逃亡者、柳原《やなぎはら》薙《なぎ》。
薙はそう高くない山の頂上にいた。そこからはるか下に見える繁華街やネオンの灯る街並みを見つめていた。そこにはかつて薙が愛し、その先の人生もずっと共に歩くと信じていた人々が住む小さな街だった。
――――裏切り者。
それは自分のほうなのか、それともその街に住むかつての友のほうなのか? その疑問はもう何年も胸に蟠っていた。
「裏切り者に用はない、出て行け、俺の前から消えうせろ」
その言葉が、薙が聞いた親友、高塔《たかとう》蓮《れん》の最後の言葉だった。蓮は高校時代を共にすごし、その先もずっと一緒だと信じていた最愛の友だ。
――――裏切り者。
裏切ったのは自分のほうだと、頭の隅でわかっていた。彼にとって、見て見ないふりをすることは裏切りだ。それを知っていながら気付かないふりを続けた。見てしまうことを恐れ、見ないように気付かないようにしてきた。
抗いきれない運命の中で親友が苦悩していたことを知っていた。仲間たちのために意地を捨て、信念を曲げてまでやらなければならなかったことを知っていて、気付かないふりをし続けた。
「……っ!」
心の奥で、頭の中だけで、親友の名を呼んだ。
高塔蓮。
彼と別れてからその名を口にすることはやめていた。
口に出せば堪えられなくなる。裏切ったことに、そして裏切られたことに……。
***
高塔と出合ったのは高校一年のときだった。
薙は当時から臥体もデカく、顔もどちらかと言えばヤクザ紛いの強面で、同年代の少年達の群れからは少し離れた位置にいた。と言っても別に特別ワルだったわけではなく、クラスの連中の薙に対する評価もそれほど悪いモノではなかった……と思う。
ただ強面にも関わらず生真面目な性格で、とっつきにくく敬遠されがちだったかもしれない。だがその位置を居心地が悪いとは思っていなかったし、特別寂しいとも思わなかった。
「薙! まぁた、ボウッとしてる、何考えてるの?」
「え? いやなにも?」
「嘘、どうせ最近出来た彼女のことでも考えてたんでしょ」
それは学校の帰り道、たまたまバッタリ出くわした中学時代からの友人、杉崎《すぎやま》由佳里《ゆかり》と並んで帰る道すがらのことだった。夕方の空を見上げ、何かに思いを馳せている薙の顔を見て、由佳里がからかう。好奇心満々といった感じだ。
「かのじょォ? い、いねえよ、そんなモン」
薙は驚いて少し慌てた。考えていたのは彼女ではなく、彼氏、高塔蓮のことだったからだ。
「本当かしら? 恋でもしてます、って顔だったわよ」
「してねえっての! 由佳里こそ彼氏の一人もできねえの?」
「出来ないんじゃなくて、作らないのよ、私は」
由佳里は口を尖らせて怒っている。薙はへんな自慢もあったものだと吹き出しながらペッタンコの学生鞄を肩にかけて、横を向いた由佳里をからかった。
「ホンットかよ、あぶれてるなら俺がなってやってもいいぜ?」
「あいにく私、理想が高いのよ」
学校内で一人でいることに薙がなんの違和感も持たなかったのは、中学時代からの友人であり、理解者でもある由佳里の存在があったからかもしれない。
「あ……そ、せいぜい理想に埋もれて行き遅れんなよな」
「ご心配なく、モテるのよこれでも、薙と違ってね」
「……へ」
軽口を言い合っては突き合い、三叉路で手を振って別れた。薙は由佳里の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
高校に進学してそれぞれ通う学校は変わってしまったが、由佳里と薙は男と女という境界をこえて、信じあえる友人同士だった。ときには姉弟のように、ときには親友のように、そしてときには伴侶のように語り合い寄り添ってきた由佳里への想いが、友情から愛情へと変わるまでにはまだもう少しの時間がかかりそうではあったが、それでも由佳里は薙にとって心の支えだった。
由佳里の姿が見えなくなってから薙は再び思考を戻した。さっきまで考えていたクラスメイト、高塔蓮のことだ。
