「……由良?」
初めのうち、それが本当に由良の番号で由良の声であることがうまく呑み込めなかった。
もう何日も電話はおろかメールさえ交わさなかった。その時間はひどく重かった。
どうして今になって、電話を寄越してきたのだろう。
なぜか喜びは抑制されていた。彼女からの電話を喜べない状況ってあるんだな。いや、もはや俺たちは恋人ではないのかもしれないけれど。
「声が聞きたくなったの」
由良は普段のあの高いトーンではなく、落ち着いた、どことなく憂いを帯びた口調で語りかけた。
別人のようだ。
「俺にはもう用はないだろ」
自然と口から飛び出していたのは、あたかも切り捨てるかのような冷たい言葉。
だって、由良にとって俺はただの免疫調査の対象でしかないのだから。髪の毛も唾液も採取した今、用事などあるはずがない。
だが自分から電話を切ることはできなかった。
「伝えなくちゃいけないことがあって」
由良の声は真剣だった。
「どうせろくでもないことだろ」
ああ、そうか。
そこで全てを悟った。
彼女は俺に、検査の結果を伝えようとしている――。
「あなたの体は確実に蝕まれていっています。ウイルスは我々の計算以上の速度で進化を遂げているの」
涙は出なかった。
由良の身に降りかかる災厄には涙を浮かべることができるのに、なぜだか、自分の死の予感には涙が湧かない。
もう分かっていたから? 覚悟ができているから?
違う。実感がないだけだ。現実味がないのだ。
宿題を捨てたあの日だって、結局本気では信じてはいなかったのだ。
世界の終わりを。人類の終わりを。
「ニュースではかれこれこの3日間、この町はもちろん、世界中に視野を広げても、死者は急増していると伝えられています。他のほ乳類に目を向けても同じことです。でも政治家やマスコミは肝心なことを伝えてはいません――“確実に”もうあなたがた人類は滅亡するのです」
人類ではない由良の放つ“あなたがた人類”という言葉は重く冷たかった。鉈のように俺の胸を叩き潰す。
――俺と由良との間にある壁は、こんなにも分厚いんだ。
一番哀しいことがあるとしたらそれだ。
俺が死んでも、人類全てが滅んでも、由良は滅びず生き続ける。
それが最初から定められた宿命なんだ。
いくら俺が由良千景を一人の人間として扱ったところで、それは揺るぎない残酷な真実。
近づけない。触れられない。
二人の間にある境界線。
鉈はまた、振り上げられて、
「大事なことを伝えます――トータくんの場合、残り24時間の命です」
俺の首根っこを直撃した。ひとたまりもなかった。
泣き叫びたかった。当たり散らしたかった。まだ生きたいんだ、と叫びたかった。
でもそれをすれば負けのような気がした。
心のどこかではまだ俺はこの世界の永続を信じている。
根拠もなく、愚かな人類の思考回路を、由良に見せ続けていた。
俺の沈黙はきっと由良にそう伝わっている。とても賢い女の子だから。
余命宣告。
体のどこにも違和感がないのにも関わらず下されるそれは、あまりにもファンタジーに近いものだった。
「……これを伝えることが、お前の使命だもんな」
絞り出した声は、カラカラに乾いていた。
「南野灯太っっ!!」
「急に大きな声出すなよ」
トーン変わりすぎだぞ。
「学校の宿題を全部捨てたあなたに、新たな宿題を出します!」
「宿題?」
この24時間で?
由良の出した宿題は、極めて単純なことだった。だって俺たちはまだ恋人同士だから。
「その最後の24時間、私に預けてくれませんか」
「……また検査するのか?」
「違うよっ」
あれ、怒った?
