ドン!と頭の真横の壁を、大きな拳が通り過ぎる。
 明らかに苛立った様子の彼は、瞳の奥の色が真っ暗だった。
「神代もさー、一回俺に指図してきたことあんの。パシリのことぼこってたら口出してきてさー、気持ち悪ぃオタクの癖によ。そのとき決めたんだ、次のおもちゃはこいつにしようって」
「最低……。頭おかしいね」
 二の腕をぎゅっと掴まれて、私は思わず顔を顰める。
 木下は暴力に慣れているのか、全く表情を変えずに力を入れ続けた。
「神代がM学園受けたら、お前の弟もいじめてやるかなって脅したら、簡単に折れてやんの。だっせー」
 信じられない言葉に、私は思わず耳を疑う。
 痛みも忘れるほど、木下の理不尽な悪意に衝撃を受けていた。
「あんな脅し簡単に信じてさー。本当バカだよなあ、あんなにバカなのに、俺より成績いいとか意味不明すぎ」
「本気で……言ってるの……?」
 ドクンドクン。怒りとショックで心臓が痛いほど鼓動している。
 普段はちょっと興奮しても、簡単にこんな状態にはならないのに。
 無理をして六日間も外泊していたせいだろうか。
 落ち着けようと思っても、心臓は言うことを聞かない。
「しかもアイツ、M学受けないってなったら、家庭崩壊しかけてやんの。三者面談で母親が怒り狂ってる声が外まで聞こえてきて笑いが止まらなかったわ。進学率を気にしてる教師も、それからアイツのことは見放して無視。出席で名前も呼ばない。カンニングしたって噂も流してたから、クラスメイトも全員黙認」
「信じられない……、あなたは人間じゃない」
 悔し涙が入り交じった瞳で睨みつけると、「うるせぇよ」と、今度は足元の壁を思いきり蹴とばされた。
 こんな悪が本当に存在するんだ。
 禄は、そんな地獄みたいな日々を過ごしてきたんだ。
 それなのに、どうして彼はあんなに優しさにあふれているんだろう。
 どうしてそんな人を、誰も守ってくれなかったの。信じてくれなかったの。
 私はキッとさらに力強く睨みつけて、彼に純粋な質問をぶつけた。
「そうやって、〝ムカつく人間〟を排除していって、最後に何が残るの? そんなに自分は特別な存在? 自分以外の全部がくだらなくて仕方ない?」
「は? 何言ってんのお前、またお説教かよ」
「そのうしろで黙ってる二人は、あなたにとって何? ムカついたらまた暴力や言葉で排除するの?」