いつまでも離れようとしない薙を突き飛ばし、落してしまったシャンパングラスを拾いあげる。

「なにやってんの、お前しつこ過ぎ、零しちゃったじゃねえかよ、酔ったのか?」
「あ、酷え……どんぐらい好きかってのを態度でしめしてやってるこの優しい薙様に……」

 突き飛ばされ、毛足の長いジュータンの上に転がり、よろよろと起き上がりながら応じる薙は、どうやら本当に酔っているようだ、動作が緩慢になっていた。よろめきながらソファに腰を下ろし、ジュータンに染み付いた酒をタオルで拭っている蓮を見て笑っている。かなりの上機嫌だ。

「お前、意外に酒弱い? まさか初めてじゃないだろうな?」
「いや、親父に付き合ってビールを一杯くらいなら飲んだことあるぞ」
「バカ、ビールなんかと一緒にすんな、シャンパンは飲み口はいいけど、度数はビールの倍近いんだぞ、いい気になって飲むと悪酔いするからな」

 上機嫌で自分を見下ろしている薙にそう説教すると薙は少し不満そうに口を尖らせる。

「あ、生意気っ高塔のくせに俺に意見する気かよ、お前だって同じくらい飲んでるだろ」

 こういう風に、薙が絡んでくるのは珍しい。だいたいいつも卓越していて、一人大人びた感じで、どちらかと言うと気の短い蓮を見守り、たしなめるという役割だったからだ。
 蓮は普段芯から感情的になる薙をあまり見たことがなかった。これが酒のせいだというなら、その日の酒に感謝したい。そんな気持ちをひた隠しながらできるだけ平静を装って言い返す。

「俺はノビタか! なにが高塔のクセにだよ、俺はね、これでも酒は強いほうなの、一升五合はいけるのよ」
「一升五合?」

 不思議そうに聞き返してくる薙に蓮が説明を加える。

「あ、ウチは殆ど日本酒だから、神道とかやってるし、朝の御神酒は欠かさない」
「へえ、神棚あるんだ?」
「あるぜ、バカデカイやつが、お前のとこは?」
「ウチにはねえな、その代わりに仏壇がある、俺の箪笥よりデカイ重厚なヤツが」

 薙が感心したように身を乗り出してくるので、蓮は少し怯みながらも長椅子にふんぞり返るように座り、話を振る。薙はしきりと感心し、今度は身振りを入れて説明しながらさらに近づいてくる。おかげで自然と高鳴る心臓の音を薙に聞かれるのではないかと本気で心配しなければならなかった。

「箪笥よりデカイ? 嘘?」
「ホント、日蓮宗です、ばーちゃんが毎朝山盛りのメシを仏壇にあげてるぜ」
「山盛り? 豪勢だな」
「だろ? そんなメシあんなら俺にくれっての」
「ははっ……でも、お前に仏教ってすっげ似合うな、なんかお前ってば不動明王って感じだもんよ」

 それは半分本気で言った言葉だった。本物を見たことはないが、教科書や観光案内などでみる不動明王からは大きくて強そうで怖い外見に似合わず、どこか温かさを感じるからだ。

「不動明王? 不動明王って父性の象徴なんだぜ」

 父性、と聞くとさらに薙にピッタリなような気がしてくる。薙から感じるこの温かさは兄貴や父親と言ったイメージだ。

「ピッタリじゃん、お前ジジくさいし」
「ジジ臭いとはなんだよ! ったく……ま、でも俺が不動明王ならお前は月詠《ツクヨミ》だな」

 ジジ臭いと言われて少しムッとしたのか、薙は暫らくブツブツと文句を言ってから今度は蓮を指差してニヤリと笑った。酒のせいで大胆になっている薙の態度に焦る。

「ツクヨミってのは夜と飽食をつかさどる性別不明の月の神だぜ? 日本書紀にもそんなに登場しない謎の多い神だ」
「ピッタリじゃん」
「どこが?」

「性別不明ってとこが」
「あのなあ!」
「あ、嘘ウソ、謎多き神ってとこ、あと月の神ってとこがさ、お前ってなんか真冬の月って感じするし」

 そう言って笑った薙はとても楽しそうに見えた。

 真冬の月。
 と言えば冴え冴えとした美しさがある反面冷たく孤独な雰囲気がある。それは言いえて妙な表現であり、自分の行く末を暗示しているかのようであまりいい気はしない。それでも薙が褒め言葉として言ってくれているのはわかるので黙って微笑み返した。

 シャンパングラスをあわせ、それからまた二人で大騒ぎしては飲み明かした。酒に酔った薙が滅多に歌わない歌まで披露してくれたのだが、それがかたベタベタのラブバラードで、薙の低く不思議に甘い声によく合っている。すぐ隣で聞こえる歌声に胸が詰まり、蓮はずっと俯いて聴いていた。

