◇◆◇◆
「ただいまぁ」
霜月が元気よく玄関の戸を開け、日本邸宅の屋敷へと入る。
「ただいま、帰りました……」
蚊の鳴くような声で、氷月も後に続く。
靴を脱ぎ、自室へと向かう途中で、葉月が腕を組み、壁に寄り掛かりながら廊下に立っていた。手にはスマホを持っているため、ここでゲームかSNSかに興じていたのだろうか。
部屋でやればいいのに、と思いながら、氷月はその前を通り過ぎるために「ただいま、帰りました」ともう一度口にする。確か葉月は高校一年。高校というものは中学よりも授業が早く終わるのだろうか。いや、テスト期間と言っていたような気もする。
背中を丸めて葉月の前を通り過ぎようとしたときに、足が何かに引っかかってしまい、ベチンと派手に転んだ。一つに結わえていた三つ編みも、床の上で蛇のように広がっていた。
それはもう、漫画のような光景である。
「ぷっ。あんたって、本当にどんくさいのね」
俯せになったままの氷月の頭上からそんな言葉が降ってきた。つまり、氷月が足を引っかけたものは、葉月の足だったのだ。
「こんなにどんくさい人間に、鬼遣いなんて務まるのかしら? お父様も、何もこんな娘をわざわざ氷月にしなくてもいいのに」
ふん、と荒く息を吐いてから、葉月は自室へと戻っていく。
わざわざ氷月にそれを言うためだけに待っていた姉には敬意を払いたいとさえ思う。放っておいてくれればいいのに、ああやって何かしら言わないと気が済まないようだ。
葉月の気配が完全に消え去ってから、氷月は両手をついて立ち上がった。
ビタンと音がしただけのことはあった。制服のスカートだけでは、その膝を守ってくれなかったらしい。ちょっとだけ膝が赤くなって、痛い。
ひょこ、ひょこと、足を引きずるようにして、氷月は自室へと向かった。
学校から戻った氷月のすることは、ある程度決まっている。といっても、義務教育を受けているのだから、中学校の宿題をすることが最優先事項。
それはいつも帰宅してから一時間以内に終えるようにと言われている。
だからといって、あの父親から言われているのではない。
長兄である卯月が氷月の行動をある程度決めている。
面倒見がいいと言えば聞こえはいいだろう。彼は中学生の氷月と霜月の宿題まで確認してくれるのだ。
いや、面倒見がいいのではない。そうやって確認をしないと霜月が宿題をやらないらしい。それは小学校のときからで「宿題はやったのか」と聞けば「やった」と返ってくるのに、実際はやっていなくて、何度も連絡帳に「宿題を忘れないようにしましょう」と書かれていたとか。
その話を聞いたときは、少しだけ霜月に親近感が湧いてしまった。
だけど、彼らにこのような感情を持つのは危険であると、氷月はわかっている。なぜなら、彼らは親切心でそのようなことをしているわけでないから。氷月のことを妹だと思って接しているわけではないから。
いつも彼らから受け取る感情は同情。
半分しか血の繋がらない姉たちに苛められていびられて、それでも逃げ出さずにここにいる彼女への哀れみ。
「おい、氷月。宿題、終わったか?」
部屋の扉をノックもせずに、こうやってひょっこりと顔を出してくるのは霜月しかいない。
彼はすでに制服から私服へと着替えたようだった。
髪型も、前髪だけツンツンと尖らせている。こうやって髪を固定させるのも、バサバサ動くのを嫌ってのこと。だけど校則上、整髪料は禁止されているため、霜月のツンツン前髪は帰宅後にセットされるのだ。
「はい……」
氷月は消え入るような声で返事をする。
「あのさ。数学の問題がさっぱりわからん。教えて」
こんなことならあの図書室で宿題をやればいいのに、と、毎日彼女は思うのだが、あのような場所で宿題をすることを霜月が嫌っていた。
宿題を教えてもらうくらいなら、氷月に鬼遣いについて教えたほうがいい、らしい。卯月が言うには、霜月の男のプライドというもののようだ。宿題を教えてもらっているところを、他人に見られたくないという。