学内で一人であるということには、それほどの孤独は感じていなかったが、時々、無性に誰かと話したくなることもある。そんなとき、目に付いてしまったのが同じクラスにいた高塔だった。
彼は薙と同じようにいつも一人だった。理由はわからないがクラスメイトから恐れられ、避けられて浮いていた。強面の自分と違い、高塔はとても洗練された佇まいがあった。頭も悪くは無い。成績は中の下くらいだったが、それはたぶん授業をサボりがちだった為で、本当は頭のいい奴だと感じさせた。
背は自分より少し低めだが、薙の身長は一八〇を越えていたので、その自分とそう変わらぬように見えた高塔も決して小さくないはずだ。だが何故か小さく見えた。
薙は昔からなにか気になりはじめると、止まれない性質だったので、それからずっと高塔の後ろ姿や、孤独を漂わせる寂しそうな横顔を見ていた。
「アイツはなんで……」
気になってつい口にまで出た。
彼は綺麗な顔をしていた。決して女性的ではないが、どこか性別を越えた色気があり、時折見せる射るような視線は野生の豹のようで、危険な香りがした。と言っても、別にクラスメイトといざこざを起こすわけではない。授業をサボることは多かったが、決して不良であるとか番を張っているとか学内を仕切っているとかいうわけではない。どちらかと言えば寡黙で目立たない男だった。
ハッとするほど綺麗で鋭い視線を持ちながら、まるでそこに存在していないかのように気配を感じさせない。だから誰も彼がいることに気付かず、いないことに疑問も持たない。
たまにその存在に気付いた者は、何故か彼を恐れその場を離れていく。彼はそんなクラスメイトの態度に腹を立てるでも悲しむでもなく悠然としていた。
いつしか薙はそんな高塔蓮に心魅かれはじめ、気づけば目で追うようになっていた。
その日も彼は授業には出て来ていなかった。学校自体には来ているようだったので、その姿を探す。
ウロウロと校内を歩き回り、彼の打ち水のような涼やかで凛とした背中を追い求めた。だが教室の中にも廊下にも校庭の隅にもいない。
最後に薙は階段を上がり、屋上の立ち入り禁止と書かれてあるドアを開けて様子を窺ってみた。
果たしてそこに高塔はいた。
「気取るなよ、俺等だってこうやって頭下げてんだろ」
「俺は別に気取ってもいないし、頭を下げろとも言ってない」
「いい気になるなよ? 一年坊主のクセに、いいか、こっちが大人しく頼んでんだ、はいわかりました先輩っつうのが常識だろうが!」
高塔は上級生数名に取り囲まれていた、なにか揉めているようだ。話の内容はよく聞こえなかったが、上級生が先輩風を吹かせて彼になにか無理難題を吹っ掛けているらしいことは理解出来た。
「上級生だかなんだか知らないが、人をいきなり呼びつけて有無を言わさず言うことを聞かせようとするような輩に尽くす礼はねえな」
だが彼はその要求を呑むつもりはないようで、厳しく手酷い言葉でそれを跳ねつけた。肩にかかる長めの黒髪が屋上を吹き抜ける風に嬲られて舞い踊る。綺麗な顔に嬲られた髪がかかり、羽織っていた学生服の上着も翻った。
「退けよ……これ以上俺に時間を潰させるな」
「……」
鋭い目で上級生を睨みつけ、一歩一歩と前へ進む高塔の迫力に圧され、上級生は静々と下がっていく。まるでボクシングのチャンピオンが帰っていくのを見送るように、彼の行く手はサアッと道が開けた。
屋上の開けっ放しになっているドアの影に隠れていた薙に気付かず、彼はそのまま階段を降りていき、薙はその後姿を見送りながら背後で聞こえる上級生の声に聞き耳を立てた。
「チッ、偉そうに……」
「まあそう言うな、じっくり行こうぜ」
事情はよくわからなかったが、その上級生たちが、彼をなにかの仲間に引き入れようとしているらしいと言うことだけはわかった。不良同士の権力争い、それもこの学校内で誰が一番偉いのか、そんなことを競う、見栄と意地だけのくだらない抗争に引き込もうとしていたらしい。
だが彼は屈しなかったのだ。つるむつもりも堕ちるつもりもない。そんな小さな権力争いに興味はないと立ち去った。やはり彼は自分が思っていたとおり、高潔で潔い男なのだ。そう確信した薙は、それからさらに深く高塔蓮を見つめるようになった。
