――鬼は気であり、気は鬼である――
◇◆◇◆
(お、お母さん)
目の前に転がっている血まみれの肢体。
「お、お母さんっ」
駆け寄ってそれに手を触れようとしたところ、誰かに止められたような気がする。気がするのは、そこで記憶が途切れてしまったからだ。
気づいたら自宅のベッドで眠っていて。
目を開けたら見慣れた天井が目に入って。
ぼんやりとしていたら、階下がざわざわしている音が聞こえてきて。
ゆっくりとベッドからおりて、階段を下りる。
いつも祖父母と母がいたリビングへ行こうかと思ったけれど、そこになぜかたくさんの人がいる気配がして、そのリビングへ入るのを躊躇っていたら、ちょうどお手洗いから戻ってきた祖母とばったりとそこで会ってしまった。
「あら、目が覚めたのね。あなたはここにいないほうがいいわね。あとでお部屋に行くから、飲み物でも持って部屋に行っていなさい。ちょっと待ってなさいね」
祖母が階下にある食料庫から、適当なペットボトルと栄養補助食品を手渡すと部屋に戻るように、と背中を押された。
とにかく自分がそこにいないほうがいいということだけはわかった。その場所は大人の世界なのだ。小学生である自分がいていい場所ではないらしい。
渡されたペットボトル飲料は、スポーツ飲料とお茶の二本。二階にもお手洗いはあるし、むしろ自室だし。お腹空いたとも思ったけれど、不思議と食欲もなく。手渡された栄養補助食品の箱に手をかけ、ビスケットタイプのそれをかじった。
(何が、あったのだろうか……)
そこからの記憶は曖昧だった。
いつの間にか黒い服を着せられ、胸元まである髪は、一本の三つ編みにされ黒いリボンで結ばれた。
この場所は知っている。火葬場、と呼ばれる場所。
青い空にくねりながら白い煙が昇っていく。
母であったモノは、骨になっていた。それを骨壺に納めると、その骨壺はほんのりとまだ温かかった。焼かれた骨だから温かいのだ。遺影の中の母は仄かに笑っていた。
その日のうちに納骨も終え、祖父母と住んでいる自宅に戻ってきた。
だが、自宅の前には黒光する高級そうな車が止まっていた。
祖父母は先に自宅へと入っていく。だけど、なぜか自分だけはその車の前から動けずにいた。全身が震えそうになりながらも、ただその場に突っ立っていることしかできない。
車の中から黒い服の男が出てきた。
目が合った。
逃げなければ――と本能的に悟った。
だが、男は満足に笑うと車に乗り込んで去っていった。それは時間にしてほんの数秒の出来事。
どっと身体中から嫌な汗が噴き出したが、気持ちを落ち着かせて自宅へと向かう。
その男と再会したのは小学校の卒業式だった。祖父母と記念写真を撮っていた時に現れたのが烏賀陽朔という男。彼の姿を見た時の祖父母の怯えた顔を今でも覚えている。
「お前が朝陽の娘だな」
朝陽は母親の名前。
コクンと頷けば腕を掴まれて無理矢理黒い車の中に押し込められた。
(人攫い?)
祖父母が黒い男に向かって何か喚いていた。だが、あきらめたのかすぐ静かになり、家の方に向かって歩き出す。
「お前は今日から、烏賀陽氷月だ。今までの名前は、全ての者たちから奪った。誰もお前の名前を知らない」
隣に乗り込んできた黒い男が言う。
「違う。私の名前は――」
言いかけて、やめた。
(あれ? 私の名前、なんだっけ?)
「お前の名前は氷月だ」
男は繰り返しそう囁く。
(そうだ、私の名前は、氷月……)
この日、一人の少女が名前を失い、新しい名を与えられた。
◇◆◇◆
(お、お母さん)
目の前に転がっている血まみれの肢体。
「お、お母さんっ」
駆け寄ってそれに手を触れようとしたところ、誰かに止められたような気がする。気がするのは、そこで記憶が途切れてしまったからだ。
気づいたら自宅のベッドで眠っていて。
目を開けたら見慣れた天井が目に入って。
ぼんやりとしていたら、階下がざわざわしている音が聞こえてきて。
ゆっくりとベッドからおりて、階段を下りる。
いつも祖父母と母がいたリビングへ行こうかと思ったけれど、そこになぜかたくさんの人がいる気配がして、そのリビングへ入るのを躊躇っていたら、ちょうどお手洗いから戻ってきた祖母とばったりとそこで会ってしまった。
「あら、目が覚めたのね。あなたはここにいないほうがいいわね。あとでお部屋に行くから、飲み物でも持って部屋に行っていなさい。ちょっと待ってなさいね」
祖母が階下にある食料庫から、適当なペットボトルと栄養補助食品を手渡すと部屋に戻るように、と背中を押された。
とにかく自分がそこにいないほうがいいということだけはわかった。その場所は大人の世界なのだ。小学生である自分がいていい場所ではないらしい。
渡されたペットボトル飲料は、スポーツ飲料とお茶の二本。二階にもお手洗いはあるし、むしろ自室だし。お腹空いたとも思ったけれど、不思議と食欲もなく。手渡された栄養補助食品の箱に手をかけ、ビスケットタイプのそれをかじった。
(何が、あったのだろうか……)
そこからの記憶は曖昧だった。
いつの間にか黒い服を着せられ、胸元まである髪は、一本の三つ編みにされ黒いリボンで結ばれた。
この場所は知っている。火葬場、と呼ばれる場所。
青い空にくねりながら白い煙が昇っていく。
母であったモノは、骨になっていた。それを骨壺に納めると、その骨壺はほんのりとまだ温かかった。焼かれた骨だから温かいのだ。遺影の中の母は仄かに笑っていた。
その日のうちに納骨も終え、祖父母と住んでいる自宅に戻ってきた。
だが、自宅の前には黒光する高級そうな車が止まっていた。
祖父母は先に自宅へと入っていく。だけど、なぜか自分だけはその車の前から動けずにいた。全身が震えそうになりながらも、ただその場に突っ立っていることしかできない。
車の中から黒い服の男が出てきた。
目が合った。
逃げなければ――と本能的に悟った。
だが、男は満足に笑うと車に乗り込んで去っていった。それは時間にしてほんの数秒の出来事。
どっと身体中から嫌な汗が噴き出したが、気持ちを落ち着かせて自宅へと向かう。
その男と再会したのは小学校の卒業式だった。祖父母と記念写真を撮っていた時に現れたのが烏賀陽朔という男。彼の姿を見た時の祖父母の怯えた顔を今でも覚えている。
「お前が朝陽の娘だな」
朝陽は母親の名前。
コクンと頷けば腕を掴まれて無理矢理黒い車の中に押し込められた。
(人攫い?)
祖父母が黒い男に向かって何か喚いていた。だが、あきらめたのかすぐ静かになり、家の方に向かって歩き出す。
「お前は今日から、烏賀陽氷月だ。今までの名前は、全ての者たちから奪った。誰もお前の名前を知らない」
隣に乗り込んできた黒い男が言う。
「違う。私の名前は――」
言いかけて、やめた。
(あれ? 私の名前、なんだっけ?)
「お前の名前は氷月だ」
男は繰り返しそう囁く。
(そうだ、私の名前は、氷月……)
この日、一人の少女が名前を失い、新しい名を与えられた。