夏帆はベンチに座って人目を憚らず溢れ出る涙を流し続けていると、誰かが歩み寄ってきてまるで絵本の王子様のように片膝ついてハンカチを差し出す。
「草薙さん……大丈夫? 何かあったの?」
 声の主は水無月優で、くしゃくしゃの顔を上げると夏帆は頷いて信じてくれないことを承知で口を開いた。
「優君……あたしね……ずっと昔に別れた友達に偶然会ったの」
「うん」
「その子はね、もうあたしのことを覚えてなかったの」
「……思い出して……くれなかった?」
 優の柔らかい眼差しと口調でゆっくり訊くと、夏帆はハンカチを受け取って涙を拭きながら首を横に振る。
「そうじゃないの……あたしのこと思い出したら……辛い記憶も一緒に思い出しちゃうから……だから……忘れたままでよかったの」
 前世の辛い記憶をこの世界に持ち込んではいけない、だけど同時にあの世界の大切なモノも一緒に忘れてしまわないといけなかった。
 優はゆっくりと語りかけるように気持ちを代弁する。
「だけど……大切な思い出も一緒に忘れてしまったから、辛いんだよね?」
「うん」
「それならさ、せめてその子のこと覚えておいてあげよう……いつかまた会った時、思い出して辛い記憶と向き合えるようにね……」
「うん、ありがとう……優君」
 夏帆は涙を拭う。もう……泣くのはやめよう、あたしに前世の記憶を呼び起こし、恋を与えてくれた男の子のために。
 少しの間に優は隣に座ってくれて、一緒に辛い別れを乗り越えてくれた気がした。そして夏帆は前へ進もうと言わんばかりに勢いよく立ち上がって、南国の太陽のように眩しい笑顔になる。
「行こうか優君! ところで凪沙ちゃんやミミナちゃんたちと会わなかった?」
「うん、草薙さん一人だけ?」
 優も立ちながら訊くと二人のスマホが同時に通知音が鳴った、見ると一通のLINEメッセージだった。

『二人だけで楽しんでおいで!』

 思わず夏帆は優と顔を向け合い、微笑む。
「楽しんでおいでって……」
「うん、楽しんじゃおうか!」
 優は愛らしく頬を赤らめ、夏帆も実は心の内では心臓が跳び出しそうになってドギマギする。優も同じ気持ちだろう。
「と言っても……楽しむって……何だろうねあ」
「決まってるじゃない! オープンフェスティバル……っというか――」
 夏帆は思わず笑ったその瞬間、最大級の勇気を振り絞って艶やかで晴れやかな笑みと甘い声で告げる。
「――デート!」
「う……うん」
 優は頬を赤らめながら目を逸らさず、彼もきっと精一杯の勇気を振り絞って包むように夏帆の手を握る。
「草薙さん、手……離さないでね」
 ああやっぱりこの子、あたしに恋をしてると心地良い胸の鼓動を感じながら夏帆は艶やかに、そして無邪気に微笑んで頷いた。
「……うん、優君もね」
 そして二人で手を繋いで歩き出す、もう一人じゃないんだと実感しながら花火を見るのに良さそうな場所を探す。
「優君、ミミナちゃんが教えてくれたんだけど、あの辺がよくない?」
「うん、あそこならまだ空いてるね」
 夏帆の指差す先にあるのは公園の小高い丘だ、夏帆は優の手を引っ張って緩やかな斜面の階段を登ると、空いてるスペースに腰を下ろした。
 やがて日が落ちるとアマテラスがライトアップされ、各所に設置されたモニターやビジョンカーの映像が切り替わって人々の視線が集まり、リニアクライマー第一便の出発式が始まった。

『皆さん、大変長らくお待たせいたしました。ただいまより出発式を執り行います。(わたくし)、本日司会進行をさせていただきます柴谷(しばたに)でございます。どうぞよろしくお願いいたします――』