「今まで私にとって人類とは、ただの調査対象でしかなかった。対等に向き合う存在じゃなかった。人類が私を道具としてしか見なしていなかったように、私も人類を対象として、もののようにしか捉えてこなかった」
俺はつばを飲み込むことさえできなかった。
電話越しに聞こえる由良の一声一声を、息づかいを、確実に耳に入れたくて。つばを飲み込む音さえもがじゃまなのだ。
「あなたは私をアンドロイドとしてではなく、対等にヒトとして扱ってくれた。だから私はその気持ちに応えたい。あなたと私、という純粋な関係性で、残りのわずかな時間を過ごしたい」
それは由良千景という人類ならざるものから俺に出された、ラブコールだった。
これまでの冗談のような愛の告白とは違う、正真正銘の愛の言葉だった。
初めのうち、それが本当に由良の番号で由良の声であることがうまく呑み込めなかった。
もう何日も電話はおろかメールさえ交わさなかった。その時間はひどく重かった。
どうして今になって、電話を寄越してきたのだろう。
なぜか喜びは抑制されていた。彼女からの電話を喜べない状況ってあるんだな。いや、もはや俺たちは恋人ではないのかもしれないけれど。
「声が聞きたくなったの」
由良は普段のあの高いトーンではなく、落ち着いた、どことなく憂いを帯びた口調で語りかけた。
別人のようだ。
「俺にはもう用はないだろ」
自然と口から飛び出していたのは、あたかも切り捨てるかのような冷たい言葉。
だって、由良にとって俺はただの免疫調査の対象でしかないのだから。髪の毛も唾液も採取した今、用事などあるはずがない。
だが自分から電話を切ることはできなかった。
「伝えなくちゃいけないことがあって」
由良の声は真剣だった。
「どうせろくでもないことだろ」
ああ、そうか。
そこで全てを悟った。
彼女は俺に、検査の結果を伝えようとしている――。
「あなたの体は確実に蝕まれていっています。ウイルスは我々の計算以上の速度で進化を遂げているの」
涙は出なかった。
由良の身に降りかかる災厄には涙を浮かべることができるのに、なぜだか、自分の死の予感には涙が湧かない。
もう分かっていたから? 覚悟ができているから?
違う。実感がないだけだ。現実味がないのだ。
宿題を捨てたあの日だって、結局本気では信じてはいなかったのだ。
世界の終わりを。人類の終わりを。
「ニュースではかれこれこの3日間、この町はもちろん、世界中に視野を広げても、死者は急増していると伝えられています。他のほ乳類に目を向けても同じことです。でも政治家やマスコミは肝心なことを伝えてはいません――“確実に”もうあなたがた人類は滅亡するのです」
人類ではない由良の放つ“あなたがた人類”という言葉は重く冷たかった。鉈のように俺の胸を叩き潰す。
――俺と由良との間にある壁は、こんなにも分厚いんだ。
一番哀しいことがあるとしたらそれだ。
俺が死んでも、人類全てが滅んでも、由良は滅びず生き続ける。
それが最初から定められた宿命なんだ。
いくら俺が由良千景を一人の人間として扱ったところで、それは揺るぎない残酷な真実。
近づけない。触れられない。
二人の間にある境界線。
鉈はまた、振り上げられて、
「大事なことを伝えます――トータくんの場合、残り24時間の命です」
俺の首根っこを直撃した。ひとたまりもなかった。
泣き叫びたかった。当たり散らしたかった。まだ生きたいんだ、と叫びたかった。
でもそれをすれば負けのような気がした。
心のどこかではまだ俺はこの世界の永続を信じている。
根拠もなく、愚かな人類の思考回路を、由良に見せ続けていた。
俺の沈黙はきっと由良にそう伝わっている。とても賢い女の子だから。
余命宣告。
体のどこにも違和感がないのにも関わらず下されるそれは、あまりにもファンタジーに近いものだった。
「……これを伝えることが、お前の使命だもんな」
絞り出した声は、カラカラに乾いていた。
「南野灯太っっ!!」
「急に大きな声出すなよ」
トーン変わりすぎだぞ。
「学校の宿題を全部捨てたあなたに、新たな宿題を出します!」
「宿題?」
この24時間で?
由良の出した宿題は、極めて単純なことだった。だって俺たちはまだ恋人同士だから。
「その最後の24時間、私に預けてくれませんか」
「……また検査するのか?」
「違うよっ」
あれ、怒った?
「今まで私にとって人類とは、ただの調査対象でしかなかった。対等に向き合う存在じゃなかった。人類が私を道具としてしか見なしていなかったように、私も人類を対象として、もののようにしか捉えてこなかった」
俺はつばを飲み込むことさえできなかった。
電話越しに聞こえる由良の一声一声を、息づかいを、確実に耳に入れたくて。つばを飲み込む音さえもがじゃまなのだ。
「あなたは私をアンドロイドとしてではなく、対等にヒトとして扱ってくれた。だから私はその気持ちに応えたい。あなたと私、という純粋な関係性で、残りのわずかな時間を過ごしたい」
それは由良千景という人類ならざるものから俺に出された、ラブコールだった。
これまでの冗談のような愛の告白とは違う、正真正銘の愛の言葉だった。