薙はそう高くない山の頂上にいた。そこからはるか下に見える繁華街やネオンの灯る街並みを見つめていた。そこにはかつて薙が愛し、その先の人生もずっと共に歩くと信じていた人々が住む小さな街だった。
――――裏切り者。
それは自分のほうなのか、それともその街に住むかつての友のほうなのか? その疑問はもう何年も胸に蟠っていた。
「裏切り者に用はない、出て行け、俺の前から消えうせろ」
その言葉が、薙が聞いた親友、高塔《たかとう》蓮《れん》の最後の言葉だった。蓮は高校時代を共にすごし、その先もずっと一緒だと信じていた最愛の友だ。
――――裏切り者。
裏切ったのは自分のほうだと、頭の隅でわかっていた。彼にとって、見て見ないふりをすることは裏切りだ。それを知っていながら気付かないふりを続けた。見てしまうことを恐れ、見ないように気付かないようにしてきた。
抗いきれない運命の中で親友が苦悩していたことを知っていた。仲間たちのために意地を捨て、信念を曲げてまでやらなければならなかったことを知っていて、気付かないふりをし続けた。
「……っ!」
心の奥で、頭の中だけで、親友の名を呼んだ。
高塔蓮。
彼と別れてからその名を口にすることはやめていた。
口に出せば堪えられなくなる。裏切ったことに、そして裏切られたことに……。
***
高塔と出合ったのは高校一年のときだった。
薙は当時から臥体もデカく、顔もどちらかと言えばヤクザ紛いの強面で、同年代の少年達の群れからは少し離れた位置にいた。と言っても別に特別ワルだったわけではなく、クラスの連中の薙に対する評価もそれほど悪いモノではなかった……と思う。
ただ強面にも関わらず生真面目な性格で、とっつきにくく敬遠されがちだったかもしれない。だがその位置を居心地が悪いとは思っていなかったし、特別寂しいとも思わなかった。
「薙! まぁた、ボウッとしてる、何考えてるの?」
「え? いやなにも?」
「嘘、どうせ最近出来た彼女のことでも考えてたんでしょ」
それは学校の帰り道、たまたまバッタリ出くわした中学時代からの友人、杉崎《すぎやま》由佳里《ゆかり》と並んで帰る道すがらのことだった。夕方の空を見上げ、何かに思いを馳せている薙の顔を見て、由佳里がからかう。好奇心満々といった感じだ。
「かのじょォ? い、いねえよ、そんなモン」
薙は驚いて少し慌てた。考えていたのは彼女ではなく、彼氏、高塔蓮のことだったからだ。
「本当かしら? 恋でもしてます、って顔だったわよ」
「してねえっての! 由佳里こそ彼氏の一人もできねえの?」
「出来ないんじゃなくて、作らないのよ、私は」
由佳里は口を尖らせて怒っている。薙はへんな自慢もあったものだと吹き出しながらペッタンコの学生鞄を肩にかけて、横を向いた由佳里をからかった。
「ホンットかよ、あぶれてるなら俺がなってやってもいいぜ?」
「あいにく私、理想が高いのよ」
学校内で一人でいることに薙がなんの違和感も持たなかったのは、中学時代からの友人であり、理解者でもある由佳里の存在があったからかもしれない。
「あ……そ、せいぜい理想に埋もれて行き遅れんなよな」
「ご心配なく、モテるのよこれでも、薙と違ってね」
「……へ」
軽口を言い合っては突き合い、三叉路で手を振って別れた。薙は由佳里の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
高校に進学してそれぞれ通う学校は変わってしまったが、由佳里と薙は男と女という境界をこえて、信じあえる友人同士だった。ときには姉弟のように、ときには親友のように、そしてときには伴侶のように語り合い寄り添ってきた由佳里への想いが、友情から愛情へと変わるまでにはまだもう少しの時間がかかりそうではあったが、それでも由佳里は薙にとって心の支えだった。
由佳里の姿が見えなくなってから薙は再び思考を戻した。さっきまで考えていたクラスメイト、高塔蓮のことだ。
学内で一人であるということには、それほどの孤独は感じていなかったが、時々、無性に誰かと話したくなることもある。そんなとき、目に付いてしまったのが同じクラスにいた高塔だった。