 モニタービジョンにはインカムを装着した背の高いショートカットの女性が現れ、主催者である敷島電鉄グループ会長でミミナの祖父である潮海一蔵(しおみいちぞう)が主催者挨拶を行い、来賓祝辞を経て、与圧服姿の宇宙飛行士四人がにこやかに手を振りながら現れる。
 その中には四組担任の米島先生の弟――米島涼の姿もあった、低軌道ステーションに向かうリニアクライマーに全員が乗り込む間、主催者や来賓がテープカットの準備に入る。
『それではテープをお持ちになってご準備ください』
 リニアクライマー全員が乗り込んでシートベルトを締めると、いよいよ第一便の出発だ。
『皆様、準備が整ったようです。私が「どうぞ」と申し上げましたら、テープにハサミをお入れください。それでは、アースポートシティ発静止軌道ステーション行きのリニアクライマーが発車します! どうぞ!』
 テープがカットされた瞬間、盛大なファンファーレが鳴ると同時にリニアクライマーが宇宙に向けて出発、最初はゆっくりと昇りやがて天に向かって徐々に加速し始めると同時に一八五二メートルの塔の下から上の順に色鮮やかな花火が放たれる。
「始まったよ! 草薙さん!」
 優は無邪気な表情を輝かせ、甲高い口笛のような音をいくつも響かせながら、夜空に大輪の花をいくつも咲かせる。花火が夜空を輝かせるたびに、夏帆はふとあの世界で得られなかったことを、今この世界で得ていることを改めて実感する。

 マスクも着けずに人の素顔や表情が直に見える喜び。

 直に手を触れ合い、心を繋ぎ、通わせ合うこと。
 
 直に顔を合わせて、集まって、お喋りして、笑い合うこと。

 直に友達と抱き合った時の温もり、優君と手を繋いだ時のときめき。

 全てもうあの世界では得られないことだ。
 夏帆はオンラインやリモートではなく、夜空に煌めく大輪の花火を直に自分の目で焼き付け、耳に響かせ、感じながらこの世界に転生させてくれた神に祈る。

――神様、どうかお願いします。コロナ禍のあの世界で自ら命を絶った人たちが、あたしのように幸せに暮らせる世界に連れて行ってあげてください。

 やがて花火がインターバルに入って辺りが静寂に包まれると、周囲の人たちが家族や友人、恋人とでお喋りを始めると夏帆も優の方を向く。
「優君、花火……優君? どうしたの?」
 優の横顔を見ると、彼は顔を真っ赤にして極限までの緊張に必死に耐えながら笑顔で平静を装ってるのがすぐにわかる。
「大丈夫、花火……凄く綺麗だね」
「うん、あたしも優君と一緒に見られて凄く嬉しい」
 だから夏帆は背中を押すつもりで微笑む、頑張って優君。
「く、草薙さん……俺さ……」
「うん」
 夏帆は見つめながら頷くと、優は緊張を落ち着かせようと呼吸を二~三回深くした瞬間、心を貫くような鋭い眼差しで頬を真っ赤にしながら告げた。
「あの時から、君のことを知りたい、触れたい、繋がりたいって気持ちがなんなのか……ようやくわかった。これは恋なんだって――」
 優はそっと胸を右手に当てて気持ちを直に伝える。

「――俺、草薙さんのことが……好きだ!」

 覚悟を決めて顔を真っ赤にする優に、夏帆は嬉しさに満ちた笑みになる。
「うん、ずっと前から知ってた。だって……眠ってる時に聞こえてたの」
「そ、そうなんだ……」
 優は必死に目を逸らさないように見つめてる。その瞬間、インターバルが終わって甲高い音を響かせながら花火が何発も打ち上げられ、夏帆の答え決まっていた。

「あたしもね、優君のことが……好き!」

 優と心を通じ合い、繋いだ瞬間、この夜空に一瞬しか咲かない大輪の花を爆音と共にいくつも一斉に咲かせ、そして儚い命のように消えて行く。
 それは人類が宇宙への新たな道を開き、一つの恋を実らせた二人を祝福するかのように。
 夏帆は花火の爆音に負けないように大声で叫んだ。
「あたし、これからやってくる楽しいことや、嬉しいこと、優君と一緒に見て、聞いて、感じて行きたい! だから、付き合おうっ!」
「うん、勿論! これからよろしくね草薙さん!」
 優は嬉しさで胸いっぱいの笑みだった。
 夏帆は夜空にきらめき輝く花火を優と手を繋いで見上げる。恋、友情、青春、様々な形の人との繋がりに満たされた気持ちを、この世界で得たのだ。

 宇宙と空という二つの意味が込められた、ソラと海のアマテラスが聳え立つ世界で。