そんな彼に苦笑しつつ、氷月は「どうぞ」と部屋に義兄を招き入れる。
彼はいつものように長方形型の座卓の前に、どしっとあぐらをかく。あぐらをかくから、座卓から足がはみ出てしまう。この態度の大きさでは、この部屋が誰の部屋であるかがわからなくなるくらいだ。
彼に気付かれないように小さく息を吐いた氷月は、彼が広げた教科書を覗き込む。そしてお決まりの「どこがわからないのですか?」という言葉を吐く。
それはいつもの決まり文句で、この言葉がなければ何も進まないのではないかと思えるくらいの言葉でもある。
するとその言葉を聞いた霜月が「ここがわからない」と素直になるから不思議なものだった。もしかしてこれは二人にとっての儀式ではないのか、と思えるほどの。
霜月はカチカチと無駄に長くシャープペンの芯を繰り出しては、長すぎたが故にそれを指で押し戻す。それを三回くらい繰り返しているのは、やはりやる気がないからなのか。
「シャープペンの芯ってさ。ちょうどいい長さにするのって、微妙に難しくね?」
まるで氷月の心の中を読んだようなタイミングでそのようなことを口にしてきた。
「そう、ですね……」
彼の言葉を否定してはいけない。
彼だけではない。この烏賀陽一族の言葉を否定してはならないのだ。
ジロリと霜月に睨まれてしまった。それは「本当にそう思っているのか」と言っているようにも見えた。
「無駄口叩くの終わり。早くしないと、卯月兄が五月蠅いからな」
「はい……」
学校から帰宅してくっきり一時間後、道場に集合することを卯月からきつく言われている。
それは中学生組の霜月と氷月が実践をこなすにはまだ早いということで、屋敷での訓練を義務付けられていた。
他の兄弟が鬼封じを義務のようにこなしている間、二人は卯月によってその力を高める訓練をしている。卯月がこの時間に中学生組みに付き合ってくれるのは、わりと時間が自由に使える立場にあるからだ。
それに、他の兄弟に意見を言える立場でもある。長姉の睦月と長兄の卯月。この二人に意見をするような兄弟たちはいない。
「やったぁ。終わったぜ」
霜月は両手を組んで真上にあげ、背を伸ばしながら、後ろにゴロンと倒れた。そのとき膝が座卓にぶつかって、座卓の上にあったシャープペンがぽろっと落ちる。
霜月はそれに気付いていないのか、身体を伸ばした状態で転がり、仰向けになって天井を見つめていた。
そんな義兄の様子を見ていた氷月だが、そろそろ卯月との約束の時間が迫ってきていることに気付く。
「あの、霜月兄さん。そろそろお時間ですが……」
「はぁ。もう、そんな時間? 卯月兄ってさ、絶対にドSだよな。俺たちをいたぶって喜んでんの」
はぁ、と霜月からため息が聞こえた。五歳から鬼遣いをやっている霜月でさえそう思うと言うことは、卯月の訓練というのはよほど厳しいものなのだろう。
「しゃあない。そろそろ行くとしますか」
そう言った霜月はガバリと勢いよく起き上がると、また座卓がガタンと動いた。
せっかく拾ったシャープペンもまたコロンと落ちてしまう。それを霜月が踏んでしまう前に、氷月は手を伸ばしてそれを拾い、再び座卓の上に置いてから立ち上がる。
「あれ? 氷月。足、どうかしたのか?」
それは少し引きずるようにして歩いていたからだろう。先ほど派手に転んで膝をぶつけてしまったからか、歩き方に気を付けないと痛みが走る。
「あの……。先ほど、転んでしまって……」
「転ぶ? 家に帰ってきてからか? たったそれだけの時間で、歩くのに支障が出るほどの転び方をしたのか?」
いきなり霜月はぷぷっと吹き出した。氷月が転んだところでも想像したのだろうか。
「こんな何もないようなところで転ぶなんて、本当に器用な奴だな。違うか。どんくさい奴か」
どんくさい。それがこの家での氷月の評価だ。
一生、どんくさい女でいいやと、氷月はそう思っていた。