彼は薙と同じようにいつも一人だった。理由はわからないがクラスメイトから恐れられ、避けられて浮いていた。強面の自分と違い、高塔はとても洗練された佇まいがあった。頭も悪くは無い。成績は中の下くらいだったが、それはたぶん授業をサボりがちだった為で、本当は頭のいい奴だと感じさせた。
背は自分より少し低めだが、薙の身長は一八〇を越えていたので、その自分とそう変わらぬように見えた高塔も決して小さくないはずだ。だが何故か小さく見えた。
薙は昔からなにか気になりはじめると、止まれない性質だったので、それからずっと高塔の後ろ姿や、孤独を漂わせる寂しそうな横顔を見ていた。
「アイツはなんで……」
気になってつい口にまで出た。
彼は綺麗な顔をしていた。決して女性的ではないが、どこか性別を越えた色気があり、時折見せる射るような視線は野生の豹のようで、危険な香りがした。と言っても、別にクラスメイトといざこざを起こすわけではない。授業をサボることは多かったが、決して不良であるとか番を張っているとか学内を仕切っているとかいうわけではない。どちらかと言えば寡黙で目立たない男だった。
ハッとするほど綺麗で鋭い視線を持ちながら、まるでそこに存在していないかのように気配を感じさせない。だから誰も彼がいることに気付かず、いないことに疑問も持たない。
たまにその存在に気付いた者は、何故か彼を恐れその場を離れていく。彼はそんなクラスメイトの態度に腹を立てるでも悲しむでもなく悠然としていた。
いつしか薙はそんな高塔蓮に心魅かれはじめ、気づけば目で追うようになっていた。
その日も彼は授業には出て来ていなかった。学校自体には来ているようだったので、その姿を探す。
ウロウロと校内を歩き回り、彼の打ち水のような涼やかで凛とした背中を追い求めた。だが教室の中にも廊下にも校庭の隅にもいない。
最後に薙は階段を上がり、屋上の立ち入り禁止と書かれてあるドアを開けて様子を窺ってみた。
果たしてそこに高塔はいた。
「気取るなよ、俺等だってこうやって頭下げてんだろ」
「俺は別に気取ってもいないし、頭を下げろとも言ってない」
「いい気になるなよ? 一年坊主のクセに、いいか、こっちが大人しく頼んでんだ、はいわかりました先輩っつうのが常識だろうが!」
高塔は上級生数名に取り囲まれていた、なにか揉めているようだ。話の内容はよく聞こえなかったが、上級生が先輩風を吹かせて彼になにか無理難題を吹っ掛けているらしいことは理解出来た。
「上級生だかなんだか知らないが、人をいきなり呼びつけて有無を言わさず言うことを聞かせようとするような輩に尽くす礼はねえな」
だが彼はその要求を呑むつもりはないようで、厳しく手酷い言葉でそれを跳ねつけた。肩にかかる長めの黒髪が屋上を吹き抜ける風に嬲られて舞い踊る。綺麗な顔に嬲られた髪がかかり、羽織っていた学生服の上着も翻った。
「退けよ……これ以上俺に時間を潰させるな」
「……」
鋭い目で上級生を睨みつけ、一歩一歩と前へ進む高塔の迫力に圧され、上級生は静々と下がっていく。まるでボクシングのチャンピオンが帰っていくのを見送るように、彼の行く手はサアッと道が開けた。
屋上の開けっ放しになっているドアの影に隠れていた薙に気付かず、彼はそのまま階段を降りていき、薙はその後姿を見送りながら背後で聞こえる上級生の声に聞き耳を立てた。
「チッ、偉そうに……」
「まあそう言うな、じっくり行こうぜ」
事情はよくわからなかったが、その上級生たちが、彼をなにかの仲間に引き入れようとしているらしいと言うことだけはわかった。不良同士の権力争い、それもこの学校内で誰が一番偉いのか、そんなことを競う、見栄と意地だけのくだらない抗争に引き込もうとしていたらしい。
だが彼は屈しなかったのだ。つるむつもりも堕ちるつもりもない。そんな小さな権力争いに興味はないと立ち去った。やはり彼は自分が思っていたとおり、高潔で潔い男なのだ。そう確信した薙は、それからさらに深く高塔蓮を見つめるようになった。