見続けていると相手の心の言葉が聞こえるような気がしてきた。彼の淋しさや温かさ、クラスの空気を壊さぬように、彼は彼なりに気を使っているのだ。
 何故そんなに自分を抑えるんだろうか? そんなことを考えているある日、問題は起きた。
 クラスメイトの一人が財布がないと騒ぎ出したのだ。
 体育の授業を終えて戻ってみたら、鞄に入れていた財布がなくなっていたという。

「財布は体育係りに預けることにきまってるだろ! なんで預けなかったんだ」
「時間がなかったのよ! で、鞄に入れっぱなしで……でもそんなことどうでもいいでしょ、問題は誰かが盗ったかよ!」
「誰かって誰だよ、授業に出てたらそんな真似できないだろ!」
「授業に出てなかった人もいるでしょ!」

 女生徒がそう叫んだとき、クラス中がいっせいに壁際に佇んでいた高塔を見た。

「……?」

 彼はすぐにその視線の意味を察したらしい。途惑った表情でクラスメイト三十六名の七十二もある目を見まわしていた。
 彼は体育の授業に出ていなかった。それはいつものことだったし、どこで何をしているのかはわからなかったが、授業が終わるまで一度も姿を見かけなかった。

 高塔が盗ったんだ。
 七十二の目が一斉にそう言っていた。
 だが誰一人声に出してそうとは言わないのだ。
 ただ黙って注がれる三十六名の視線に、彼はなにも言い返さなかった。口元に掌をあて、目を丸くして心持ち後ろに下がっていく。
 戸惑いを隠せない高塔の様子に胸が痛んだ。
 あいつはそんなことをするような奴じゃない。薙にはなんの根拠もない確信があった。だがそれを口に出そうとしたとき、彼は黙ったまま教室を出て行った。

「高塔!」

 思わず後を追って教室を走り出た。高塔は追って来た薙をチラリと見ただけで立ち去って行く。
 その後ろ姿に自分でも驚くくらい胸が痛んだ。
 同じなのだ、自分も。彼にとっては自分も他のクラスメイトのように彼を疑い、何も言わず視線で責めた。そうとられても仕方がない。確かに自分は何も言わず何もしなかった。

 お前なんかいらない。

 去っていく細いシルエットが、背後にある全てを拒絶しているのがわかった。
 淋しく悔しかった。だが悲しんでいる場合ではない。疑われたまま弁解もせず消えた彼には濡れ衣を晴らす機会もないのだ。だというなら自分が真犯人を突き止めなければならないのではないか? そしてやったのは彼ではないと証明するのだ。
 そう決めた薙は、まずクラス内の連中全員を調べた。

 高塔以外で体育の授業に出ていなかったのは二名、二人とも欠席者だ。その二人の家まで行き、確かに家にいた確認を取った。そうなるとクラス内で出来る者はいないことになる。クラス内でないとすれば他クラス、または他学年の生徒かもしれない。
 あの日学校に来ていた人間なら盗むことは可能だと考えて、今度は他のクラスの生徒たちへと次々に聞き込んでいった。その結果、隣のクラスの一人がその時間教室にいなかったことがわかる。その前後はいたらしいので、体育の授業のあった三時限目だけいなかったということになる。となると聞かずにはいられない。

 教室の外へ呼び出すと、後ろめたいとところがあるのか、やって来たその生徒は酷く怯えていた。

「あんた、穐山さん?」
「あ、はい……はい」
「な、あんた先週の水曜日、三時限目、どこにいたのか教えてくれないか?」
「えっ?」
「俺のクラスで盗難があったんだ、俺の友達が疑われてる、あんたなんか知ってるなら言ってくれ」

 高塔とはまだ口もきいたことがない、だが心の中では既に友人だ。だからあえてそう言った。すると穐山は泣き出しそうな顔をしていきなり白状した。

「ご、ごめんなさい! 僕が盗りました! ごめんなさい、ぶたないで!」
「え……?」

 ついうっかり忘れていたが、他人から見ると自分の顔はかなり怖いらしい。つまり訊ねていったクラスメイトも、そしてこの穐山も、薙の顔が怖くて喋らないと殴られると思って素直にしゃべったのだ。

「いや、俺は別にそんな……あ、とにかく、やったのはアンタなんだな?」
「ハイ、ハイ!」

 その気の弱そうな穐山という男子生徒は上級生に目をつけられ、金を請求されていたらしい。そして自分の小遣いだけでは賄えなくなって隣のクラスが体育の授業で出払うのを知って盗みに入ったという。
 薙はホッと息をついた。
 やはり犯人は高塔じゃなかった。良かった。
 そしてほっとすると同時に気になって来た。彼はあの日一人黙って帰ってしまってから、ずっと学校に来ていない、もう二週間近い。
 今頃どうしているのだろう……?

 真犯人が名乗り出、少々のいざこざはあったが、無事収めることが出来た。クラスメイトたちも、やったのは高塔ではないと納得してくれた。それを早く知らせてやりたいと思った。みんなわかってくれたから、また学校へ来いと行ってやりたい。

 薙は職員室で半ば強引に住所を聞きだし、その日のうちに高塔の家へと向かった。そして彼の家の近くまで行ったとき、大きな神社の境内にいる彼を見つけた。
 初めて校外で見た彼は、古風な和服姿で、誰かと楽しそうに話をしていた。

 高塔が誰かと楽しそうにしているのを、薙は不思議な気持ちで見つめた。
 あれは誰だ……?

 その男は高塔より全然年上だが、かと言って父親と言うには若すぎる。たぶん三十代半ば過ぎだろうと思われた。高塔はその男と楽しそうに笑い合っている。



「ホントだな? よおし、約束だかんな!」
「ええ、楽しみにしておりますよ坊ちゃん」

 正直それは酷く意外だった。それまで薙は彼が笑っているところを見たことがなかったのだ。しかもその笑顔は今まで無意識に予想していたような口の端だけで笑うような冷たい笑みではなく、顔をクシャクシャにして笑う、どこか照れたような、小さな子どものような笑顔なのだ。

 高塔……。

 開きかけた口はそのまま動かなくなった。
 話しかけるつもりで来た。
 財布を盗んだ犯人は捕まった。もう誰もお前を疑っていない、だから早く学校へ戻って来いと言う気で来た。だが彼のどこかはにかんだような歳相応に可愛い顔を見て、なぜだろう、言い出せなくなった。
 結局、勇んで出かけたにも関わらずその日は、何も告げず、顔さえ合わせず帰宅することとなった。

 *

 帰ってからも高塔の子どもっぽい笑顔が忘れられなかった。
 あいつはあんなに懐っこい、人好きのする奴だったのか。それなのに何故、学校ではあんなに頑ななのだろう。気になって仕方なかった薙は、結局それから幾日もしないうちに登校してきた本人に、今日こそ話しかけようと決めた。遠くから見ているだけでは埒が明かないからだ。

 朝、教室に入ると、一番後ろのロッカーの前に、入り口へ背を向ける形で立っている高塔を見つけた。
 自分と違いスマートで背筋のシャンとした綺麗な背中と気のせいか少し括れてみえる腰のラインが、なんとなくファッションモデルかアイドルタレントのように見えて、思わず触りたくなる。
 遠くから見ても見惚れるほど綺麗な顔とも相まって、もしも彼が女性だったら、物凄い美人だろうなと、ついくだらない妄想まで展開させた。今、誰かに自分の頭の中を覗かれたら、きっと変態だと思われるだろう。薙は自分でもそう呆れながらお目当ての彼に声をかけた。