誰もいない世界で


 目を覚ましたら、ほとんどの夢は忘れてしまうのだけど、夢の中で誰かが私に手を振っている。
 その人の顔は見えなくて、でも、うっすら笑っていることだけは分かった。
 ぼんやりとした視界の中、私も何となく緩く手を振り返す。
 すると、その人はすーっと角砂糖が紅茶に溶けるみたいに、どこかへ消えていってしまった。
 あの人は、いったい……。

「鶴咲青花さん、目覚めましたか。現在四月一日の朝です」
 マスクをつけた看護師さんの顔がだんだん見えてきて、私は日差しの眩しさに思わず目を細める。
 私が意識を取り戻したことを確認すると、看護師さんは「鶴咲さん無事目覚めました」と誰かに報告をしにいっている。
 何だろう。何か、違和感がある。それは本当に感覚的なもので、世界の色がワントーン浅く見えて感じるような……。
 不明瞭だった視界のピントがだんだん合ってきて、私は窓の方に首だけ動かす。そこには、お父さんと禄が心配そうな顔をして座っていた。
 いつもお父さんは目覚めの朝には診察で来れないのに、わざわざ時間をつくってくれたのかな。
「……おはよう。ほんとに最後の一週間が始まったんだね」
 かすれた声でそう挨拶をすると、禄は切なげに目を細めた。お父さんは相変わらず硬い表情のまま。
 背景にある満開の桜とは対照的に、何だか、二人の空気感は少し重たいような……。
「二人一緒にいて、何話してたの? 想像つかないな、はは」
 妙な空気感をなくそうとして笑ってみるけれど、二人はぎこちないまま。
 あれ……? そういえば、おばあちゃんがいない。また腰が痛くて、歩けなかったんだろうか。
 心配になった私は、あたりをきょろきょろ見渡してから、お父さんに問いかけようとする。
「ねぇ、おばあちゃんは……」
 そこまで言うと、お父さんはくもった表情を見せ、頭の中で言葉を選んでいるような間をつくった。
それだけで、何か悪い知らせがある予想がついてしまう。
「おばあちゃんが肺炎で亡くなった」
 お父さんが、予想よりはるかに最悪な言葉を言ってのけた。
 全然その言葉が頭の中に入ってこなくて、私は思わず聞き返す。
「え……?」
「起こせなくて……、ごめん」
 今度は禄が、とても苦しそうな声で謝った。
 お父さんはうつむいたまま、眉間に皺を寄せて微動だにしない。