「ただいまぁ」
霜月が元気よく玄関の戸を開け、日本邸宅の屋敷へと入る。
「ただいま、帰りました……」
蚊の鳴くような声で、氷月も後に続く。
靴を脱ぎ、自室へと向かう途中で、葉月が腕を組み、壁に寄り掛かりながら廊下に立っていた。手にはスマホを持っているため、ここでゲームかSNSかに興じていたのだろうか。
部屋でやればいいのに、と思いながら、氷月はその前を通り過ぎるために「ただいま、帰りました」ともう一度口にする。確か葉月は高校一年。高校というものは中学よりも授業が早く終わるのだろうか。いや、テスト期間と言っていたような気もする。
背中を丸めて葉月の前を通り過ぎようとしたときに、足が何かに引っかかってしまい、ベチンと派手に転んだ。一つに結わえていた三つ編みも、床の上で蛇のように広がっていた。
それはもう、漫画のような光景である。
「ぷっ。あんたって、本当にどんくさいのね」
俯せになったままの氷月の頭上からそんな言葉が降ってきた。つまり、氷月が足を引っかけたものは、葉月の足だったのだ。
「こんなにどんくさい人間に、鬼遣いなんて務まるのかしら? お父様も、何もこんな娘をわざわざ氷月にしなくてもいいのに」
ふん、と荒く息を吐いてから、葉月は自室へと戻っていく。
わざわざ氷月にそれを言うためだけに待っていた姉には敬意を払いたいとさえ思う。放っておいてくれればいいのに、ああやって何かしら言わないと気が済まないようだ。
葉月の気配が完全に消え去ってから、氷月は両手をついて立ち上がった。
ビタンと音がしただけのことはあった。制服のスカートだけでは、その膝を守ってくれなかったらしい。ちょっとだけ膝が赤くなって、痛い。
ひょこ、ひょこと、足を引きずるようにして、氷月は自室へと向かった。
学校から戻った氷月のすることは、ある程度決まっている。といっても、義務教育を受けているのだから、中学校の宿題をすることが最優先事項。
それはいつも帰宅してから一時間以内に終えるようにと言われている。
だからといって、あの父親から言われているのではない。
長兄である卯月が氷月の行動をある程度決めている。
面倒見がいいと言えば聞こえはいいだろう。彼は中学生の氷月と霜月の宿題まで確認してくれるのだ。
いや、面倒見がいいのではない。そうやって確認をしないと霜月が宿題をやらないらしい。それは小学校のときからで「宿題はやったのか」と聞けば「やった」と返ってくるのに、実際はやっていなくて、何度も連絡帳に「宿題を忘れないようにしましょう」と書かれていたとか。
その話を聞いたときは、少しだけ霜月に親近感が湧いてしまった。
だけど、彼らにこのような感情を持つのは危険であると、氷月はわかっている。なぜなら、彼らは親切心でそのようなことをしているわけでないから。氷月のことを妹だと思って接しているわけではないから。
いつも彼らから受け取る感情は同情。
半分しか血の繋がらない姉たちに苛められていびられて、それでも逃げ出さずにここにいる彼女への哀れみ。
「おい、氷月。宿題、終わったか?」
部屋の扉をノックもせずに、こうやってひょっこりと顔を出してくるのは霜月しかいない。
彼はすでに制服から私服へと着替えたようだった。
髪型も、前髪だけツンツンと尖らせている。こうやって髪を固定させるのも、バサバサ動くのを嫌ってのこと。だけど校則上、整髪料は禁止されているため、霜月のツンツン前髪は帰宅後にセットされるのだ。
「はい……」
氷月は消え入るような声で返事をする。
「あのさ。数学の問題がさっぱりわからん。教えて」
こんなことならあの図書室で宿題をやればいいのに、と、毎日彼女は思うのだが、あのような場所で宿題をすることを霜月が嫌っていた。
宿題を教えてもらうくらいなら、氷月に鬼遣いについて教えたほうがいい、らしい。卯月が言うには、霜月の男のプライドというもののようだ。宿題を教えてもらっているところを、他人に見られたくないという。
