 上目づかいに見上げる蓮の顔を覗きこみ、薙は厳つい顔を盛大に緩ませて笑った。

「ああ、例の盗難な、犯人捕まったんだ、お前さ、途中で帰っちまったから、なんか気にしてんじゃないかと思って……」
「別に、気になんか……」

 本当はとても気にしていた。クラス中に、そして薙に疑われたままで学校なんか行きたくないと思っていた。だがその事件は当の薙が解決してくれたのだ。それはもしかしたら自分のためにしてくれたんだろうかと思うと少し嬉しかったのだが、素直になれず、ボソボソと答えた。
 そんな蓮に、薙は本当に嬉しそうに話しかけてくる。なにか話したくて仕方がないといった感じで、ソワソワしていた。

「だよな、うん、お前にはなんの関係もないんだもんな、悪い、なんか変なこと言っちまって」
「……」
「けどなんか悪いことしちまったなと思って」
「なにが?」
「ぁ、いや、あの時は結局なんか、みんなお前を疑ってたみたいだったし、俺も何にも言ってやれなかったから……いや俺は疑ってなんかなかったぜ? けど、結局なにも言えなかったし、だから……ゴメン!」

 薙はそう言って、デカイ身体を大きく二つに折り曲げて深々と頭を下げた。正面きってそう謝られるとなんだかくすぐったいし、困る。しかも薙は下げた頭をなかなか上げないのだ。

「ちょっと、なにお前、止めろよそんな……別に俺は」

 朝の教室内には登校してくる生徒たちが大勢行き来していて、そんな室内で図体のデカイ薙に頭を下げられると目立って仕方がない。だが薙は教室の一番後ろにある小さな黒板の前で頭を下げたっきり、頑固に上げようとしなかった。

「許してくれ、でなきゃ俺は一生でも頭下げ続けるからな」
「あ、のなぁ……」

 それが謝ってる態度か? それじゃあ謝られていると言うよりは、脅迫されているみたいじゃないかと呆れたが、薙は大真面目だ。仕方がないので、いつまでも頭を下げている薙の肩に手をかけた。

「もういいから、頭上げろよ俺はなんとも思ってねえよ」
「じゃ、許してくれるんだな?」

 身体は折り曲げたまま、薙は期待に満ちた表情でパッと顔を上げた。その間が絶妙で、ちょうど蓮も薙の顔を覗きこんでいたところだったので、僅か三センチほどの至近距離で目が合った。ドキリとして慌てて後ろへ下がる。

 心臓が早鐘を打っていた。
 覗き込んだ薙の目は、熊ソノモノだ。それも、飢えた樋熊ではなく、テディベア……小熊のように朴訥で優しいあどけない目だった。
 そういや熊って人を襲うようなイメージがあるけど、本当は雑食で、普段は大抵草木を喰ってる草食なんだっけ? その素直で優しそうな瞳を真正面から見てしまった蓮はドキドキしながらまるで関係ない事を考えていた。

 薙の視線を横目に感じながら、自分がまるで女子中学生のように落ち着きなく気持ちが上擦っていることに気付き、さらに慌て焦った。薙の顔が見られない。

「な、高塔? 俺を許してくれんだな? なあオイ!」

 薙は俯く蓮の顔を無神経に覗き込み、熱心に、少し急くように聞きながら蓮の両手をグッと握ってくる。手を取られた蓮はさらに慌てた。薙に握られた両手から熱が高まり、全身が熱くなる。上擦ってあらぬことを口走りそうだ。
 蓮は必死で顔を逸らして、泣きそうな声で言い返した。

「わかった、わかったから手っ! 手、離せよバカ!」
「あ、悪い、つい……」

 蓮の一声に、薙も突然気がついたかのようにパッと手を離す。そしてまだドキドキと気分の落ち着かない蓮の隣に自然と立った。

 薙がいる。
 毎日毎日気になって仕方がなかった薙がまるで友だちのように普通に自分の隣にいる。そう思うだけで胸の鼓動は静まることを知らず、身体は熱いままだ。これではまるで恋でもしているようだと気付き、蓮は下唇を噛んだ。