 不安と期待、幸福感と絶望感、その狭間で揺れる蓮も、その日は珍しくシャンパンに酔ったのかもしれない。実際の所、いつ眠ったのかさえ覚えがなかった。


 翌朝、目が覚めると飲んでいた部屋の続きになっている寝室のベッドの中だった。しかも……裸だ。
 横を見ると薙が寝ている。恐る恐る羽根布団を捲ってみると薙も裸だった。
 サアッと血の気が引いた。
 まさか、なにかした……のか? いや、なにかってなんだよ。男同士だぞ!
 いやでも……。

 考え込んでいるうちにおぼろげながら思い出してきた。酒を飲んで薙と騒いで、キスして、それから……。
 それからどうなった?
 薙の体温を覚えている。薙の匂いを感じながら、ベッドに転がり込んだことも覚えている。
 俺が誘ったのか? まさか?

「ぅ……ん」

 薙が寝返りをうつ、顔が此方を向いてドキリとした。
 ヤバイ!
 なにかしたかどうか、具体的な記憶はないが、この状況だ、なにもしていないとも言い切れない……と言うよりきっとした。マズイ、コレは絶対に拙いだろう! 蓮は慌ててベッドから離れシャワールームへ駆け込んだ。
 熱いシャワーを浴び、前の晩のことを考える。やがて幻想のように思い出されてきた記憶に冷や汗が出る。
 あのとき、酒の匂いをさせた薙の指がボタンを外した。そのままどうなってもいいと思った。いや、むしろそれを望んだ。
 翻弄された夜を思い出した蓮は、震える指で蛇口を切り替え冷水を浴びた。そしていい加減、身体が冷え切ってきた頃、シャワーを止め、バスタオルで身体を拭きながら考えた。

 薙のほうは覚えているのだろうか? そしてもし覚えていたとしたら後悔しないだろうか?
 薙には恋人がいる、由佳里がいる。これは薙の負担にならないだろうか?
 もしも負担に思ったとしたら……?
 その答えは考えなくともわかるような気がした。

 どうする?

 考えても答えは出ない。蓮は寝室へと戻り、とりあえず脱ぎ捨ててある衣服を身につけた。そしてまだベッドの中にいる薙の寝顔を眺める。
 これで終りなのかもしれない。自分と薙の関係は崩れる。きっと薙は離れていくだろう、それをとめることは出来ないのだ。そう考えると自然と涙が出てきた。

 夢のような時間はそのまま夢で終わればよかったのだ。
 薙が好きだ。
 薙と離れるのがこんなに辛いとは思わなかった。

 何故、こんなことになったのだろう。何故手を伸ばしてしまったのだろう。そんなことをすれば終りだとわかっていたはずだ。
 激しい後悔の中、薙の眠るベッドの傍らで佇んでいた。
 そしてどのくらいそうしていただろう、突然薙が目を醒まし、傍らに佇む蓮を見た。

「あれ、高塔? なんだ、俺寝ちまったのか……?」
「あ、ああ……」

 そして起き上がろうとして自分が裸なのに気付き、暫らく黙り込んでから蓮を見返す。

「高塔……?」
「……なんだ?」
「俺、なんで裸なんだ?」
「覚えてないのか?」

 蓮は僅かな望みをかけて薙に訊ねた。覚えていなければいい、そうであればいままでどおりに振舞える。また薙と歩いていけるかもしれない。そう思った。
 薙は蓮の思惑を知らず、呆然と頭を掻きながらまだ少し眠そうな顔で呟いた。

「俺、もしかして酒が入ると脱ぐクセがある……とか?」
「あ……ああ、そうかもな」
「なんで止めてくんないんだよ! 俺の裸見たって面白くもなんともないだろ?」
「俺に止めろっての? そんな無体な、だいたいあんな面白いお前はそうそう見れないじゃんか」
「見られてたまるか!」
「仕方ないだろ、そんな重量級、俺一人で止められるもんかよ!」
「あーもうサイテー……しかも頭痛え」
「完全に二日酔いだな、調子にのって飲みすぎるからだ」

 蓮はそう言って薙のボサボサ頭を掻き混ぜながら小突いて笑った。
 その笑顔がぎこちなく見えないよう心から願いながら……。

 薙は覚えていなかった。
 覚えていなかった。

 薙が夕べの出来事を記憶していなかったことに心から感謝した。
 だがその晩の出来事は蓮の中で蟠り、燻り続け発酵し、いつまでも胸の奥に突き刺さる熱く鋭い棘となっていった。