そんな彼に苦笑しつつ、氷月は「どうぞ」と部屋に義兄を招き入れる。
彼はいつものように長方形型の座卓の前に、どしっとあぐらをかく。あぐらをかくから、座卓から足がはみ出てしまう。この態度の大きさでは、この部屋が誰の部屋であるかがわからなくなるくらいだ。
彼に気付かれないように小さく息を吐いた氷月は、彼が広げた教科書を覗き込む。そしてお決まりの「どこがわからないのですか?」という言葉を吐く。
それはいつもの決まり文句で、この言葉がなければ何も進まないのではないかと思えるくらいの言葉でもある。
するとその言葉を聞いた霜月が「ここがわからない」と素直になるから不思議なものだった。もしかしてこれは二人にとっての儀式ではないのか、と思えるほどの。
霜月はカチカチと無駄に長くシャープペンの芯を繰り出しては、長すぎたが故にそれを指で押し戻す。それを三回くらい繰り返しているのは、やはりやる気がないからなのか。
「シャープペンの芯ってさ。ちょうどいい長さにするのって、微妙に難しくね?」
まるで氷月の心の中を読んだようなタイミングでそのようなことを口にしてきた。
「そう、ですね……」
彼の言葉を否定してはいけない。
彼だけではない。この烏賀陽一族の言葉を否定してはならないのだ。
ジロリと霜月に睨まれてしまった。それは「本当にそう思っているのか」と言っているようにも見えた。
「無駄口叩くの終わり。早くしないと、卯月兄が五月蠅いからな」
「はい……」
学校から帰宅してくっきり一時間後、道場に集合することを卯月からきつく言われている。
それは中学生組の霜月と氷月が実践をこなすにはまだ早いということで、屋敷での訓練を義務付けられていた。
他の兄弟が鬼封じを義務のようにこなしている間、二人は卯月によってその力を高める訓練をしている。卯月がこの時間に中学生組みに付き合ってくれるのは、わりと時間が自由に使える立場にあるからだ。
それに、他の兄弟に意見を言える立場でもある。長姉の睦月と長兄の卯月。この二人に意見をするような兄弟たちはいない。
「やったぁ。終わったぜ」
霜月は両手を組んで真上にあげ、背を伸ばしながら、後ろにゴロンと倒れた。そのとき膝が座卓にぶつかって、座卓の上にあったシャープペンがぽろっと落ちる。
霜月はそれに気付いていないのか、身体を伸ばした状態で転がり、仰向けになって天井を見つめていた。
そんな義兄の様子を見ていた氷月だが、そろそろ卯月との約束の時間が迫ってきていることに気付く。
「あの、霜月兄さん。そろそろお時間ですが……」
「はぁ。もう、そんな時間? 卯月兄ってさ、絶対にドSだよな。俺たちをいたぶって喜んでんの」
はぁ、と霜月からため息が聞こえた。五歳から鬼遣いをやっている霜月でさえそう思うと言うことは、卯月の訓練というのはよほど厳しいものなのだろう。
「しゃあない。そろそろ行くとしますか」
そう言った霜月はガバリと勢いよく起き上がると、また座卓がガタンと動いた。
せっかく拾ったシャープペンもまたコロンと落ちてしまう。それを霜月が踏んでしまう前に、氷月は手を伸ばしてそれを拾い、再び座卓の上に置いてから立ち上がる。
「あれ? 氷月。足、どうかしたのか?」
それは少し引きずるようにして歩いていたからだろう。先ほど派手に転んで膝をぶつけてしまったからか、歩き方に気を付けないと痛みが走る。
「あの……。先ほど、転んでしまって……」
「転ぶ? 家に帰ってきてからか? たったそれだけの時間で、歩くのに支障が出るほどの転び方をしたのか?」
いきなり霜月はぷぷっと吹き出した。氷月が転んだところでも想像したのだろうか。
「こんな何もないようなところで転ぶなんて、本当に器用な奴だな。違うか。どんくさい奴か」
どんくさい。それがこの家での氷月の評価だ。
一生、どんくさい女でいいやと、氷月はそう思っていた。