 違う、自分はそんなつもりではない。
 そんなつもりで薙を見てたんじゃない。
 そう思えば思うほど動揺は治まらず、蓮は泣きだしそうな自分を必死で宥め、気を静めようとしていた。意識しているのは自分だけだ。薙はただクラスメイトとして、正義感から放っておけなかっただけだ。間違えるな、薙はお前の友だちじゃない。

「俺な、実はずっとお前のこと見てたんだ、ずっとこうやって話したかった」
「え……?」

 必死で気を逸らそうとしていた蓮の耳に、薙の優しい声聞こえた。それはまるで告白のようで、ドキリとした。顔を上げると薙は本当に嬉しそうに笑っている。

「本当だぜ、なんかよ、やけにクールで綺麗な兄ちゃんがいるなーって思って、ずっと話しかけたかったんだ、けどなんか声かけそびれちまって」
「クールって……なんだよ、ただ冷たいってだけだろ?」
「なに言ってんだ、お前は冷たくなんかないだろ、本当は凄く熱い奴だ」

 薙はまるで全てをわかってくれているような、手放しの好意を滲ませながら右手を差し出した。

「つうコトで、あらためて頼む、友だちになってくれ」
「は?」

 その台詞には正直蓮も唖然とした。
 中学生日記ではあるまいに、今時友だちになろうなんて真っ向から言ってくる奴なんかいないぞとたじろいだ。だが薙は大真面目で、出した手を引っ込めない。蓮が握り返してくれることを期待して、差し出されている右手を見ていると、なんだか昔流行ったカップルを作る番組なんかを思い出した。
 男が女の前に立ち、お願いしますと手を差し出す。彼女がその手を取ればカップル成立、取らずにごめんなさいといえば不成立となる。もちろん自分は女じゃないし、薙もそういう意味で言ってるんじゃないのはわかっているが、なんとなくそれを彷彿とさせ、可笑しくなった。
 本当は自分もずっと薙と話したかった。だが自分からは言い出せなかった。
 それが今こうして思いがけず、薙のほうからそう言い出してくれたのだ。このチャンスを逃すバカはしないのが賢明だろう。蓮もそう覚悟を決めた。だが手は取ってやらない。

「朝っぱらから教室内で恥ずかしい真似すんな阿呆」
「んだよ! 俺は真面目にだな……!」

 冷たく横を向き、そう答えた蓮に憤慨して薙が顔を上げる。その真面目そうな瞳を、今度こそ真っ直ぐに見返して静かに笑いかけた。

「わかったからそうがなるな、友だちだろ、いいぜ」
「本当か?」
「ぁあ、よろしくな、薙……」

 蓮が笑うと、薙も本当に嬉しそうに笑い返してきた。薙は蓮のすぐ横に、二人の腕が接触するくらい近くに立って、夢中で話しかけてくる。必要とされ、求められる幸せを感じ、なんだかくすぐったくなる。

「最初はさ、なんか冷静で凄くカッコいい奴に見えたんだ、けどコイツが意外に子犬みたいによく笑いやがるからなんか可笑しくって……可愛いなーってさ」
「……は? カワイイってなによ、俺? なに、お前まさかアッチの趣味?」
「バカ! 違げえよ! けどホラ、美人に性別はないだろ」
「何言ってんの、やっぱアッチの気あんじゃねえの?」
「無えっての! ああもう褒めんじゃなかった!」
「アハハッ……」

 ちゃんと話したのは初めてだと言うのに、拗ねて横を向く薙がなんだかとても懐かしく見えた。もう何年もの長い間、ずっと友だちだったような、妙に温かい気持ちになり、騒ぎの発端となった盗難事件やその犯人にさえも感謝した。
 全てはこの日、始まったのだ。


 ***


 それから薙とはどこへ行くのも、何をするのも一緒だった。
 クラスで浮き捲くりだった蓮にとって、薙の存在がどれだけ心の支えになっていたか、きっと本当にはわかっていなかっただろう、薙にも、そして当の蓮にさえ。
 相変わらず他の連中からは恐れられ敬遠されていたが、それが全然気にならなかった。ただ薙がそこにいるのが当たり前で当たり前過ぎて、気付けなくなっていたのかしれない。